Signal Red 04


宇佐美に焼き肉を奢られた翌日、新しく購入したドレスに身を包み、ナマエは重い足取りで出勤をした。足取りは重いが、新しいドレスは少しだけ気持ちが上がる気がする。仕事用に濃い目のメイクを施し、申し訳程度のアクセサリーを身に着けると、待機席に向かう。今日は営業が上手くいっていなかったから本指名が入るかどうかは怪しい。労働意欲の低いキャストなんてこんなものだ、と自分に言い訳をしながら煌びやかなホールに出ると、早速黒服に声をかけられた。

「マリーさんご指名です」
「え、あ、はい」

開店早々本指名が入るなんて珍しい。少し驚きながら「奇特な客もいるもんだ」と指定された卓に向かった。「こんばんは」と常套句を用意していたけれど、ソファに座る男を見て違う言葉が飛び出た。

「あ、宇佐美さん」
「あってなんですか、あって」
「…すみません」

ナマエを指名した客というのは宇佐美だったようで、黒いスーツにワインレッドのシャツの彼がソファに深く腰かけている。相手が宇佐美だったからうっかり接客に相応しくない態度を取ってしまい、ぺこりと頭を下げて隣に腰かけた。

「えっと、何飲まれます?」
「とりあえずシャンパン入れてください」
「ありがとうございます」

黒服を呼び寄せて注文を通す。ゲストグラスとレディースグラスが運ばれ、シャンパンで小さく乾杯した。ナマエはあまり太い客を持っていないから、ヘルプについたテーブル以外でシャンパンを飲むのは珍しいことだったのだけど、宇佐美が定期的に来るようになってからはこうして彼がそこそこの金額の酒を入れてくれる。

「それ、昨日買ったドレスですか?」
「あ、はい」
「じゃあ、着たのは今日初めてってことですね」
「ええ、はい…まぁ…」

顔見知りだからどうにも接客のスイッチが入らない。いや、顔見知りだからというよりは相手が宇佐美だからかもしれない。そもそも彼はどうして通ってくれているんだろう。初めて店に来た時だってキャストが積極的に接客するのを嫌がって自分を指名したと言っていたはずだ。

「結構似合いますね、そのドレス」
「あ、りがとう、ございます」
「なんですか、そのやる気ない返事。せっかく褒めたのに」

考え事をしていたせいで受け答えがおろそかになって、けれど宇佐美はさほど気分を害したという様子もなくて薄く笑っている。

「でも、そのネックレス、あんまり合ってないですね」
「あり合わせなので…あんまり合うとか合わないとかは考えてませんでした」
「うわ、キャバ嬢の風上にも置けませんね」
「そーですよ、キャスト失格ですよー。大変申し訳ございませんー」

彼の軽口に思わず軽口で返す。こんな口がきけるのも勿論相手が宇佐美だからだ。彼の大きな目が細められてナマエの首元に向けられる。触られているわけでもないのに、まるで喉元を撫でられているような心地になった。

「仕方ないので、僕が買ってあげますよ」
「えッ」

視線に緊張していたら、今度は宇佐美の目がナマエの目を真っすぐに捕えた。両手をパタパタ振って「そんな、悪いですよ」と断ると、彼は「キャバ嬢だったらそのくらい受け取れば良いじゃないですか」と言って軽くため息をつく。

「今日はこのあと仕事あるんですけど、明日はどうです?同伴しましょうよ」
「どっ、同伴…ですか?」
「ええ。明日も出勤ですよね?」

確かに明日も出勤だけれど、まともに指名も取れないナマエが同伴なんて殆どしたことがない。えっと、えっと、と返答を待っているうちに「じゃあ、そういうことで」と半ば勝手に決められる。

「なんです?同伴、初めてなんですか?」
「い、いや流石に初めてではないですけど…」
「なぁんだ、初めてじゃないんですか」

宇佐美は少しつまらなそうにツンッと唇を尖らせた。そしてそれを誤魔化すかのようにシャンパングラスに口をつける。そのしぐさが可愛らしくみえて思わず少し笑ってしまって、目ざとく見つけた宇佐美が「何笑ってんですか」とこちらにじとりと言葉を向ける。

