猫を待つ


蕎麦屋を営む父の手伝いを始めたのは物心がついてすぐのころだった。
私の父は旭川で蕎麦屋をしていて、近所でも評判の美人である母とは恋愛結婚だったらしい。恋愛結婚だなんてと反対するようなひとが周囲にいなかったのはとても珍しく、だから私を取り巻く環境というものは恐らくとても自由で進んでいるものなのだろうと思う。

「ナマエ、これ向こうのお客さんね」
「はい」

18歳になった私は蕎麦屋のあらゆる仕事を覚え、そのうちこの店を継ぐんじゃないかと近所の人から言われていた。周りの女の子はぽつりぽつりと縁談がまとまったりしていったけれど、私は蕎麦屋の女店主になるというのも悪くないと思っていた。

「お待ちどうさまー、しいたけ多めにしときましたよ」

うちの蕎麦には肉厚のしいたけがたくさん入っているのが売りだ。常連さんもこれを目当てに来てくれる人が多い。
ちょうどまたひとりお客さんがのれんをくぐって、私は「いらっしゃいませー!」と声をかけた。

「あ、尾形さんこんにちは!」
「よう。にしんそばひとつ」
「はい!しいたけ抜きですね!」

こくんと一回頷いた。
尾形さんはしいたけが嫌いだ。なのにしいたけが売りのうちの店に来てくれるのはなんでだろうと思うけれど、週に二回は必ず通ってくれるお得意様である。
私は厨房に戻ってお父さんに尾形さんの注文を伝えた。

「お父さん、にしん蕎麦一杯!」
「はいよ!」

客足が途絶えたところだったので、私はお茶をもって尾形さんのほうへと寄って行った。
尾形さんは口数は少ないけれど私が隣で話すのを許してくれていて、私はこの時間が結構好きだった。

「尾形さん尾形さん、この前お店の裏で猫みかけたんですよ。綺麗な三毛猫」
「三毛か。このあたりじゃあまり見ねぇな」
「でしょう?にしんの頭をあげて手懐けようとしてるんですけど中々上手くいかなくて…」

私は猫が好きで、ここらで野良猫を見つけると逐一尾形さんに報告するようにしている。始めは聞くばかりだった尾形さんも、最近では猫を見かけたら私に野良猫情報を教えてくれるようになった。

「猫は夜行性だからな。昼間はあまり動きたがらないもんさ」
「にしんの頭でもだめですかねぇ?」
「外に置いてりゃ食いには来るんじゃねえか」

夜ですかぁ。私は相槌を打ちながら、野良猫を手懐ける作戦を考える。仕込みがあって朝が早いから夜は早々に寝てしまうのだ。でもせっかく猫に餌をあげるなら、食べているところが見たいと思う。
私がうんうん唸っていると、尾形さんが背中を押すように口を開いた。

「あー、そうだな…今晩にでもにしんの頭を用意して待ってみろよ」
「はい。そうですね、早速試してみます」

尾形さんの言う通りだ。善は急げ、三毛ちゃんがこのあたりにいるうちに早く手懐けて定住してもらわなければならない。
お父さんが「にしん蕎麦一杯!」と出来上がりを知らせて、私は「はーい!」と返事をしながらそれを受け取りに行った。


お父さんもお母さんも眠ったあとの夜遅く。厨房からにしんの頭をくすね、私は小皿にちょんと盛るとそれを勝手口のそばに置く。気配を悟られないように窓から様子を伺いながら三毛の来訪を待った。

「猫ちゃん、来てくれるかなぁ」

ここら辺は飲食店も少なくないし、食べるものには困ってないかもしれない。内陸の旭川とはいえ猫のご馳走になりそうな食べ物はいくらだってある。
そわそわしながら待っていると、勝手口の扉がこんこんこん、と小さく叩かれた。こんな夜更けに誰だろう。普通の来客じゃないのは明らかで、私はお父さんとお母さんを起こしに行くべきか逡巡する。そのときだった。

「…おいナマエ、俺だ」

こそこそと男のひとの声がした。私はその声であっと気が付いて、音をたてないように勝手口の戸を開く。暗がりに溶け込むようにして立っていたのは尾形さんだった。

「尾形さん、一体どうしたんです、こんな夜更けに…」
「言っただろう、今晩待っていろと」
「えっ、だってあれは猫の話で…」

尾形さんがシィーっと言葉を制するように人差し指を立てる。私は音量をぐっと絞った。

「夜でもなければお前、店が忙しいやら何やらでろくに話も出来やしないだろう」
「だって、家族だけでやっている小さなお店ですから…」

尾形さんは少しきまり悪そうにそう言い、私ももごもごと言い訳のように答える。尾形さん、私と話をしたいと思ってくれていたんだなと、胸の奥が熱くなるのを感じた。
にしんの頭は置いていたのに、人の気配があるせいで三毛は姿を現さなかった。半刻で兵営に戻るという尾形さんを見送ってから私は床につき、朝になるころには小皿のにしんがなくなっていた。


