僕の君


トタトタと誰かが走る音が聞こえてくる。男ばかりのこの兵営の中でこんなに軽い足音を立てる人間は一人しか思い当たらない。
そのため僕は姿勢を正すこともせず表の井戸でばちゃばちゃと洗顔を済まし、手ぬぐいで無造作にぬぐった。

「ときしげー!」

足音とともに聞こえてきたのは暢気な女の声で、本当にこの暢気さだけはずっと変わらないな、と内心考えながら濡れた手拭いを畳んだ。
足音がすぐそばまで近づいて、建物の影からひょっこりと小さい頭が顔を出す。この兵営でおさんどんをしている僕の幼馴染である。

「ナマエ、うるさいよ」
「時重、今日のお昼はカツレツだよ!」
「人の話聞いてる?」

ナマエはカツレツがよほど嬉しいのかぴょんぴょんと飛び回った。この喜び方からするに女中も今日は同じものを食べられる予定なのだろう。

「ていうか、そろそろ兵営で時重って呼ぶのやめなよね」
「えぇぇ、でも私は兵隊さんじゃないもん…」
「せめて宇佐美さんって呼べって言ってるんだよ」

つんっと鼻を摘んでやれば、痛い痛いと抗議をした。そんなに痛くしていないはずなのに大袈裟なやつだ。
ナマエは僕のことが好きで、それは公然の秘密というか周知の事実というか、とにかく今更隠すようなことではなかった。

「時重って呼びなれてるんだもん、いいじゃない」
「はぁ…お前って本当に自由だよね」

僕が溜息をついてみせても、相変わらずちっとも響く様子がなかった。


ミョウジナマエは、僕の妙な幼馴染だ。新発田の実家の隣に住んでいて、小さい頃から何かとひとまとめにして数えられた。
ナマエは僕の姉さんと仲が良く、その上あのあたりじゃ珍しく一人っ子だったから僕ら兄弟と一緒に遊んでいることが多かった。

「時重、今日は道場に行くの?」
「うん。篤四郎さんの来る日だすけ」
「そっか」

小学校では、僕と智春とナマエが三人組になった。女の友達もいたけれど、男の僕らにくっついているせいでどこか遠巻きにされていたように思う。
智春は僕と篤四郎さんの大切な時間を邪魔したりするけど、ナマエはそういうことはしなかった。僕の隣で熱心な様子で篤四郎さんを見つめ、しかしそれ以上を踏み込むことはなかった。

「時重は篤四郎さんにいっちゃん期待されてるすけ」

そう言われると、正直悪い気はしなかった。僕にとって篤四郎さんは唯一無二で、それを理解し、隣で称賛する女の存在は僕にとって都合がよかった。
智春よりも家が近いから、長い時間を一緒に過ごした。だからナマエは結局のところよく僕をわかっていた。

「男に生まれたかった」

小学校から道場へ向かう途中、不意にナマエがそんなことを言い出した。ナマエは確かに中々のお転婆娘だが、男になりたいと言い出すほど女の性を嫌っているようには思えなかったため、僕は怪訝な表情で聞き返した。

「なしてさ」
「だって男に生まれることが出来たら、私もきっと道場に通えたったろうすけ」
「通ってのうたって勝手についてきて稽古見学していくくせに」
「それは…そうだけどぉ…」

ナマエが男だったらと想像すると妙な気持ちになった。道場に通って、篤四郎さんと乱取りをして、そんな架空の姿が脳裏をよぎり、僕は苦虫を噛み潰したように顔を歪める。篤四郎さんをナマエに取られるなんて絶対に御免だ。

「だっちもねこと言うてねえで、今日もぼくと篤四郎さんの邪魔したら承知しねえすけ」

一度も邪魔をされたことはないのに僕は用心深くそう言って、ナマエは「はぁい」と素直に返事を返した。

「男だったら、ずっと時重と一緒にいられるのに…」
「え?何か言うた?」
「ううん。何にも」

考え事をしていてナマエの言葉が聞き取れなかった。ナマエはへらりと笑って何でもないというのだから、きっと本当に些細なことなんだろうとそれ以上追及することはなかった。


小学校の卒業が近づいたあるとき、僕は童貞を喪失した。敬愛する篤四郎さんと一緒に、智春の死という秘密を共有したのだ。もちろん、ここには誰も立ち入らせることはなかった。
ナマエにだって何も言わなかった。だけどナマエは智春の死がただの事故死ではないと、なんとなく気づいていたのではないかと思う。そういう察しの良さがある女だった。