「馬鹿にしてます?」
「いえいえ、滅相もありません」

宇佐美のグラスが空になったのを確認して、ナマエは宇佐美のグラスにシャンパンを注いだ。


同伴、という慣れない言葉を何度も口の中で反芻して、入念に服装を吟味した。セットアップ、ワンピース、いや、こっちのフレアスカートにしようか。選んでいるうちに同伴ということを忘れてデートの支度でもしているような気分になった。

「……いや、これは同伴!これは仕事っ!」

ぶんぶんと頭を振る。いくら宇佐美が相手だといえ気が緩みすぎている。自分できっちり線引きをしなければ。このままの心構えでいたらいつか勘違いしてしまう。友達気分ならまだしも、このまま彼にそれ以上の感情を抱いてしまいそうだ。

「よし、これにしよ!」

結局一番最初に選んだネイビーブルーのセットアップに決めた。可愛いワンピースも魅力的だったけれど、まるでデートみたいだと勘違いが加速しそうでやめた。
待ち合わせ場所に向かうと、まだ時間があるというのに宇佐美はもうすでに到着していて、ナマエは小走りで彼のもとに駆け寄る。

「うっ、宇佐美さんっ!お待たせしました」
「ええ、待ちました」

そこは「今来たところだよ」とか言うところじゃないのか。いや、それは流石に夢を見すぎだろう。というか、そもそも遅刻もしていないのに文句を言われても困るが。ナマエがなんと返したらいいのかと唇を濁らせていると、くすりと笑うのが空気の震えで伝わる。

「フフ、冗談ですよ。さ、行きましょうか」
「は、はい……」

宇佐美が行く先を指さして、ナマエは彼の隣を歩いた。視線がつい下がってしまって、自分のダークグレーのパンプスと彼のピカピカの革靴のつま先が並んでいるのが目に入った。彼の歩幅はどう考えても彼の身長に見合わないくらいの小ささで、自分に合わせてくれているのだということをひしひしと感じる。

「今日のお店、どこにします?」
「え?」
「ほら、ネックレス。買ってあげるって言ったでしょう」

頭上から声が降ってきて慌てる。そうだ、そもそも彼はそういう理由をつけてナマエを同伴に誘ったのだった。服装だとか今日どんな話をしたらいいんだろうとか、そう言うことばかりが頭の中を占拠していて、どこの店がいいかなんてことは微塵も考えていなかった。ナマエは誤魔化そうかと考えたが、彼の前でそんなことが出来る気もしなくて「すみません、そういうお店疎くって…」と正直に口にする。

「アハハ、どうせそんなことだろうと思いましたよ。だから、店は決めてるんです」
「……もう、意地悪なことしないでくださいよ」
「ミョウジさんにとびきり似合うネックレス探してありますから」

探してある、というのはどういうことだろう。新しいドレスを着たのは昨晩が初めてのことで、彼にネックレスが合わないと指摘されたのも勿論その流れがあったからだ。予め探していたとでも言うようなその言い回しでは、それよりもっと前から、ナマエにネックレスを贈る意思があったように聞こえてしまう。都合よく、そう考えてしまう。

「ほら、ぼさっとしてないで行きますよ」

宇佐美はその真意なんて追及させてくれるわけがなくて、話題が途切れて二人は雑踏の中に溶け込むことになった。視線の先で宇佐美の革手袋に包まれた手がフラフラと視線の先で揺れている。もし、この手を繋いだり、なんてしたら。


宇佐美がナマエを連れてきたのは、とてもじゃないが自分で購入するようなクラスのジュエリーショップじゃなかった。女の子の憧れのハイブランドで、プレゼントではお馴染みの店だ。夜の仕事をしているとこういう店の商品に縁のある女性も多いだろうけれど、腰かけ程度の気持ちで勤めているナマエは買おうとも思わなかったし、プレゼントをしてくるような金を持っている客もいない。

「こ、ここですか?」
「ええ。イヤでした?」
「いえ、その…私には勿体ないというか…」

正直気後れする。ただでさえ高級な品を贈ってもらうということに慣れていないのに、それがしかもジュエリーで、そのうえ宇佐美からのものだなんて。ナマエがうごうごと言い訳を述べていると、宇佐美が少し面倒くさそうにため息をついた。

「勿体ないかどうかを今日決めるのは、ミョウジさんじゃありませんよね」
「え…?」
「僕があなたにここのネックレスを贈る価値があると思っているっていうだけです。それ以上の理由が必要なら、考えてあげなくもないですけど」

