愛の本質は尊敬である


茨木昭雄という名の作家がいた。主に戦国時代までの日本の武士や中国の三国志を中心とした物語を発表している重厚で骨太な作風が売りの作家である。
近頃フランス文学の影響を受けて「現実を赤裸々に暴露する」いわゆる自然主義文学の動きが活発な中で、ある意味世の流行りの逆を行く作家と言えた。
その茨木昭雄には、ごく限られた人間しか知らない秘密があった。


旭川市内のとある民家。とくにこれと言って特筆すべき点のないそこに、鯉登は意気揚々と団子を片手に訪れていた。戸の前に立ち、手鏡でささっと前髪を直すと「ンンッ」と咳ばらいをしてからこんこんこんと戸を叩いた。

「はいはーい」

中から若い女の声がして、がたがたっと戸が開かれる。ひょっこり顔を出したのは簡素な着物姿の女で、黒く大きな目が特徴的だった。

「鯉登さん、いらっしゃい。今日はお休みですか?」
「ああ、近くを通ったからな。土産だ」
「まぁお団子。よかったら上がって行ってください」

女はにっこりと笑い、鯉登を家に招き入れた。三和土で軍靴を脱ぎ、部屋へ上がる。大豪邸とは言わないが、それなりの広さをもつこの家屋にはこの女ひとりっきりしか住んでいなかった。
小さな背について行くと居間に通される。初めは客間だったのが居間になったというのは彼女との距離が縮まったようでくすぐったかった。

「寛いでいてくださいね、いまお茶を淹れてきますから」
「ああ、すまんな」

鯉登はそう言われ、慣れた様子で座布団の上に座った。
ちゃぶ台には今日の新聞と数冊の分厚い本が置かれている。相変わらず勉強熱心な女である。
そのうちに心地のいい煎茶の香りが漂って、急須と湯呑を持った彼女が居間へと戻ってきた。

「はいどうぞ。最近いただいた宇治のちょっといいお茶なんですよ」
「ん。確かに香りがいいな」
「ふふ、でも鯉登さんのお郷もお茶が有名ですから、そう珍しくないですかね」

ことっとささやかな音を立てて湯呑をちゃぶ台に置く。薄緑が小さな器の中でゆらゆらと揺れた。

「知覧か。確かにあそこも茶の生産は盛んだが、宇治とはまた違うぞ」
「そうなんですか?知覧のお茶って飲んだことないです」

鯉登の郷里である薩摩のなかでも、知覧では明治の始めに村民が開墾を進め近頃その品質の良さに知名度を得始めているのだ。薩摩の新しい産業であった。
鯉登は配された湯呑をそっと持ち上げ、ずずっと茶を啜る。独特の青く爽やかな香りが鼻から抜けていった。

「ナマエの淹れる茶は美味いな」
「お茶っ葉がいいからですよ」
「こういう時は素直に褒められておけ」

鯉登がそう言うと、女は「ありがとうございます」と返して自分の湯呑を持ち上げる。白魚のような手が傾き、そのささやかな動きにさえ心臓どくどくと鳴った。

「つ、次の新作はどうだ?」
「ふふふ、もう少しで書きあがりますよ」
「そうかそうか、楽しみだな」

話を逸らそうと試みたが、あまり上手くはいかなかった。元々べつに特別女性が苦手というわけでもないのに、どうしてだか彼女の前では上手くいかない。
いや、どうしてだかというのは語弊がある。それは彼女のことを好いているからに他ならない。


半年ほど前、とある事件が発生した。
民家に殺人犯が立てこもるという事件が起きたのだ。事件そのものは警察が解決したが、その犯人というのが軍に繋がりのある人間だったために現状を確認してこいとのお達しが出された。

「つ、月島ぁ!被害者のお宅が茨木先生のご自宅というのは本当か!?」
「ええ、小説家の茨木昭雄の自宅だと聞いています」
「キェェェェッ!」

鯉登が猿叫し、隣で月島が無表情を貫く。このやりとりは既にこの任務が出されてから三回目である。
被害者から事件の聴取してくるよう命令を下されたのは鯉登であり、月島がそれに付き従うことになった。
師団通りからそう離れていないその民家に辿り着き、道中ずっと落ち着きのなかった鯉登は輪をかけてソワソワとし始める。

「鯉登少尉殿、シャンとしてください。戸を叩きますよ」
「ちょ、ちょっとまて!」

月島をそう止め、鯉登は懐から手鏡を出すとササッと前髪を直す。それからぱたぱたと身支度を整え直し、月島に向かって頷いた。
月島は今度こそ戸をこんこんこん、と叩いて家人を呼び出す。

「はい、どちらさまですか?」
「第七師団から参りました。先日の殺人犯押し込みの件でお話を伺いたいのですが」

月島の呼びかけに、戸ががららっと開く。中から顔を出したのは年若い女であった。
髪を丁寧にまとめ上げ、身綺麗にしている様子はそれなりの生活をしているように思える。
憧れの茨木昭雄の奥方だろうか、と考えながら鯉登は女に名乗った。

