Signal Red 03


煙草のけむりを吹きかける、というのは、いわゆる夜のお誘いであると家に帰ってインターネットに教わった。なんでも起源は江戸時代の遊郭で遊女がお客にキセルを渡し、そのけむりを遊女に吹きかけることで「一夜を過ごす」ということを表現したものらしい。

「……え、あれってそういう意味だったの…?」

彼の言っていたとおり夜の仕事をする女なら知っていて当然のことだったかもしれないが、あいにくナマエは勤勉な方じゃない。そんな合図であったことは調べて初めて知ったことだった。じゃあなんだ、あのとき宇佐美はホテルにでも誘おうと思っていたというのか。ナマエとしては「煙いなぁ」以外の感想は浮かばずに、随分肩透かしを食らったんじゃないのか。

「じゃあ、尚更わざわざ送ってくれることなかったのに…」

誘って、意図が分からなかったとはいえ断って、そんな相手を彼はわざわざ駅まで送ってくれたということだ。それも強盗事件が起きているという嘘までついて。あの嘘だってなんでついたのか分からない。自分の分かってないところでいろんなことが起きすぎてもうなにをどう解釈すればいいのかさっぱりだった。
正解を彼に求めようと思っても、彼の連絡先は知らない。普通キャバクラに来たのなら営業のために連絡先を聞いているものだが、初来店のときに連絡先を聞こうとしたときに「そういうのいいんで」とばっさり断られてしまった。あの時はお供しているだけと言っていたけれど、その後の来店時も教えてはくれなかった。
営業をしなくてもふらりとやってきてくれる上に、来店すればそれなりの金額のボトルを開けてくれる。労せずしてある程度の売り上げを出してくれる上客だけれど、あの公園での出来事を思い出すとなんだか収まりが悪いものを感じてしまう。


店のある繁華街で今日は新しいドレスを買わなくてはいけなくて、ナマエは昼間の街をトボトボ歩いていた。売り上げ上位争いをしているキャストじゃあるまいし、頻繁に新しいドレスを用意しなければならないわけではないけれど、一番よく着ているドレスがそろそろ店に立つにはみすぼらしい感じになってきてしまっているのだ。

「はぁ、この出費結構痛いよね」

店と提携しているドレスショップだと割引で購入させてくれる。でもこれって結局何パーセントかは店にバックが入ってるんじゃないの、と思ったら素直に喜べない気もするが、そんなことを言っていても仕方がない。
大きめのショッパーをぷらぷらと提げて往来を歩く。夜が本番の華街だから昼間の人通りは少なくて、スーツのサラリーマンよりも健全な外国人観光客のほうが目立っているように見えた。
今日は休みだし、休みの日に仕事場の近くをウロウロするのも気分が下がるし、さっさと帰宅してしまおう。そう思って歩いていると、不意に背後から声をかけられた。

「あれ、ミョウジさん」
「え、あ…宇佐美さん。こんにちは」

振り返ると宇佐美が立っていて、今日は髭のツーブロックの男も一緒のようだった。彼も同業者っぽく見えるが、初来店のときの面子にはいなかった気がする。宇佐美は隣の男に何やら言いつけ、ナマエの方に歩み寄った。

「昼間に珍しいですね」
「あー、ちょっと買い物に…宇佐美さん、よく私だってわかりましたね。ヘアセットもメイクもしてないのに」
「ミョウジさん、マリーのときもそう変わんないでしょう。流石にわかりますよ」

暗に自分の技能不足を指摘されたような気になって苦笑いで返す。仰る通り、他のキャストに比べてやる気のないナマエのヘアメイクはさほど普段と変わりがない。勤め始めて間もない頃はもう少し頑張っていた気もするが、今では見る影もない。

「そういえば、煙の意味、調べました?」
「いっ…いやぁ…まだ……」

咄嗟に嘘をついた。吹きかけられた意図が本気だとして、彼の誘いに昼間っから素面で応じるほどの胆力は持ち合わせていなかった。引き攣るナマエ口元を見て彼はとても楽しそうだ。

