夏の焚き火


「ナマエさん、大丈夫?」
「へ、平気です!これくらいのこと…」

すぐ足元に濁流がけたたましく音を立てている。私は思わず「ヒィッ!」と声を上げた。杉元さんのような陸軍仕込みの屈強さもなければアシリパさんのようなアイヌの山で生きる強健さもない。
私はぬくぬくと家で育てられた身であり、日露戦争で従軍看護婦として従事したと言ってもあくまで内地での話なのである。

「少し休むかい?」
「いえ、急いで皆さんを追いかけて遅れを取り戻さないと…」

大雪山を超えて釧路まで向かう道中、私と杉元さんはアシリパさんと白石さん、尾形さんの三人と逸れた。というより、足を滑らせた私を引っ張り上げてくれようとした杉元さんを巻き込んで谷に落ちた。

「…すみません…杉元さんを巻き込んでしまって…」
「いや、むしろナマエさん一人で落ちなくてよかった」

杉元さんはずっとこうして励ましてくれている。確かに私一人で落っこちていたら今頃谷底で途方に暮れていたことだろう。
私にあるのは看護婦養成所で得た医療の心得くらいで、皆さんのように山で生き延びる術は全然未熟なままだった。

「もうすぐ日が落ちるな…開けた場所に出たらそこで野営の準備をしよう」
「はい」

正直なところ、宿なしでひっそり野宿をしたことはあるが、杉元さんたちのするようなしっかりとした野営というものは旅をし始めてから初めて経験したことだった。
町娘の惰弱な野宿と違って、ちゃんと火を起こせば温かいし、獲物を獲って調理してご飯を食べることもできる。本当に知識というものは人の身を助けるものだ。

「よし、じゃあ俺は薪をとってくるから、ナマエさんはここで荷物の番をしていてくれ」
「えっ、私もお手伝いを…」
「足、少し捻ってるんだろ?先も長いし、休めるうちに休んだ方がいい」

上手に隠せていたつもりなのに、ちっともそんなことはなかった。杉元さんにもう一度「ね」と念を押され、私は頷いてその場に残り、眠れる場所を確保しながら留守番をすることになった。

「はぁ…役立たずだ…」

せめて治療をさせてくれと言って乗り込んだ船は、まさかの金塊を探しているなんていうとんでもない船だった。
東京の赤十字病院に勤めていた私は縁あって札幌の診療所で看護婦をしていたのだけれど、そこの先生が身体を悪くして診療所を畳むということになり、次の仕事を探していた。そんなときに街中のホテルで大きな爆発を伴う火事があり、そこで杉元さんたちと出会った。
あんなに大きな爆発と家事だったのにケロッとしていらして、なんという強靭な方たちだろうと大層びっくりした。
かすり傷だと仰る皆さんにせめて手当だけでも、と申し出て、それからどうしてだか警察に追われて、軍に追われて、なし崩しに旅に同行することになったのだ。

話によると、杉元さんは北鎮部隊の皆さんとおんなじ二〇三高地で戦った第一師団の兵隊さんだったそうで、その驚異的な生命力から「不死身の杉元」と呼ばれているらしい。
実際、治療するときに身体をみせてもらって驚いた。浅いものから深いものまで無数の傷がついていて、特に首の近くにある銃創なんかはどうして生きていられるのか不思議なほどだった。

「杉元にはきっとこの世での役目が残ってるんだ。だからあれだけの傷を負っても魂が抜けることはない」

私とふたりきりの時、アシリパさんがそんなことを言っていた。この世の役目を終えると魂が抜かれてあ世に還っていくと言うのが彼女たちアイヌの考えのひとつらしい。
生かされていることには意味がある。なんて素敵な考え方だろうと私は心底彼女たちアイヌの考え方に感服した。

「私も…自分の役目果たせるかな」

看護婦養成所から赤十字病院で働いて、従軍看護婦としてお勤めをして、実家に帰って嫁に行けという両親の勧めはすべて断った。戦争で兄は二人とも死んでしまったし、私が子供を産まなければ両親は孫の顔を見ることもできない。だけど私はそれをわかっていてなお、結婚もせずに看護婦を続ける選択をしている。すべては夢のためだった。

「ナマエさんお待たせ」
「おかえりない。すみません、任せきりで」
「気にしないで。ナマエさんにはいつも助けてもらってるから」
「そんな、出来ることなんて傷の手当くらいです」
「それが何より助かってるのさ」

正直なところ、杉元さんが鬼神の如き働きを見せたという話を、私は少し前まで信じられずにいた。旭川の第七師団本部から白石さんを助け出す少し前、樺戸近くのアイヌの村に立ち寄った。そこに暮らす人々が実はアイヌを装った脱獄囚で、そこで杉元さんが大暴れしてほとんどの脱獄囚を一人で殺してしまったのだ。
私は杉元さんの苛烈な戦いを目にして初めてこの人が「不死身の杉元」であると思い知った。

「枯れ木を焚き付けてこっちに火を移そう」
「はい。この辺りで燃やしていいですか?」

私は杉元さんに渡された枯れ木にマッチで火をつけた。枯れ木は燃え尽きやすいから焚き付けにして生木を焼べる方が火が長持ちするということは杉元さんに教わったことだが、杉元さんもアシリパさんから教わったことであるらしい。彼女は本当に知識が豊富で驚かされる。

「足の具合はどうだい?」
「思っていたより平気です。少し休んでいればすぐに治るかと思います」
「ナマエさんは無理するからなぁ」
「ふふ、杉元さんに言われたくないですよ」

