Signal Red 05


夕方、行きたくもないけど出勤しないわけにもいかない。ナマエは重たい気持ちを引きずりながら電車に乗り、ヒールでテクテクと繁華街にむかって歩いてた。労働意欲が低いと言っても生活のためには働かなければならないし、欠勤や遅刻のペナルティを食らったら一日頑張って働いてもプラスマイナスゼロになりかねない。日の暮れ始めた街ではチカチカとネオンが灯り、夜の準備が始まっている。
いつも店に向かうために使っている道は大通りの人ごみを避ける細い道だ。いつものとおりの道順で進んでいたときだった。路地からぬっと手が伸びてきて、ナマエの口元を塞いだ。

「んぐッ……!」
「騒ぐなよ」

背後から男の声が低くかけられる。聞いたことのない声だ。心拍数が急速に上がり、喉の奥がキュッと締まる。後ろにいる男の顔を見ようと目の動きだけで確認しようとしたけれど、完全に背後を取られているためそれは叶わなかった。

「おい、この女連れていけ」

男はひとりではないのか、他の人間に指示を出した。ナマエはそのまま後ろに向かってズルズル引きずられる。助けて、と声を上げようにも口を塞がれているせいでそれも出来ないし、だいたいこの道は人通りが少なくて声を上げたところで届くとも思えない。

「ねえちゃんも運がねぇなァ。ま、悪く思うなよ」

自分が一体何に巻き込まれているのか。訳も分からないまま暗がりに連れ込まれ、そのままワンボックスの中に引き込まれてしまった。


車の中で目隠しをされ、それが外されて飛び込んできた光景はあまり使われている形跡のなさそうな事務所だった。パイプ椅子に座らされて、手首を後ろ手に縛られている。目の前には5、6人の男が構えていて、ナマエの目の前でひとりが煙草を吹かせていた。

「ここはどこだって顔だな」

煙とともに男が言葉を吐き出す。今度は口を塞がれているわけではなかったけれど、単純に恐怖で声が出てこなかった。男はここが繁華街の外れにある雑居ビルの一室であること、それからここへ宇佐美を呼び出していることをなめらかに説明した。
ここまで聞けばこの男たちの素性がわからなくても何をしたいのかという点は理解できる。自分はまんまと人質にされてしまったのだ。

「お前、宇佐美の女なんだろ」
「え……」
「シラは切り通せねぇぜ。コッチだって調べはついてんだ」

じろりと冷たい視線が投げかけられる。自分が人質にされたことと宇佐美を呼び出していることを説明されれば、自分が餌になっていることはもちろん理解する。けれど、宇佐美の女というのは語弊がある。彼はあくまで店に通う客であり、二人の間に好意があったとしてもそれはナマエから伸びる一方通行のものでしかない。「女」と呼べるほど、彼が自分に情を持っているかどうかはわからない。

「お、女、じゃない、です……」

声を絞り出した。自分には人質にできるような価値がない。命乞いのつもりというよりは、自嘲めいたものに近かったと思う。

「私に、そんな、価値は…ありません……」
「鶴見組の宇佐美って言やぁ、この街でも知らないやつはいない武闘派だぜ。オンナを連れてるところなんて見たやつがいねぇ。そんな男が甲斐甲斐しく店に通って女を指名して…そのうえ首輪まで買ってやろうなんて奴に人質の価値がないわけねぇだろう」

男の持つナイフがナマエの顎に当てられる。ペチペチペチと脅迫の意味を込めてナイフの棟の存在を知らしめるようにされ、またヒュッと喉が締まるのを感じた。

「安心しろ、あの男が来ればお前は生きて返してやるよ」

まぁ、その前に楽しませては貰うけどよォ。と下衆な笑いが吐き出された。もうこんな状況に追い込まれたらまともに帰れるとは思わないほうがいいだろう。なるべく痛くないといいなぁ、と現実逃避めいて頭の片隅で考えた。

「さぁ、そろそろあいつも来る頃だろうな」

助けてほしい。でもこんなところで危ない目に遭って欲しくない。だけどこのままじゃ自分がどんな目に遭うのか恐ろしくて想像もしたくない。しかしそもそも自分は彼にとって助けるに値する人間なんだろうか。答えが曝け出されるのかと思うと、今から起きることよりもその方が恐ろしいような気もした。

「よし、お出ましだぞ…!」

ガンッと激しい衝突音が鳴って、木製の扉が勢いよく蹴破られる。男たちが一斉に蹴破られた扉の方に向き直り、コツ、コツ、コツと規則的な靴音とともにスーツに身を包んだ宇佐美が姿を現した。

