Signal Red 02


あの日は妙な客にあたってしまってドッと疲れた。もう金輪際御免願いたいと思っていたが、そういうことほど結局何度も繰り返すものである。あの宇佐美という男は確認の通りその週末に店を訪れ、しっかりナマエを本指名した。正直「うわ」と思ったが、これといった理由もなく断ることは出来ない。指名の通りに卓に着くことになった。
まぁ別に、彼がマナーの悪い客というわけじゃない。おさわりなんかはしないし、適度に酒を入れて適度になんということもない話をして帰る、充分に上客と呼べる客だった。

「マリーちゃん、4卓指名ね」
「あ、はーい」

例えば、この4卓に座っている客なんてその真逆である。隙あらば太ももに触ってこようとするし、ケチで高い酒は絶対に入れてくれない。女の子の飲み物も頼ませてくれないし、正直ワンセットで帰って欲しい客だ。

「こんばんは、お久しぶりですねぇ」
「あー、マリ―ちゃんマリ―ちゃん!待ってたよぉ!」

どこかでもう随分飲んできているのか、客は出来上がっている。酔っぱらった客が来ることはそれほど珍しいことではないけれど、この男の場合酔い方が下品だから目について仕方ないのだ。

「マリーちゃんに会えなくて寂しかったよぉ」
「あはは、私も寂しかったですぅ」

太ももに触れてこようとする手を繋ぐことで阻止する。手も繋ぎたくないのが本音だけれど、太ももにベタベタ触られるよりはマシだ。あまり派手なことをすると流石に黒服が止めに入るけれど、多少のことでは店も騒ぎ立てない。そういう厭らしい具合を狙って触ってくるのがこの客のたちの悪いところだった。

「私も喉渇いちゃいましたぁ」
「あーうんそう。えーっと、じゃあ酎ハイね。どれがいい?」
「わー、ありがとうございますー!」

酎ハイ一杯で大袈裟に喜んで見せる。普段はこれさえ断ってくるような客だが、恐らくこの一杯きりでおかわりはNGを出すだろう。全くケチな客だ。ニコニコ目一杯の笑顔を浮かべて店の中でも最安値の部類に入る酎ハイをさも貴重で特別なもののような態度で乾杯する。もうヤメちゃなさいよォ。というママの声を思い出し、芋づる式にあの男のことまで思い出した。


ケチな客のあとに本指名が数人とヘルプでいくつか卓についた。やる気のないナマエとしてはそれほど悔しいというわけでもない。今日は早上がりで終電まで充分時間があるし、そうだ、このまま飲みに行こう、と思って飲み屋街に足をむけようとして、行きつけだったディアンヌの店がなんだかんだでなくなってしまったことを思い出した。

「…そうだ、ママの店なくなっちゃったんだった…」

あのあと店がどうなっているのか見に行っていないからわからないが、マトモに営業できていないことは間違いないし、宇佐美にも来るなと釘を刺されている。家で飲むという手もあるが、家で飲むといつもグダグダに酔ってしまうのだ。

「……よし」

他の店に飛び込むことも考えたけれど、ナマエはコンビニに向かうことを選択した。小さいボトルワインにするか、それとも缶酎ハイにするか。いや、酎ハイはあのケチな客を思い出すから今日は気分じゃない。結局ワンカップを購入しておつまみにホットスナックの焼き鳥を買った。
その足で家の方面へ歩き出し、お目当ての小さな児童公園に辿り着くと自販機の並びにあるベンチに座った。ビニール袋からワンカップと焼き鳥を取り出し、かぱっと蓋を開ける。

「おつかれぇ〜」

誰に言うでもなく小さな声でそう言ってワンカップの容器をちらりと掲げる。ふちに口をつけて日本酒を呷ると、喉にじゅわっと熱がともる。店で飲む酒は少しも美味しくないけれど、ひとりで飲む酒は違う。

