恋とはどんなものかしら


※暴走列車後のご都合生存ifです。


運転士を失い暴走する列車。その屋根の上で尾形は自分の罪悪感を見つめていた。アシリパ、アイヌの娘。弟と同じように戦いの中に身を置きながら人殺すことなく、穢れを知らない清い存在。
亡霊のように彼女に重なっていた弟の影がふっとアシリパから離れ、尾形のほうへと迫る。柔らかな顔で笑いかける。

「ああ、勇作…」

自分にとって都合の良いまぼろしだ。けれどもこれが見たかったのかもしれないと、心のどこか尾形自身も輪郭を知らない場所でそう感じた。


トントン、トントン、トントン。小気味よくまな板の上で包丁が動く音。瞼の向こうにはひかり。鼻腔を何か薬味のようなものが煮える匂いがくすぐった。ここは地獄か。それにしては随分所帯じみている。地獄とはこんなにのん気な場所なのか。

「あら、目が覚めましたか」

女の声がして尾形はぬるりと瞼を動かした。右目にひかりはない。その代わり左目で家屋の天井をとらえることができた。ごく普通の、木の張り出した素朴な家。ひょっこりと尾形の視界の中に女の姿が映る。日本髪を綺麗に結った小袖の女だ。

「…ここは地獄か?」
「いいえ、私の家です」

言葉を頭の中で噛み砕こうとしていると、女が先に説明を始めた。いわく、自分は線路わきに倒れていて、それをロシア人が運んできたというのだ。口のきけない男だったから状況はよくわからなかったが、尾形の様子を見て部屋の一角で手当てをしていたという。

「思ったよりはやく目が覚めてよかったです。おかゆを作ったんですが食べられますか」

思考の処理が追い着いていないまま尾形は首を縦に振った。頭がいくら混乱していても身体は正直だ。腹の虫が小さくグゥゥと音を立てた。女は少し笑って立ち上がると、すぐそばの厨で器に粥をついで戻って来た。匙を使ってそれを口に入れる。

「…うまい」
「あらあら、それはよかった」
「俺をここに運んできたロシア人はどこにいった?」
「さぁ、どこでしょうね。兵隊さんを置いてしばらくしたら出て行ってしまったんです」

尾形を運んできたロシア人というのは恐らくあの狙撃手であろう。仕留めたと思っていたのに生きていたのか。ソフィア・ゴールデンハンド率いる他のレジスタンスの連中の可能性もあったが、どうしてだかあの狙撃手であると根拠もなく確信をもっていた。

「食べ終わったら身拭いをお持ちしますね。ぼうっとしていらっしゃるみたいだけれど、身体がすっきりすれば頭もすっきりしますでしょう」
「……よくもまぁ、素性のわからん男の世話なんぞ献身的にするものだな」

およそ介抱されている人間らしからぬ発言をこぼせば、女はぱちくりと大きな目をまばたかせた。

「どこのどなたかは存じませんけれど、第七師団の兵隊さんなのでしょう?お国のために身を粉にして働いてくださるのだから、お怪我の手当くらいいたします」

そういえば自分は第七師団の一等卒の軍服をまとっているのだ。まさか尾形が脱走兵などとは想像もしていないだろう女は当然のように答えた。それでも随分お人好しなことだとは思うが。

「……尾形、百之助」
「え?」
「俺の名前だ。お前は?」

彼女はミョウジナマエと名乗った。少しあとに鴨を撃ち落としたロシア兵が戻ってきて、筆談で彼の名前が「ヴァシリ」であると分かった。どうしてヴァシリが自分を助けるようにここに駆け込んだかは分からないが、かくしてこの奇妙な三人での生活がなし崩し的に始まったのだった。


傷だらけだった身体は、清潔な環境と健康的な食事で徐々に回復した。ヴァシリが鳥を撃ちに行くから、滋養のあるものに困ることはなかった。

「尾形さん、ヴァシリさん、お食事出来ましたよ」
「おう」

顎の砕かれたヴァシリはまともに話すことが出来ず、ふんふんと首を振ることで応答していた。尤もその顎を砕いた張本人は尾形なわけだが、ナマエは知る由もなかった。

「ヴァシリさんのは柔らかくしておきましたからね」

ナマエがそう言ってヴァシリのほうに膳を差し出す。献身的な姿勢は恐らく性分のようで、会話のみならず通常の食事もままならないヴァシリにも食べやすいものを用意しているようだった。
彼女は尾形よりも少し年嵩に見える。聞いてみれば、今年三十路になるらしい。この小さな家に訪問者はない。どうしてそんなところに三十路にもなる女がひとりで暮らしているのか。

「ナマエ、お前北海道の人間か?」
「なんです、急に」
「いや……三十路の女がこんなところでひとり暮らしなんざどういうわけかと思ってな」

繕い物をしているナマエの背中にそう投げかけた。ナマエは少しだけ逡巡するような間を持ち、それから口を開く。

「私ね、広島の出身なんです。夫が第五師団として日清戦争に出征したんですけれど…戦死して地元を離れました」
「14年も前のことだろう。てことはお前その時は──」
「ええ、十五の小娘でしたよ」