「どうも、こんなかび臭いところに呼び出して僕に何の用ですかか?」
「おう宇佐美……よく来やがったな」
「はぁ、どこのどなたですかぁ?」

宇佐美は男たちを一瞥すると、面倒くさそうにコキコキと首の骨を鳴らした。宇佐美を囲む男たちはナイフやメリケンサックなどの武器をずらりと取り出す。一触即発の空気が流れ、主犯格らしき男がヒヒヒと下品な笑いを浮かべて口を開いた。

「飼い猫一匹のためにこんなところまで御足労なことだなァ」
「はぁ、どっちかというと野良猫なんだけどな」

宇佐美はちらりとナマエに視線を向ける。彼のいつもどおりに凪いだ瞳がかち合い、その普段通りの温度に緊張の糸が解けて瞳から涙がほろりとこぼれ落ちてしまった。それを見た瞬間、宇佐美の大きな目がすうっと細められた。

「僕もまだ、手懐けようとしてる途中なんですよね」

宇佐美は懐から金槌を取り出すと、まるで準備運動のように手首を振った。「死に晒せェ!」と怒号が上がって武器を用意した男たちが一斉に飛び掛かる。宇佐美はそれに最小限の動きで応戦し、一番手前の男の喉元を躱した低い体勢から殴りあげた。振り向きざまに今度は別の男のこめかみを殴り飛ばして、遠心力を利用するかのような勢いで袈裟がけに耳を殴って沈める。続いて金槌を今度は振り上げて男の顎を砕いた。

「ウグッ……!」
「あれ、歯ごたえないなぁ」

三人を地面に潰した状態で宇佐美はひとつも傷を負っておらず、トントントンと血の付いた金槌で自分の肩を叩いた。「バケモンだ…」「くそ、応援呼べ」と男たちが口々に言い、ポケットから取り出したスマホをすかさず叩き割って阻止した。

「ねぇ、ミョウジさんに何しました?」
「ヒッ…」
「聞こえてますか?あれ、まだあなた方のことは殴ってないんだけどなぁ」

宇佐美が革靴でコツコツと足音を鳴らしながら残り三人との距離をゆっくり詰める。後退る男たちに少しも勢いを淀ませることなく距離を縮め続け、男たちの背中がごつんと壁にへばりつく。

「お、俺たちは何も……!」
「何も、ってことはないでしょう」

宇佐美は落ち着いた声のまま言い放つと、金槌で男のこめかみを叩き潰した。潰れた頭骨から噴水のように血が吹きあがり、音を立てて床に広がる。今度は隣の男の胸倉を掴んで頭突きをお見舞いし「ふぅぅ」とまるで風呂上がりを感じさせるような爽快感を匂わせる声を上げる。

「嘘でしょ。僕に勝てると思って仕掛けてきたんですよね?歯ごたえなさすぎますよ」
「く、くそ……!」

破れかぶれになってひとりが宇佐美に向かってナイフを振りかぶる。それを顔の左右の動きだけで器用に避けると、顔面目掛けて拳を突き出した。鈍い音がして、男がふらふらと後ろによろめき、宇佐美が足を上げて腹のあたりを蹴り飛ばす。あ、ヤクザキックだ。と、場違いなワードで彼に出会った日のことを思い出した。

「うッ……こ、の……」

手前に倒れていた男の一人がもぞもぞと懐に手を伸ばし、何か黒い塊を取り出した。それが拳銃だと気付いた瞬間、ナマエは思わず声を上げた。

「宇佐美さん……!」
「死ねェ!宇佐美ィ…!!」

宇佐美がナマエの声で振り返る。銃口が宇佐美に向く。男の指がトリガーにかけられ、ぎゅっと顔を顰めた。その瞬間銃声ではなくてパリンと窓ガラスが割れる音が鳴り響いた。宇佐美は銃弾に倒れることはなく、男の取り落とした拳銃を手に取れない場所まで蹴り飛ばす。

「あはっ、ひとりで来いって言われてひとりで来る馬鹿はいませんよ」
「ス……スナイパー…」
「安心してください。殺傷能力は低い弾ですからね。こんなところで死人を出してたら鶴見さんに叱られてしまう…」