「あー、美味し……」

米の匂いの香る…といってもかなりチープな日本酒だ。それでも嫌な客の開けるシャンパンよりよっぽど美味い。ぷらんっと足元を遊ばせ、もう一度ワンカップの容器を傾けた。この公園は繁華街の端にあって、出勤のときに通りがかると子供たちが遊んでいるのを見かける。ブランコと滑り台と小さな砂場。楽しそうに遊んでいた子供たちの顔をおぼろげに思い浮かべる。ざりっと砂を踏む音がした。こんなところに誰か来たのか、と顔を上げる。

「うわ、流石に公園でワンカップは引きますけど」
「……宇佐美さん」

公園の入口に立っていたのはこのところ急速にナマエの常連客になりつつある宇佐美だった。うげ、という顔を隠せないままでくちを歪め、即座に仕事スイッチを入れる。いくらやる気のない腰かけのキャバ嬢だといっても、さすがに普段と同じわけではない。

「いまお仕事終わりなんですか?」
「ええ、まぁ。丁度一件渉外が終わったところです」
「しょうがい……?」
「まぁ、平たく言えば外部との交渉…もっとわかりやすく言うと、脅しですね」

噛み砕かれた内容にヒックと息を飲む。ああ、聞き返さなければよかった。宇佐美はすたすたと自販機に歩み寄って飲み物を購入するとナマエの隣に腰を下ろす。なんで座るんですか、と言ってしまえれば良かったが、生憎そんな度胸はない。

「うわっ、宇佐美さん、お顔怪我してますよ!?」
「怪我?…ああ、返り血です」

ヒックともう一回息をのんだ。返り血って、そんな気軽な感じで言わないでほしい。もっとも、彼からすれば日常茶飯事なのかもしれないけれど。ナマエは鞄からハンカチを取り出すと、数秒それを見てから宇佐美が「どうも」と受け取って顔をぬぐった。

「で、こんなところで何やってるんです?」
「え。特には何も……行きつけのお店が色々あって行けなくなっちゃったので、ここで飲んでました」
「ああ、あのオカマバーですか」

色々語弊がある気がするけれど怖いから突っ込むのはやめた。宇佐美が上着のポケットに手を伸ばして煙草をとりだして咥えたから、条件反射でライターを差し出した。するとナマエの行動に少しだけ目を見開いて、その火にそっと煙草を近づける。

「店の外でそんなことしなくていいのに」
「……すみません、癖で」

バツが悪くなってライターを引っ込めた。仕事柄というのもあるけれど、そのうえ相手が客なのだから尚更だ。ちろりと宇佐美のほうを盗み見ると、かたちの良い唇を開いてハァと煙を吐き出していた。

「…なんです?」
「え、いや……煙草、吸うんだなぁ…と思って…」
「店では吸いませんからね。普通に吸いますよ」

彼から香る匂いでなんとなく喫煙者のような気はしていたけれど、実際に吸っているところは初めて見た。童顔に煙草は似合わないと思いきや、想像以上に煙草を吸っている彼は絵になった。

「…一本吸います?」
「え、いいんですか?」
「どうぞ」

箱を少しだけゆすって一本だけを飛び出させたそれにナマエはおずおずと手を伸ばす。自分は喫煙者ではなかったし、別に特別煙草を吸いたい願望があったわけではないのだけれど、彼の絵になる姿を目にしてなんとなく触発されてしまった。口に咥えると、ナマエが自分で火をつけるより早く宇佐美がライターを差し出す。灯されたそれに先を向けてゆっくり息を吸った。ジリッとシガレットペーパーが燃える。

「うえ…にがい…」
「当たり前ですよ。煙草ですから」

宇佐美がおもしろそうにくすくす笑った。舌の上に濃い苦みがまとわりつく。煙を吸い込もうとしても上手く吸い込めずに咽てしまって、げほげほと情けなく咳き込むことしかできない。絵になる宇佐美には到底及ばなかった。

「煙草、吸ったことないんですか?」
「…はい。今初めて吸いました」
「アハハ、道理で下手くそだと思った」

店に来た時も不愛想というわけじゃないけれども、今日はなんだかよく笑う。相当機嫌が良いんだろう。ナマエがなんとかもう少しだけでも吸ってみようと煙草に向き合っていると、宇佐美は短くなった自分の煙草をケータイ灰皿にジリジリ押しつけて、ナマエの口元から吸いかけの煙草を掻っ攫った。