「おい宇佐美、その女が例の女か?」
「ちょっと百之助、待ってろって言っただろ」

ぬっと顔を出して割り込んできたのは宇佐美の斜め後ろに立っていたツーブロックの男だった。ナマエはほぼ条件反射でぺこりと頭を下げる。黒々とした反射の少ない瞳がなんだか凄味があって怖い。

「普通だな。もっと派手好みかと思ったが…」
「それは百之助の趣味でしょ」
「なんだよ、実績に則った発言だぜ」

ナマエが会釈をした後も百之助と呼ばれた男は宇佐美と二人で話を続けていってしまって置いてけぼりだ。割り込むこともないだろうとそのまま黙っていれば、宇佐美は男にむかって小言を連発し、そのたびに男が面倒くさそうに眉間にシワを寄せる。いいタイミングでフェードアウト出来ないかなぁ、と考えていると宇佐美のぎょろっとした目がナマエに向けられた。

「昼、食べました?」
「あっ、いや、まだですけど…」
「じゃあ行きましょう。じゃ、百之助、そういうことだから」

まずい。また圧倒されるままよく考えもせず相槌を打ってしまった。百之助という男も一緒に行くのかと思いきや、宇佐美はナマエの二の腕を引いて歩き出しても男はついてこなかった。別に店の外で客と会うことを禁止されているわけじゃないから問題はないといえばないが、彼と昼間にどんな話をすればいいのか皆目見当もつかない。

「あの、食事ってどこに聞くつもりです?」
「そうですねぇ。焼肉ですかね」

昼間っから焼肉か、と少し思ったが「僕のおごりですよ」という言葉に急に前向きな気分になった。昼間から他人の金で焼肉だなんて素晴らしい休日の過ごし方ではないか。
宇佐美の案内で彼の行きつけだという焼肉屋に向かう。ナマエなら普段ひとりで来るようなこともないような高級感のある店構えだった。

「え、宇佐美さん、こんなとこいいんですか?」
「どうぞ遠慮なく」

彼は慣れた様子で店内に入り、店員とも顔見知りのようだった。「よく来るんですね」と言えば「それなりに」となんともそれ以上話の続けようがない相槌が返ってくる。通された半個室の席で何を頼もうかメニューを眺めていると、慌てた様子で何者かがナマエたちの席に近づく。ただの店員というよりは店長という風格の中年男性が宇佐美にぺこぺこと頭を下げながら姿を現した。

「宇佐美さんどうもいつもご贔屓いただきありがとうございます。いやぁ、この前は助かりました。鶴見組さんのおかげで…」
「いえいえ、困ったときはお互い様ですよ」

あからさまに平身低頭な店長らしき男性に向かって宇佐美がにこやかに笑みを返す。鶴見組、と飛び出てきた名前を少し前のナマエであれば「建設会社かなにかかなぁ」とのん気に思うところだが、流石にいまはそれほどのん気ではない。それが恐らく宇佐美の所属している極道組織だろうことは簡単に想像がついた。
それから店長らしき男は重ね重ね礼を言って、ぺこぺこと頭を下げながらバックルームの方へと戻っていった。

「…鶴見組って、宇佐美さんの組ですか?」
「そうですよ。僕が盃交わした組です」
「この前っていうのは?」

物凄く知りたいというわけでもなかったが、ちょっとした好奇心でそう尋ねる。宇佐美はそんなナマエに平然とした顔で「この店、うちのケツモチなんですよ」と言った。ケツモチ、という言葉の正確な意味はわからないけれど、文脈的にみかじめ料とか用心棒とかそういう類いの話だろう。

「この前敵対勢力の馬鹿が店でけしかけてきたので、それをサクッと掃除しただけです」
「て、敵対勢力…」
「ここらへんじゃ珍しい話でもないですよ」

会話の途中でさらさらと宇佐美がオーダーを通して、あれよあれよという間にツヤツヤと
脂ののった肉が大きな皿に盛り付けられて運ばれる。淀みない仕草で熱せられた網に肉が乗せられ、じゅうじゅうと香ばしい音と匂いが広がった。

「鶴見組……じゃあ、お供に来て下さったっていうときに向かいの卓にいらっしゃったのってその鶴見組の方ですか?」
「ええ。鶴見の親父です。フフ、僕は特別に鶴見さんって呼ばせてもらってるんですけどね」
「あはは…そうですか…」