枯れ木についた炎が徐々に生木に移っていく。生木は煙がすごいけれど、燃える尽きるのがゆっくりになるから一晩中火の番をしなくても良いのが利点だ。
北海道の短い夏のこの時期は火がなくても凍えることはないが、やはり焚いていた方が獣などが寄り付かないから安全らしい。もうもうと煙が上がる。
太陽はいつの間にか完全に西っ側に落ちてあたりはしんと暗くなった。パチパチと木の燃える音だけがしている。
私は荷物の中から手拭いを取り出して捻った自分の足を固定するようにぐるぐると巻いた。

「相変わらず見事だよなぁ」
「そりゃ、看護婦ですから」

杉元さんは私が誰かの傷の手当をするたびに感心したようにそう言う。彼らだって緊急時のためにそこそこの応急処置の知識はあるはずなのに、毎度新鮮にそう言ってくれるから少しだけ得意な気分になる。

「…あのさ、ナマエさんって看護婦養成所出てるんだろ?赤十字病院で働いてたこともあるって聞いたし…俺が言うのもなんだけど、どうしてこんな危ない旅なんかについてこようって思ったんだい?」

不意に、杉元さんがそう問いかけた。
確かに決して上階級というわけではないけれど、私の家は看護婦養成所に通えるだけの余裕があり、事実私が働いているのだってどちらかと言えば生活のためというより社会奉仕の精神からくるものだ。
危険な旅に同行しなくたってそれなりに生きていく道はある。

「私、夢があるんです」
「夢?」

杉元さんは私の言葉を復唱した。自分の夢を誰かに語るなんて恥ずかしくてしたことがなかったから、声は少し震えてしまった。

「養成所で学べる看護婦は一握りです。いまだに市井では現場で看護を学んで従事してる看護婦がたくさんいます。私は正しく養成所で学んだ看護婦をもっと世の中に増やしたいんです」

現在の看護を学ぶ場というものは限られていて、佐野伯爵が立ち上げた赤十字病院において作られた看護婦養成所くらいなものだ。ほとんどの看護婦は病院で働きながら現場で先人に教えを請って仕事をしている状況にある。

「看護婦がもっと世の中に広く知られるように、身分に関係なく女性が医学について学べる場を作りたいんです」

看護婦養成所の席には限りがあって、そこに座れる人間というのも限られている。ならば席そのものを増やしたいというのが私の夢だった。
そのためにはいろんな障害があって、一番のそれはお金の問題だ。

「だからそのための資金に金塊の分け前をいただいて、自分で学校を作ろうって…はは、いい歳して夢の見過ぎですよね」

話していたら恥ずかしくなってしまって、私はそう言ってごにょごにょと語尾を濁らせる。私は杉元さんが何かをいう前に「笑っちゃいますよね」と先回りして言い訳を追加した。

「…いや、笑わないよ。俺はナマエさんの夢、応援する」

杉元さんが静かでいて強い声でそう言った。私は思わず下がっていた視線を上げ、すると杉元さんもこちらを見ていたものだからバチンと視線がかち合ってしまった。
焚き火の橙色の光の向こうで杉元さんの強い瞳が私を見つめる。

「あ…りがとう…ございます…」

なんとか捻り出した声はみっともないくらいささやかで、この焚き火のパチパチという音にかき消されてしまいそうなほどだった。自分の夢を肯定されるというものがこんなにも心地よく心強いことだとは知らなかった。
と、いうよりも、肯定してくれた相手が杉元さんだからということは自分でもよくわかっていた。

「…明日、合流できますかね」
「大丈夫さ。すぐに追いつけるし、何かあったら俺がナマエさんを守るよ」

杉元さんは天然でこういうことを言う。お人好しの性分だし他意なんてないのだろうとは思うけれど、言われるこっちはちゃんと受け止める準備をしておかなければ勘違いしそうになる。
顔が赤くなるような気がして、私は慌ててこの場を茶化すことで誤魔化した。

「私も杉元さん守れるくらい鍛えます!筋肉もりもりに!牛山さんくらい!」
「えぇぇ…筋肉もりもりのナマエさんはちょっとやだなぁ」
「これからの時代自分の身は自分で守れないと!」

力こぶを作ってみせ、出来もしないそれを反対の手で叩けば間抜けにぱふぱふと布を叩いた音だけがする。杉元さんはそんな私の様子を見て「ははは」と軽く笑った。

「ナマエさん俺にくらい、守られてくれよ」

だから、そういう言葉は勘違いしそうになるからやめてほしい。私は心臓がどくどく音を立て始めるのを感じ、膝を抱えてぎゅっと小さく丸まった。絶対顔が真っ赤になっていると思う。

「ナマエさん?」
「…杉元さんってすごいタラシですよね…」
「えっ、うそ、何か俺変なこと言った?」

パチパチパチ。焚き火が燃える。私は「こっちの話です」と回答を濁して生木を一本火の中に突っ込んだ。

「杉元さんが守ってくれるなら私が杉元さんを治しますから、治せる範囲の怪我で勘弁してくださいね」
「平気さ。俺は不死身だからな」

あれだけの傷を負いながらいまだ魂を抜かれずにいる彼の、役目とは一体なんなんだろうか。この旅のどこかでそれが見つかってほしいような、ほしくないような、わがままな気持ちがもうもうと立つ煙の中に混ざって登っていった。


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