それからというもの、尾形さんがお店に現れて「猫を待っていろ」というのは夜に落ちあう合図になった。まさか自分のことを猫に見立てて言っているわけではないだろうけども、尾形さんはちょっと猫っぽいからあながち間違っていない気もする。

「ナマエ」
「尾形さん!」

私は尾形さんの声がすると、いつもこっそり勝手口から家を出た。行き先はいつも大体人目を忍べる近くのお寺で、そこで二人してささやかなお喋りをするのだ。

「そういえば、兵隊さんってこんな時間に外を出歩いてもいいんですか?」
「いいわけないだろ」
「えっ、じゃあいつもどうやって…まさか」
「ああ、こっそり抜け出してきてるんだ」

えっ!と、大きな声が出そうになって慌てて口を塞ぐ。尾形さんはにいっと口角を上げた。
そんな、こっそり抜け出すなんてことして大丈夫なんだろうか。そう思っていたら考えが筒抜けだったのか、尾形さんが「問題ない」と補足し始める。

「同室の連中も同じようなことをしてる。そういうもんなんだよ」
「本当ですか?」
「なんだよ、俺を疑うのか?」
「そういうわけじゃないですけど…」

夜の尾形さんは昼間会うよりもほんの少し饒舌だった。低く発せられる声が耳の奥まで浸透し、私をたまらなくさせた。
どうして尾形さんは私に構うんだろう。夜に連れ出したってお喋りをするばかりで、他の、例えばそれ以上のことは一度だってなかった。

「…尾形さん、次はいつ会ってくれますか?」
「そうだな…三日後にまた来る」

私は尾形さんが夜更けに訪ねてくる理由を聞くことができなかった。聞いてしまえば、尾形さんはもう来てくれなくなるんじゃないかと思ったからだ。


露西亜が南下政策を押し進めるとかなんとかで義和団の乱に乗じて満州を占領したのは記憶に新しいが、それに対抗するべく我が日本国では開戦一色となり、もはや宣戦布告も秒読みと言われていた。
戦争が始まるということは、兵隊は戦地に出征するということである。尾形さんも戦争に出るのかと思うと、私は気が気じゃなかった。
明治37年2月10日。我が日本国は露西亜帝国に対して宣戦布告をしたと新聞に載った。それから海軍を中心にした部隊が旅順港へと攻め入り、作戦が失敗に終わったと噂で聞いた。
第七師団は北の守りを固めるために北海道に留まっているとお客さんのひとりが言っていたけれど、夏を前にして尾形さんがお店に顔を出さないことが立て続き、そんな時に別のお客さんからついに第七師団も動員されるらしいと噂を聞いた。
私は少し迷ってから、意を決して師団通りに向かうことにした。

「あの、すみません!ここに尾形百之助さんはおみえですか!」
「尾形、ですか?」

なるべく親切そうな兵隊さんを見つけて声をかけ、始めの数人には首を横に振られた。当たり前だ。第七師団といってもたくさんの方がいるし、戦争になるのだからきっと普段よりも人数が増えているに違いない。

「あの…第七師団の尾形百之助さんを探しているのですが…」
「…尾形?」

聞き込みも十人を超えたところで、私は小柄な兵隊さんに声を掛けた。振り向いたその方は随分怖…いえ、随分精悍な顔つきをなさっていて、自分から声を掛けたくせに少し尻込みしてしまった。

「尾形なら私の所属する小隊にいますが、何かご用ですか」
「ほ、本当ですか…!」

ああよかった、やっと尾形さんを知っている方に会えた。しかも同じ隊に所属していらっしゃるなんて、諦めずに聞き込みをして回った甲斐があった。

「あの、私、二条通りの蕎麦屋のナマエといいます。あの、その…」

何の用だと言われると私に答えることは出来なかった。だって私は尾形さんにとって何者でもない。ただ常連の蕎麦屋の娘で、ときおり暇つぶしに夜に落ちあって話をするだけ。
何て言えばいいんだろう。口ごもる私を兵隊さんはじっと見つめた。

「あの…私…」
「あー、尾形はいま休憩をとっているはずです。呼んできますから少し待っていてください」
「あ、ありがとうございます…!」

小柄な兵隊さんはそう言って踵を返し、兵営の中へと入っていった。不審な女だとは思われなかったらしい。
尾形さんに会ったら何て言おう。何を話せばいいんだろう。ぐるぐると考えが頭の中を回っていく。
こんなところにまで押しかけて、迷惑ではなかっただろうか。でもだって店で待っていたら永遠に尾形さんは来て下さらないかもしれない。