親父、ということは、あの優しげな髭の紳士が極道の組長らしい。人は見かけによらないとはこのことだろう。鶴見の話をしている宇佐美は随分とニヤニヤ嬉しそうだ。そうとう鶴見のことが好きなのだとみえる。

「そういう方たちって本当に活動してるんですねぇ」
「どういう意味です?」
「いや、映画の中の世界っていうか…私の人生では縁がなかったので」

その映画の世界だっておぼろげなくらいだ。目の前にいるこの男が極道だとわかっていてもなんとなく実感も湧かない。夜中の公園ならまだしも、昼間の焼肉屋でせっせと肉の世話を焼かれている現状であれば尚更だ。

「おかまバーで喧嘩に巻き込まれといてよく言いますね」
「まぁ…確かに…」
「本当に何にも知らないみたいですけど、この辺りってシマ争いで最近騒がしいんですよ」
「シマっていうのはもしかして…」
「はい。ヤクザ同士の縄張り争いですね」

任侠映画でしか聞いたことのないワードにヒックと息をのむ。あまりにも平然な顔で言ってくるのに危機感が見えず、だから逆に彼にとっては日常なのだろうと現実味を帯びて聞こえる。話をするうちに彼のひとあたりの良さのためかヤクザだということを忘れたくなってしまうが、やっぱりきっちりしっかりヤクザなのだった。

「それがまたこないだみたいに嘘だってことは…」
「残念ながら、ないですね」

この前の強盗事件の嘘のように話そのものが嘘である可能性を疑ってみたけれど、そういうことでもないらしい。こんなことを言われては出勤さえ億劫になる。元々店に対してやる気がないのだから尚更だ。

「ま、極道の知り合いだと思われさえしなければ危険は少ないと思いますけど」

さすがに無関係のカタギの女性に手を出すようなことはありませんから。と付け加えられた。いや、だったら今まさにこうして往来で彼と話したり、あまつさえ一緒に食事をしているのはそう認識される一因になってしまうのではないか。

「あの、宇佐美さんはその…ヤのつくご職業なんです、よね?」
「はい、そうですけど。前も言いましたよね」
「じゃあこの状況…」
「ああ、そういうことですか」

全く悪びれる様子もなく宇佐美が肯定した。まぁ悪びれてくれる理由もないとは思うが、今まさに極道の知り合いだと思われさえしなければと言った口でよくもまぁと思ってじっとり見つめる。

「そんなに心配しなくても滅多なことはありませんよ。組長の女ってわけでもないのに」
「まぁ…そういうもんですか…」

宇佐美がカラっと笑ってみせて、それもそうかと思い直した。芸能人のスキャンダルじゃあるまいし、多少食事をしているくらいで極道と深い仲と思われることもあるまい。しかも彼の口ぶりからするにマトになるのはもっと幹部の相手をしているような女性のようで、少なくとも焼肉を食べたくらいでどうこうということはないだろう。それなら遠慮なく頂くに限る。

「ほら、焼けましたよ」
「あ。ありがとうございます」
「ミョウジさん、肉好きですか?」
「え、はい。そうですね…お魚よりはお肉が好きかもしれないです」

意図の分からない質問に何の飾り気もなくそのままの答えを曝け出す。宇佐美は「そうですか」というだけでそれ以上どうこうというつもりもないようだ。「宇佐美さんはどうなんですか」と聞き返すと「好きじゃなきゃ焼肉なんて連れてきませんよ」と少し呆れ交じりの返答があった。呆れられるのは大変遺憾である。

「そういえば、宇佐美さんなんで私の名前知ってたんですか?」

初めて会ったときは名乗るも何もなかったし、店に来てくれたときももちろん源氏名しか名乗っていない。けれどあの日の帰り、彼は確かにナマエの名前を知っていたし、それから当然のように呼んでくる。

「さて、なんででしょうね」

はぐらかすように笑った。追求しようとしたら上手に焼けたカルビを皿に乗せられ、抵抗も出来ずに焼肉の前にひれ伏すことになったのだった。


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