「時重、無理しないでね、ちゃんとご飯食べてね」
「ん」

僕は徴兵検査を受け、甲種合格で第七師団に入営することになった。僕が家を発つ日、ナマエはかおをぐちゃぐちゃにして泣いた。袖でごしごし顔をぬぐってやると、こすれて赤くなった目元をふにゃりと緩ませた。
12月の北海道はきんと冷えていて、故郷の新発田も雪国ではあるが、それとは比べ物にならない寒さだった。

「はぁ、寒いな…」

隣にナマエがいないというのは、とても妙な気分になった。生まれてからずっと兄妹のように、もしくはそれ以上の時間を一緒に過ごしてきた。そんなナマエが隣にいないというのは、想像以上に大きなことだった。


第七師団に入隊して一年が経過したころ、僕は成績優秀と認められて上等兵になった。篤四郎さん…鶴見中尉殿のためならこのくらい当然で、これからもっともっと認められて立場を得て、鶴見中尉殿のお役に立つ予定だ。
三条の袖章の入った軍衣に袖を通して兵営の中を歩いていると、不意に背後から月島軍曹に呼び止められた。

「宇佐美、鶴見中尉がお呼びだぞ。小隊長室に迎え」
「鶴見中尉殿が?わかりました。すぐに向かいます」

なんだろう。いくら僕が同郷の顔なじみとはいえ個別に呼び出しなんてそうそうあることじゃない。なにか特別に僕にお話をしてくださるのだろうか。胸を高鳴らせながら小隊長室に向かって扉を叩く。

「鶴見中尉殿、宇佐美参りました」
「ああ、入ってくれ」
「失礼します」

かちゃりと音を立てながら開くと、鶴見中尉殿の執務机の前に女が立っていた。普通の着物の、例えば鶴見中尉殿のお知り合いの高貴な身分の女性とは思えない。なんだこの女は。鶴見中尉殿に取り入ろうとでもしているのだろうか。
そう思っていた時、その女がくるっと振り返る。僕はその顔を見て目を丸くした。

「時重!」
「ナマエ!?」

そこにいたのは、一年前僕の入営を泣きながら見送ったはずのナマエだった。随分と身綺麗にしているから全然気づかなかった。それでもきらきら瞳を輝かせる様子は昔とちっとも変わらなくて、僕は一瞬ここが新発田であるかのような錯覚をした。

「お前、なんでこんなところにいるの!」
「だって…時重がいるから…」
「はぁ!?北海道まで!?馬鹿じゃないの!?」

僕がそうまくしたてると、鶴見中尉殿が「まぁまぁ落ち着け」と言って僕を嗜める。いけない、鶴見中尉殿の前でみっともないところを見せてしまった、と、僕は深呼吸をして居住まいを正す。

「ナマエくんには小樽の兵営で女中をしてもらおうと思っているんだ」
「女中ですか?」
「ああ。旭川の本隊から小樽に移動する話が出ていてね」

僕は話が飲み込めずに「はぁ」と思わず気の抜けた返事を返してしまった。ナマエは鶴見中尉殿に向き直って溌溂と「宜しくお願いします!」と言っていて、もう話は完全に纏まっているとみえた。

「篤四郎さんのお役に立てるよう精進します」
「おいナマエ、ここでは鶴見中尉とお呼びしろよ」
「まぁいいじゃないか、宇佐美上等兵」

鶴見中尉殿またそう嗜められ、僕は苦虫を噛み潰したように顔を歪める。なんでナマエがこんなところに来ているのか、まさか篤四郎さんの一番を狙って?いやまさかまさか。小さいころから一度もそんな素振りは見せたことがないじゃないか。

「ナマエくんには小樽の兵営の準備が整うまで近くの宿に滞在してもらうことにするから、そこまで案内してあげなさい」

鶴見中尉殿の言いつけで、僕はナマエを滞在先の宿まで送ることになった。宿は師団通りからそう離れていない場所に位置しており、女将に鶴見中尉の名前を告げると話は通っていたようですんなりと部屋に通される。
僕は畳の上に胡坐をかいて、ナマエは大して多くもない荷物の詰まった鞄を部屋の隅に置いてから僕の前に正座をした。小隊長室ではあんなに目を輝かせていたくせに、今は表情が曇っている。

「…なんで来たの」
「…ご、ごめん…」

僕の問いかけに、ナマエはバツが悪そうに視線を下げた。謝れって言ってるわけじゃないのに謝られたって仕方がない。はぁ、と僕が溜息をつくと、一拍置いてからナマエが小さな声でもごもごと話し始めた。