かけられた言葉の意味を噛み砕くのに脳みその容量を精一杯割いて、頑張って頑張って勘違いしないようにブレーキをかけようとしても結局は追突してしまう。ナマエが黙っているのを観念したと理解したのか、宇佐美が「行きますよ」と言って店の中に入っていってしまった。

「どれにします?」
「ど、どれって…宇佐美さん、探してあるって言ってませんでした?」
「ああ、それはそれで買いますけど、ミョウジさんが欲しいものがあるならついでにどうぞ」
「つ、ついでにって…」

視線だけで周囲の様子を伺う。店内には数組の客がいて、普通の恋人同士に見える組み合わせ、ホストとその客の組み合わせ、怪しいパパ活らしき中年と若い女性の組み合わせと、いずれにせよ女性側は慣れているような様子であり、こんなにも馴染めていないのは少なくとも自分だけだった。ついでにと言われてもついでに強請れるような金額じゃない。

「…すみません。気後れして何にもピンと来てないです」
「でしょうね。じゃあとりあえず、目当てのもの見に行きましょう」

宇佐美がそう言って自然にナマエの腰を抱いてエスコートを始めて、引っ張られるちからに従ってショーケースの前まで辿り着く。スーツを着て白い手袋をはめた店員が「いらっしゃいませ」とマニュアルに沿った動作で会釈をして二人を迎えた。

「これですよ、可愛いでしょう?」
「あ、ホントだ。すごく可愛い…」

宇佐美が目をつけていたのは丸くシンプルなダイヤモンドとハートのプレートがころんころんと二つ通されているゴールドのネックレスで、ハートのプレートの裏側に兎のモチーフとブランドロゴが刻印されている。確かに凄く可愛いし、店以外でつけても嫌らしくならない程度の絶妙な華やかさを持っているように見えた。

「じゃあ、異論がないならこれで」
「えっ、もう決めちゃうんですか?」
「当たり前でしょう。こういうのは即断即決ですよ」

宇佐美が目の前の店員にそのネックレスを包んでくれるように言い、店員の「かしこまりました」の応答であれよあれよという間にベロアのトレイの上にそのネックレスが鎮座した。
私たち、今どんな関係に見えているんだろう。宇佐美があれこれと宝石の証明やらなにやらの説明を受けている間、ナマエはぼんやりとそんなことを考えた。実際の自分たちの関係である「キャバクラキャストと客」には絶対に見えないだろう。この店で小さく委縮するナマエがまさか高額のジュエリーをプレゼントさせるようなやり手には見えない。じゃあホストと客かと言われると、それはそれで女のほうがあまりにも主導権を握っていないから違和感が残る。じゃあひょっとして、それ以外の。

「ミョウジさん、なにいつまでもぼーっとしてるんですか」
「ヒッ!あ、あれ宇佐美さんお会計は…」
「さっき済みましたよ」

ナマエが宇宙空間に思考を飛ばしているあいだにいつの間にかもろもろの接客が終わったようだ。宇佐美の手には緑みを帯びた青の可愛らしい紙袋が握られている。

「じゃあ、とりあえず食事行きましょうか」
「しょ、食事も行くんですか?」
「同伴なんだから当たり前でしょう。まだミョウジさんの店空くまでどれだけ時間あるとい思ってるんですか?」

彼から飛び出る同伴という言葉に自分の現状を引き出されて何とか頭の中を冷静に整理した。そうだ、同伴、同伴なんだ今日は。店員にお見送りをされならが店を出ると、宇佐美は迷いない足取りで街を歩いた。同伴と言っておきながら気の利いた話題は少しも振ることができずに、あっという間に彼が予約しているというレストランに辿り着く。

「あ、ミョウジさんちょっと待ってください」
「え?」

宇佐美はエレベーターホールの隅に寄ると、ナマエに自分に背を向けて立つように指示する。カサコソと少しの物音がして、背後から宇佐美の手が首元に回った。ちゃり、と小さな音を立てて鎖骨のあたりで先ほどのダイヤモンドとハートのプレートが揺れる。

「まるで僕のものになったみたいだ」

宇佐美がそう言ってにぃと口角を上げるけれど、ごく至近距離から、まるで抱きしめるための予備動作にも似た一連の行動に脳みそは浮足立っていてちっとも入ってこなかった。首筋を指で一直線に撫でられ、キリトリ線と首輪を同時に連想させられた。


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