「第七師団の鯉登です。こちらは私の補佐をしている月島といいます。突然のご訪問で恐縮ですが、お話を伺えますか」
「ええ、もちろんです。どうぞ中へ」

女にそう言われ、二人はぺこりと会釈をすると三和土で軍靴を脱いで家に上がる。そのまま客間に通され、上等な座布団に正座をして茨木昭雄の到着を待った。
女は湯呑のみっつ乗った盆を手に客間に現れ、鯉登の前にひとつ、月島の前にひとつ、自分の前にひとつ置いて下座に座る。
はて、茨木先生の分は何故ないのだろうか。

「あの、奥方、茨木昭雄先生はどちらに…?」
「茨木昭雄は私ですが」

は?と、間抜けな声が転がり落ち、女はニコニコと笑っていた。
女、そう、女だ。目の前にいるのはどう見ても女であり、まさか昭雄なんて名前の男には到底見えない。

「ミョウジナマエと言います。茨木昭雄は私の筆名です」
「なっ!茨木先生が女!?あの茨木先生が!?」
「私の作品を知ってくださっているんですか?」

きんっと響いた鯉登の声にナマエは少しも驚かず、穏やかにそう返して見せた。
一方の鯉登は混乱の極みである。あの骨太な歴史小説を書く尊敬する「茨木昭雄」は、その実女であったなんて想像もしたことがなかった。

「ど、どうして男の振りなど…」
「振り、というよりも、男の名前のほうが都合がよいのです。女の書いた歴史小説などだれもご興味ないでしょう」

騙された、と感じた。いや、これはただの言いがかりだが、きっと茨木昭雄はいくつもの時代において造詣が深く、また当時の様々な事象を事細かに考証し、それに足るだけの説得力を持った文章で重厚な作品に仕上げる人物だと、つまるところ作品と同様の「骨太な男」だと想像していたのだ。

「なにか?」
「い、いえ…まさか茨木先生が女性だとは…」

鯉登は思わずしどろもどろになり、反対に#ナマエはどんどんと芯を持って行くようだった。
ナマエは一度スっと立ち上がると、近くの書棚から一冊の本を持ってちゃぶ台のところまで戻る。

「茨木昭雄が男だとしても女だとしても、作品の本質が変わることはありません。もしよろしければ、次回作も読んで下さいましね」

差し出されたのはまだ書店で見かけたことのない四六判の文芸書だった。表紙には「赤穂四十七士伝」と書かれている。恐らく茨木昭雄の最新の作品なのだろう。
鯉登はそろりそろりと差し出された文芸書に手を伸ばす。指が触れてしまいそうな刹那、ずしっと文芸書の重みが手に伝わった。

「…鯉登少尉殿、例の件を」
「む、あっ…ああ、そうだな…」

惚けているところを横から月島に指摘され、鯉登は慌てて本題へと入る。聴取するように言われた事柄をひとつひとつ尋ねれば、ナマエはそれらすべてに知りうる情報を丁寧に答えていった。


それ以降、事件に遭った被害者なのだから時おり様子を見てやらねばならない、と勝手に理由をつけ、鯉登は足繁くナマエの家に通った。
茨木昭雄が女だったと知った瞬間の「騙された」という感情はすぐに消えていったし、男ではないだけで歴史への造詣の深さも考証への勤勉さも鯉登の想像した通りの人物であったから、今度はどんどん彼女に惹かれていくようになった。

「どうして、茨木昭雄という名前を選んだんだ?」

敬語がすっかり抜けたころ、そんな疑問が頭をもたげた。
彼女の名字はミョウジで、名前はナマエ。名字は違うし、言葉遊びのようにも思えない。なにか関連付けるにしては何も関連が見えて来ず、理由がさっぱり分からなかった。
もっと率直に言えば、誰か想い人やなんかの名前なのではないかと鯉登は疑った。

「茨木は、私の出身地です。大阪の。昭雄は戊辰戦争で亡くなった祖父の名前なんですよ。三国志が好きなひとで私にいろいろ教えてくれたんです」

ナマエは鯉登の心のうちなど露知らず、いつも通りの穏やかな調子で答えた。
鯉登はその回答に自分の邪推していたような男の存在がないことを知り、ホッと胸を撫でおろしながら「そうか、祖父君のお名前だったか」と相槌を打った。

「…本当は、自分の名前で書いてみたかったんですよ」

終わるかと思われた話はナマエによって予想外にも続けられた。いつもとは違う少し弱きにも聞こえる声に鯉登は首をかしげる。
ナマエは少しためらったあと、実は、と小さく告白を始めた。

「私の小説に目をつけて下さったのは祖父の古い知り合いだったんです。素晴らしい小説だけれども、女性が書いたと分かれば歴史小説は売れないから、男性の筆名をつけて発表なさいって」

明治21年、女性作家の単行本が初めて発売された。それからも徐々に女性作家の作品は世に広まっていたが、主に女性独特の感性を活かした純文学や詩歌が主流であった。
しかも世間では自然主義文学運動が活発化し、女性が書く歴史小説というものがいかに世の需要からかけ離れているかは素人目にも分かることだった。