年齢的に未亡人でもおかしくはないと思ったが、まさか日清戦争で夫を亡くしているとは思わなかった。ナマエは冷静なまま手元の針を行ったり来たりさせて繕い物を続ける。

「私は元々出自も分からぬ孤児なんです。夫の家に拾われて、兄妹同然で育ちました。夫の出征が決まって…ほら、急いで所帯を持たせることがあるでしょう?そういうわけで、十五で結婚してすぐに未亡人になったわけです」
「広島で再婚でもなんでもすりゃあ良かったじゃないか」
「兄の出征の直後に養父も養母も流行り病で亡くなりました。孤児ですから、頼るものもありませんでしたので」

ついっと糸を縛り上げ、最後にそれを噛み切った。自分もいい加減訳の分からぬ天涯孤独の身と思っていたが、彼女も中々のものである。しゃんと伸びた背筋は美しく、結いあげられた髪によって覗くうなじは白い。

「久しぶりです。自分の話をしたのは」
「なんだ、気を悪くしたのか?」
「いいえ。自分のことなのに、まるで誰か別のひとのことを話しているみたいな気分だわ」

ナマエは針を針山に刺し、糸やら何やら細々としたものを木箱に仕舞っていく。その指先の行方をいちいち左目で追ってしまった。

「ほら尾形さん、出来ましたよ。どうです?」
「……悪くない」

繕っていたのは尾形の軍衣だったらしい。傷を受けた時の綻びをそのままにしていて、それを見つけたナマエがわざわざ繕ってくれたようだ。そうこうしていると、今日もヴァシリが鳥を撃って帰ってきた。早く回復してもう一度戦おう、と筆談で伝えられたけれど、尾形は『気が向いたらな』としか返さなかった。ひょっとすると自分はもう、人を殺すことが出来ないかもしれない。


一か月ほど経過すると、日常生活には支障を来たさない程度に回復した。三八を尾形に押し付けてヴァシリがフンフンと再戦を申し込んだが、どうにも興が乗らない。列車の上で見た亡霊とこの生活が尾形の触れられないほど尖っていた心を徐々に削っていた。

「…やらん」
「フンフンッ」
「何故と言われてもな。興が乗らんだけだ」

この銃を構え、人間の頭を撃ち抜くところを想像する。想像するだけで脳の奥に勇作の顔がちらつくような感じがした。罪悪感というものは弟の顔をしているらしい。

「あら、すごい」
「何がだ」
「ヴァシリさんと筆談でなくてもお話出来るんですね?」

言語を理解したとか意思の疎通をとったというよりは、手にしたもので察したというほうが正しいのだが。ナマエが嬉々として言うものだから、今はそう言うことにしておいてやることにした。

「お加減はどうですか?」
「もうずいぶんと良い」
「それは何よりですね」

ナマエはどうして自分をここで匿い続けているのだろうか。人を呼ぶなり、自分の足で歩けるまで回復したのだからと言って、追い出して陸軍に戻すなりすればいい。しかしナマエはそんな素振りは少しも見せず、三人の同居生活は続いている。

「……お前、俺を軍に戻すなりなんなりすればいいだろう」

思考が口をついた。ナマエは驚いた顔をして尾形を見下ろした。彼女はどう出るか。ここまで言ってやれば流石に不審に思って通報でもするか。ナマエは驚いた顔を引っ込めて、口元に手を当てるとくすくすと笑う。

「戻されたら困るのは尾形さんなんでしょう?」

的を射た回答に尾形は押し黙った。その通りだ。金塊争奪戦の行方がどうなったのかは知らないが、どっちに転んでも尾形は殺されるし、飼い主である奥田中将も自分を切り捨てるだろう。

「尾形さんがいたいならここにいれば良いじゃないですか。出ていきたいのなら止めませんけれど」
「……いや…」

ここは居心地がいい。煩わされる周囲の面倒ごとも、自分を嘲笑する視線も、倒すべき敵もいない。ぬるい葛湯に全身を浸けるような、そういうまとわりつく心地のいい温度に包まれている。ナマエは手にしていた洗濯物をてきぱきと畳み、尾形はその手元をじいっと見つめていた。

「気に入っているんです。誰かと毎日のように話をするのは、随分と久しぶりなことなので」

まだ何かを言えと要求されているとでも思ったらしいナマエがそう続ける。打算も腹の探り合いもないただの「会話」をしたのは尾形も久しぶりだった。彼女も同じようなことを思っているのだと思うと、心臓に柔らかな棘を突きつけられているような気分になった。