宇佐美は少し恍惚とした表情を浮かべ、顔に着いた返り血をべったりと指の腹で広げる。それからつま先で男の顔を蹴り上げ、目の前に屈むと前髪を掴み上げた。

「あなた方にはきっちり、色々聞かせていただきますよ」

ぐったりとする男たちを掻き分けると、宇佐美はナマエのパイプ椅子の後ろに回って縛られていた縄を解く。力が抜けて前にぐったりと倒れそうになるナマエの肩を背後から掴んで支えた。

「大丈夫ですか?」
「す、すみませっ……ち、ちからが……」
「怪我は?」
「だ、大丈夫です。あの、縛られてただけで…なにも…」

ナマエがなんとか受け答えをすると、宇佐美はナマエの肩を支えたまま前へぐるりと回る。宇佐美の顔にべったりと血がついていて、それが彼の目元に落ちていきそうに見えたから慌ててポケットからハンカチを取り出してそれを拭った。

「…二枚目」
「…え?」
「ハンカチですよ、ミョウジさんの」

額に当てられるナマエの手を宇佐美の手のひらが覆って、そのまま頬にするすると下ろされる。彼の頬、ハンカチ、自分の手、彼の手と順に重なって、手のひらの熱と頬の熱がナマエの手を両側から温めた。二枚目のハンカチの意味を数秒間考えて、公園で会ったあの日のことだと気が付いた。

「ミョウジさん、あのハンカチ、僕の家にあるんです。綺麗にアイロンかけて」

宇佐美のつんとした唇がゆっくりと釣りあげられる。両頬にある棒人間の落書きのような刺青が血にまみれながらその動きに合わせて走った。

「今度返しますから、またデートしましょうよ」

埃っぽくてかび臭くて血生臭くて、大怪我を負った男が6人も転がっているような汚い場所で誘われるデートなんて、相手が彼じゃなければ乗る気にもならなかっただろう。ナマエが首をこくんと縦に振ると、宇佐美が「決まりですね」と言って宇佐美がナマエの手を引いて立ち上がらせる。彼の腕の中に半分以上体重を預けるようにして歩き、どうにか誘拐されたビルを出ようと試みた。
非現実的な空間に放り込まれてふわふわしていたけれど、廊下から見える窓の外の暗さにサァっと冷めていく。

「あっ…!どうしよう…!」
「え、なんです?」
「時間!私、今日出勤なんです!」

そもそもここへは出勤途中に拉致されてきたのだ。当然もう店の営業も始まってしまっているに決まっている。頭の中を駆け巡るのは「ペナルティ」の文字である。今から出勤できるか。いや流石に厳しいか。というかいま何時なんだ。

「う、宇佐美さん!いま何時ですか!?」
「20時過ぎですね」
「ヒッ…!ヤバい…!遅刻…!」
「嘘でしょ、このまま今日出勤するつもりなんですか?」

馬鹿じゃないんですか。と追撃されて、でもペナルティ、と思ってそれをそのまま口から垂れ流すと、宇佐美が呆れたように大きくため息をついた。

「はぁ、しょうがないなぁ。今度ボトル入れに行ってあげますよ。だから今日は休んでください。なんなら僕がお店に話つけてあげましょうか?」
「いっいえ…!大丈夫ですっ!」
「なんだ、残念です」

たった今この部屋での光景を目にしてそんなこと頼めるはずもない。そのままビルを降りると宇佐美はスマホを取り出して「百之助?ああ、終わった終わった。うん。ビルの東にいるからそこまで車回して」と気安い様子で仲間らしき男を呼び出す。

「今、車呼びますから」
「あ…は、はい…」
「とりあえず怪我はなさそうですけど、その手首はきっちり消毒しといてくださいね」

そう言われて自分の手首を見て、初めて縄の痕がついていることに気が付いた。宇佐美はそれからポケットから煙草を取り出すと、手持ちのジッポライターで火をつける。すぅ、はぁ、とゆっくり息を吸って吐いて、目の前が白く染まってすぐに透明度を取り戻す。そして何かを思い出したように宇佐美がナマエを見て、今度はこちらに向かってフゥッと煙を吹きかけてきた。

「ねぇ、ミョウジさん調べたんですよね、この意味」

宇佐美の目がじぃっと細められる。もちろん調べた。しかも言われたその日に。宇佐美にはそれを黙っていたのに、やっぱり彼はお見通しだったようだ。顔に熱が集まるのを感じて、それを誤魔化すためにふいっと視線を逸らした。

「顔、赤くなってますよ」
「あ、赤信号のせいですッ!」

どうにも苦しい言い訳をしながら表の道で煌々と赤い光を放つ信号を指さす。赤信号はそのうち青に変わってしまうだろう。そうしたらもうそこからは、進むしかない。


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