「あの…時重に会いたくて…」
「はぁ?」
「とっ、時重が第七師団に入って、きっと徴兵が終わってもそのまま残るから帰ってこないって時重のお母ちゃんに聞いて!あの、もう会えなくなると思ったら怖くて…」

ナマエの声が段々と大きくなり、予想もしていなかった返答に僕は目を白黒させた。
確かに僕は徴兵が終わった後も鶴見中尉殿のお役に立つために陸軍に残るつもりでいるし、実家の仕事は弟に任すつもりで話をつけている。
それにしたって里帰りくらいしようと思えばできるから、一生会えなくなるとかそんな大げさな話ではない。

「あのさ、里帰りくらいするけど」
「そうじゃなくて!」
「だったらなに」
「時重が北海道でお嫁さん貰っちゃうと思って!」

キンッと女独特の甲高い声が部屋の中に反響して頭に響いた。は、今なんて言った?僕が?北海道で?嫁を貰う?
驚いて目の前で小さくなるナマエを見下ろすと、耳まで真っ赤になっているのがわかる。わざわざ海を渡って、この女は僕のためにこんなところまで来たのか。

「なに、ナマエ、僕のこと他の女に盗られると思ってこんなとこまで来たの?」

そう冷やかし半分で言ってやれば、観念したとばかりに無言で頭が縦に動く。
馬鹿だなぁ。新発田にいればもっと別の、のんきに暮らせる男に嫁ぐことだって出来ただろうに。

「ナマエ、馬鹿だね」
「…ごめん」
「謝れなんて言ってないでしょ」

僕はナマエの袖を引き、すっぽりと腕の中に収めた。あんなに小さかったナマエはいつの間にか少女から大人になっていて、もしナマエが他の男の手に渡っていたらと思うと、心臓が掻きむしられるような気持ちになる。
ナマエは恐る恐るといった様子で僕の背に腕を伸ばし、最後はぎゅっと力を込めてしがみつくようにした。

「時重、すき…」

たった二文字の言葉は僕の耳から鼓膜を通って、脳の隅々を行き渡ったあとに心臓へと到達し、そこでじんわりと手のひらに乗った雪のように溶けていった。
腕の中で身じろぎをしたナマエが僕を見上げ、少し不安そうに様子を伺ってくる。言わなくたってわかるだろ、とも思ったが、今日は気分がよかった。

「…まぁ、僕も、篤四郎さんの次くらいには好き」

篤四郎さんの次ということは本当に特別ということで、僕にとっては最上級の立ち位置である。他の人間なら早々理解しないだろうこの理屈もナマエは当然のように受け入れて「嬉しい!」と声を上げてもう一度僕に抱きついた。
本当にナマエは僕のことをよくわかっている。


好機の目に晒されるのは初年兵が入隊してしばらくの間くらいなもので、皆すぐに僕とナマエが一緒に歩いているところを見慣れてしまって興味をなくす。それくらいナマエは業務外の時間を僕に費やしていた。
時々変わり者がナマエに近寄りたがったが、鶴見中尉殿の同郷で昔馴染みと知ると途端にちょっかいをかけるのを辞めた。賢明な判断だろう。

「時重、今度の非番一緒に街に行こうよ」
「今度って言ったってナマエと僕の非番が被るなんていつのことだよ」
「ふふーん。他の女中さんにお休み変わって貰ったんだぁ」

ナマエが隣にいるのは居心地がいい。僕を深く理解し、僕にとっての篤四郎さんをも深く理解する女はきっと彼女の他に現れないだろうと思う。

「街外れのお団子屋さん、穴場で凄く美味しいんだって。鶴見中尉殿に買っていこうよ」
「へぇ、いいね」

ナマエは、篤四郎さんという呼び方を辞めて鶴見中尉殿と呼ぶようになった。別に彼女は兵隊ではないのだし、篤四郎さんという呼び方は兵営の中でいかがなものかと思うが「鶴見さん」とでも呼べばいい。それをわざわざ鶴見中尉殿と呼ぶのは多分僕を真似ているんだろうと思う。

「良かったぁ、お出かけ楽しみにしてるね、時重」

そのくせ未だに僕のことだけは「時重」と名前で呼ぶ。何度注意したってなんだかんだと言い訳をして、僕はその理由を知っているからこそ、何度も「時重って呼ぶのやめなよね」なんて言って、彼女の気持ちを確かめている。

「お前が女で良かった」
「えっ…何の話?」
「こっちの話」

昔男に生まれたかったなんてのたまったが、そんなのとんでもない。僕のナマエのままにしておくには、女でいてくれる方が随分と都合がいいのだ。


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