それから更に二か月。ヴァシリはことあるごとに再戦を申し込んで、尾形はそれを「興が乗らない」と断り続けた。人を撃つのが怖いのかと言われればそう言うものでもない気がする。しかし事実として以前とは明らかに何かが違っていた。
ヴァシリは家を空けることが多くなった。どこで何をしているのかは知らない。鳥を撃つのは尾形の仕事に変わって、尾形は近くを渡る鳥をいとも簡単に撃ち落として見せた。

「凄い、尾形さん射撃がお上手なんですね」
「これでも師団じゃ指折りの狙撃手だったもんでね」
「ふふ、はいはいありがとうございます」

尾形が嘯いているとでも思っているのかナマエは言葉を本気にしていない様子で、手渡された鳥を捌く準備を始めた。彼女はなにも知らない。自分の生まれも、過去も、経緯も。自分自身の外殻に囚われてきた尾形にとって、内側しか求めない彼女の存在は特異であり、観察すべき対象だった。

「尾形さん、突っ立っているのなら羽根をむしるのを手伝って下さいな」
「……おう」
「ヴァシリさん、今日は戻ってみえるんですかねぇ」
「なんだよ、あのロシア人が良いのか?」
「良い悪いじゃありませんよ。一緒に暮らしてるんだから、帰ってこないと気になるに決まっているでしょう」

素性も分からぬ人間を二人も置いておいてよく言うことだ。彼女がヴァシリの話をしていると閉じたままの目の裏のあたりがピリピリとイラついた。何故なのかは説明することができない。例えば下の子に母をとられた子供のように、自分のものだと思っている人間がよそ見することを許せないような、そういう気持ちに近いのではないかと思う。


ヴァシリが出ていったのはそれから一か月も経たないときのことだった。尾形に再戦の意思がないと悟ったのか、はたまた別の理由があるのかはわからなかった。少しの荷物と共に忽然と姿を消した。

「随分静かで…寂しくなってしまいますね」
「あの男は喋らんからそうも変わらないだろう」
「あら、無口なのは尾形さんもお揃いですよ?」

ナマエがくすくすと笑う。このごろは彼女の声音がどうにも耳に気持ちがよく、ころころと控えめに鳴る鈴の音のようなそれをずっと聞いていたくなった。傷はもうすっかり癒えていた。お互いに素性も知れない身なのだからさっさとこんな家は出て行ってしまえばいい。そう思うのに、どうにも出来そうになかった。
いくら無口なロシア人だったとはいえ、いなくなると随分静かになるのは事実だった。短い夏が始まり、外には燦々と太陽の光が降り注いでいる。ナマエはその中に立って洗いたての洗濯物を干し、陽射しに手を透かしている。なんだか消えてしまいそうだ。

「……どうかしたか」
「え?」

あまりにもじっとそうしているものだから、尾形は気になって部屋から這い出て声をかける。声をかけられるなんて思いもしていなかったのか、ナマエは少しだけ目を見開いてゆっくり目尻を緩めた。

「生きているのって不思議だなぁと思っていたんです」
「随分でけぇことを考えてるな」
「ふふ、たまにはそんな気分のときもあるんですよ」

にこにこと笑って躱される。尾形はいつの間にかナマエの手首を掴んでいた。こうでもしないと彼女がどこかに飛んで行ってしまいそうな気がしたからだ。どちらかといえば突然いなくなるのは自分だろうというのに、全くおかしなことである。


彼女に対する感情が何なのかを尾形の中では決めあぐねていた。もともと感情の分類は苦手なタチだ。名状しがたい感情の集合体であるこれを何と呼んだらいいんだろう。ある夜、ろうそくの明りひとつきりの薄暗さの中で不意にナマエが口を開く。

「恋とはどんなものかしら」

一体何の話かと思えば、その手には四六判の本が握られている。タイトルは掠れて読めないが、恐らく口ぶりからするに恋物語の類であることは想像に難くない。

「未亡人が何言ってやがる」
「未亡人ですけれど、恋はしたことありませんから」
「戦死した旦那はどうした」
「夫は兄のようなひとですもの。家族や兄妹の愛は教えてくれましたけれど、恋は教えてもらっていません」

当然といえば当然か。兄妹同然に育った上で出征を控えた兄のための結婚だったのだ。形式だけのものだということは想像に易く、彼女の言っていることも頷ける。しかし残念ながら尾形もまた、彼女の問いに対する答えを持っているわけではなかった。

「恋なんて浮ついた感情は俺も知らん」

母を殺して、弟を殺して、父を殺して、失い続けてここまで来た。尾形を構成する感情というものは基本的に偏っていて、自分でも自分の感情を理解できない瞬間がままある。例えば彼女に抱くこの感情がそういうものなのか。それさえも尾形には自分で結論付ける事が出来ない。だけどもしも、もしもこの感情が「それ」なら。

「──だから一緒に…一緒に探して、やらなくも、ない」

尾形は視線を畳に落とした。ナマエの小さく笑う気配がして、彼女の手がそっと、尾形の手の甲に重なった。



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