「はぁ…」

浅はかだったかな。面倒な女と思われたかな。私が尾形さんにどう思われたいかなんてもう決まっている。好きになってもらいたい。それが無理だとしても、嫌われるのだけは避けたい。そう思うのならばやっぱりこんなところまで来るべきではなかった。

「ナマエ…!」
「お、尾形さん…!」

考えている間に尾形さんの声が私の名前を呼んで、私は逃げも隠れも出来なくなってしまった。
嫌われたらどうしようだとか、迷惑をかけてしまったんじゃないかとか、そんなことは尾形さんの顔を見た途端に頭の中からポンっと消えて、私は尾形さんに慌てて駆け寄った。

「尾形さん…!よかった…あの、ずっとお見えにならないから…」
「…ああ、近頃何かと忙しくてな」
「あの…噂で第七師団の方々も出征されると…」
「恐らく来月にでも正式な命令が下るだろう。旅順の激戦地だ」

旅順。日本海軍が作戦に失敗したと聞く満州の港。私は戦争に行ったことなんてないけれど、そこが命の儚くなる危険な場所であるかということは想像に難くない。
行かないで、なんて言えるわけがないし、言ったところで尾形さんを困らせることは分かりきっていた。

「…その…あの、私…」

口ごもっていると、尾形さんは「少し歩くか」と言ってゆっくり歩き出し、私は置いて行かれないように半歩後ろをついて行った。

「すみません、急に押しかけて…」
「月島軍曹からナマエの名前が出たときは驚いた。しかも兵営のすぐそばに来てるなんてな…他の男に見られちゃたまったもんじゃない」

あの小柄な兵隊さんは月島さんというらしい。他の男に、というのはどういう意味だろう。しっかり教えてもらわないと、自分の都合よく考えてしまいそうで怖い。

「三毛猫は懐いたか?」
「いえ、尾形さんがいらっしゃらないからすっかりにしんの頭をあげるのも忘れていました」
「ははぁ、そんなに俺に会いたかったかよ」

尾形さんがそう言って笑って、私はむすっと頬を膨らませる。例えばここで「そうですよ」と言ったら、あなたは私との関係を何か変えてくれるんだろうか。
私は変えたい。尾形さんに会いに来てもちゃんと理由のある関係になりたい。

「…会いたかったですよ」

私は我慢できなくなってそう言葉をもらした。
ああ、言ってしまった。会いに来てくれる理由だって尋ねてしまうのが恐ろしかったのに。でも今日言っておかなければもう機会が無くなってしまうかもしれないと、不吉にもそう思ってしまうと言わずにはいられなかった。

「会いたかったです。もし会えないまま出征してしまったらと思うといてもたってもいられませんでした」
「ナマエ…」

私は尾形さんの軍服の袖口をきゅっと握る。尾形さんはその指を軽く解くと、私の手を引いて人目につかない路地のような場所へとすたすた歩いた。
何か言ってほしい。でも何も言わないで欲しい。もだもだと感情は絡まってどうしようもなくなっていく。
路地の適当なところで足を止めると、尾形さんが「あー」と言葉を濁すようにしながら何度かくちをはくはくと動かす。私は聞きたいような聞きたくないような何とも言えない気持ちでそれを待った。

「俺は、自分の外側に守るべきものを作るなんて柄じゃないし、とてもじゃないがこんなことを言える人生は送ってない。もしもお前が…俺と同じ気持ちでいるのなら、その、なんだ…」

尾形さんはぽりぽりと頬を掻いて、視線を左右に泳がせる。こんな様子を見るのは初めてだった。いつも尾形さんは余裕そうな顔をして、いつだって私を意のままに操っているのに。

「…ここで待っていてくれ」

じんと尾形さんの声が私と尾形さんの間に落っこちた。ここで待っていてくれ。私は尾形さんの言葉を繰り返す。
言葉に心臓を掴まれた。私は目頭が熱くなるのを感じながら、何度もこくこくと頷いた。

「私待ってます。ずっと、尾形さんが帰ってくるのをずっと…」

最後まで言い切らないうちに、尾形さんに引っ張られて私は体勢を崩した。とんっと尾形さんの胸に寄りかかる姿勢になり、そのまま見上げると暗闇でこちらを見つめる猫みたいなおおきな瞳と視線がかち合う。

「おがっ…んっ…」

ちゅうっと口を吸われて、名前を呼ぶことも許されなかった。何度も繰り返されるそれに酔ってしまいそうになりながら、私は懸命に彼の唇を受け入れた。尾形さんがこんなにもあつい熱を持つひとなのだということは、この日初めて知ったことだ。

明治37年8月。第七師団は第三軍として戦地に動員された。私は日の丸をひらひら振りながら、彼が師団通りを行進していくのを見送った。良く晴れた夏の日差しの眩しい日のことだった。

「いってらっしゃい、ご武運を」

待つのは少し苦手だけれど、尾形さんのためならそんなのへっちゃらなのだ。


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