「はじめて鯉登さんと会った日、作品の本質は変わりませんなんて生意気なことを言いましたけれど、本当は自分で逃げたんです」
「ナマエ…」

いつもは穏やかで堂々としているのに、指先は頼りなく手遊びをして瞳は下方に投げられた。
励ましたい。何か彼女のために言葉をかけてやりたい。

「私はナマエの小説が好きだ」

鯉登の口から飛び出たのは率直で飾り気のない言葉だった。ナマエがその言葉にそろりそろりと視線を上げる。やがて鯉登のまっすぐな瞳とかち合った。

「茨木昭雄先生が女だったと知ったときは驚いたが、知った後に読んでも面白いものは面白い。それにナマエと話をするうちに想像通りの熱心な勉強家だとわかった。造詣の深さや考証への勤勉さも男だとか女だとかそんなことは関係なく、ナマエ自身の持つものだろう」

その後も鯉登は、いかにして自分が茨木昭雄の本に出逢い、心を動かされ、茨木昭雄に尊敬の念を抱いていたかをつまびらかに語っていく。
それを嬉しくも思ったが、熱烈な言葉の数々にナマエは顔がかぁっと熱くなるのを感じた。

「…まるで愛の告白みたいですね」
「あっ…!そ、そう言うわけでは…その!」

ナマエに言われ顧みた自分の言葉が、指摘されればそうとしか思えず、鯉登は言い訳をしなければとあたふた言葉を探す。
探したところで、結局のとこを下敷きに彼女への思慕を伴う言葉なのだから、言い訳の言葉など探せようはずもなかった。

「そうなんだが今ではなくてだな!もっとちゃんと言葉を選んで言うはずで!その…!」

方向性を間違え、結局愛の告白の方向に大きく舵きりをする言葉がだらだらと漏れ、しかし本心なのだから仕方がなかった。
それを聞いたナマエがはにかんだように頬を緩め「ありがとうございます」と告げた。

「キッキェェェェッ!!」

鯉登の猿叫がこだまして、ポンっと真っ赤になった彼らしさに思わず少しだけ笑った。


宇治茶を啜って団子を囲む。甘いものが好きだと聞いてから、鯉登はナマエの家を訪れるたびに必ず何か甘味を土産と称して持ってきていた。

「鯉登さん、お土産持ってきてくださらなくてもいいんですよ?」
「べ、べつにたまたまだ!ここに来るまでの間に売っていたから…」
「…このお団子屋さん、うちとは反対側のお店なのに?」

うっと言葉に詰まる。彼女の言う通り、この団子はこの家とは反対側に位置する人気店のもので、ナマエのためにわざわざ買って持ってきたのだった。
悪いことをしたというわけでもないのに鯉登は少し気まずくなって視線を泳がせて、ナマエはその様子をくすくすと笑った。

「そう言えばどうでしたか、この前雑誌に寄稿した小説」
「素晴らしかったぞ、相変わらず時代考証が丁寧でまるでその土地の人間が書いたみたいな情景描写だった」

小説の感想に話が切り替わり、そうなればいきいきと話すことができた。茨木昭雄の愛読者であることはずっと変わらず、むしろその強さはどんどん増していくように思えた。
最近ではあんな骨太な文章で描かれる本の中の偉人が羨ましくさえ感じていた。

「…いつか、ナマエに私の話を書いてもらいたいものだ」

気が付けば、そんなことを漏らしていた。うっかり口に出てしまった言葉ではあったものの、包み隠さぬ本心でもあった。

「いやですよ」

ナマエが言った。
言葉にわりに、声は柔らかかった。ちろりとナマエを見ると、やはり嫌がっているとかそういった表情ではない。むしろ慈しみに溢れた顔であった。

「鯉登さんには長生きしてほしいですから」
「長生き?」
「はい。私、亡くなった方の物語しか書かないので、鯉登さんの物語は書きたくないです」

あんなに骨太な物語を書くくせに、ミョウジナマエという女ななかなかどうしていじらしい。こんな少し捻くれた言い回しさえも可愛らしいと思うのだから、もう抜け出せないくらい彼女に足を絡め取られている。

「ナマエが私より長生きすればいいだろう」
「それじゃあずうっと取材しなきゃいけなくなっちゃいますけど、しわしわのおばあちゃんになるまで一緒にいてくれるんですか?」

茨木昭雄の小説の真髄は広い知識と熱心な取材にある。鯉登のことを書くのであれば、それはそれはもちろん、年老いて斃れるその日まで、そばで取材を続ける必要があるだろう。
なんて芝居めいて頭の中で言い訳を考えてみたりして、結局のところ本質はたった一つだった。

「当たり前だ」

鯉登はそう言ってナマエの袖口から伸びる白い手首を捕まえた。ナマエがあっと言う間もなく引き寄せられ、唇が触れ合ってちゅっと音を立てる。
鯉登音之進という物語を書く日がくるのならば、ナマエの名前は隣にあり続けたただ一人の女として描かれることになるのだろうと、もう一度唇を合わせながら考えていた。


戻る








- ナノ -