「あっ……」

宇佐美はその煙草をさも当然のように自身の口元に運び、唇で咥えると煙をゆったり吸い込んだ。一秒ほどたっぷりと時間をとり、それからふうっと煙を吐き出す。彼の目の前がすうっと薄く白く染まり、すぐに透明を取り戻す。喫煙室でも幼い頃の親戚の集まりでも腐るほど見たはずの光景なのに、まるでそれとは違うように見える。

「こうやって吸うんですよ」

にぃ、と宇佐美の右の口角が上がった。いい歳をして間接キスだなんてそんなことを気にすることもないのに、自分が口をつけた煙草に彼の唇がくっついていることを意識した途端、カァっと身体が熱くなるのを感じてしまった。

「あれ、もしかして照れてます?」
「そッ…んなこと…!!」

見透かされたようなタイミングでそう言われて、咄嗟に上手く言い返せなかった。これで自分の動揺を見破られてしまったのは明白で、次になんと言い訳をしようか頭の中でぐるぐると考えた。すると宇佐美はもう一度煙草に口をつけてゆっくりと吸い込み、今度はナマエにむかってフウッと煙を吐き出す。

「けほっ…けほっ…な、何するんですけ!煙いんですけど…!」

突然のことだったから顔を背けることも出来ずにマトモに煙を食らってしまい、吸い込んだそれで思い切り咳き込む。自分で吸うより副流煙を吸い込んでしまうほうが何倍も煙たく感じる。いきなりなんてことしてくれるんだ、と思って煙で滲む視界のまま控えめに宇佐美を睨みつけると、感情の読めない表情のままこちらを見下ろしていた。

「煙を吹きかける意味、知ってます?」
「え?」
「なんだ、知らないんですか。古典的ですけど、曲がりなりにもキャバクラで働いてるんだったら知っといた方が良いと思いますよ」

煙を吹きかけることに嫌がらせ以外の意味があるというのか。「どういう意味なんですか」と尋ねても「自分で調べればいいじゃないですか」と言って取り合ってくれない。宇佐美はまだ真顔のままで、なんとも居心地が悪くなってナマエは思わずベンチを立ち上がる。

「か、帰ります…!」
「駅まで送ってあげます」
「結構ですっ!」
「あれ、最近この辺で起きた強盗事件知らないんですか?」

平坦な声でそう言われて、そんな物騒な事件が起きていたのかと背筋にゾゾゾと寒気が走った。通いなれた道だとは言え、流石にそんなことを聞いてしまっては恐ろしすぎる。駅までは割と近いけれど時間も時間だし、次の被害者が自分になってしまう可能性を少しでも考えると足が震えてしまいそうだ。

「で、どうします?」
「……お、お願いします…」
「ハイハイ、素直で大変結構ですね」

この状況でナマエがそう言うことなんて宇佐美はお見通しだっただろう。いや、宇佐美でなくても大概の人間は予想できるだろうし、逆にそれを聞いて「大丈夫です」なんて言える豪胆な女はそうそういまい。
彼は吸っていた煙草をケータイ灰皿に押し付けて火種を消してナマエの隣に立った。「行きますよ」と声をかけられて彼の斜め後ろをついて歩く。

「この町、長いんですか?」
「いえ、お店で働くようになってからなんでまだ一年も経ってないですね」
「ああ、道理で警戒心が足りないと思ってました」

馬鹿にされている、と思ったが夜道を送ってもらっている身分で滅多なことは言い返せない。

「キャバクラなら送迎あるでしょう。送ってもらえばいいのに」
「今日は早上がりだったんです」
「はぁ…まぁ、だったらあんなところで飲まなければいいじゃないですか」

放っておいてくれ、と思う反面、いちいち御高説ごもっともである。早上がりで退勤しているのなら、あんな小さい公園でワンカップを傾けずにさっさと帰ったほうが良かっただろうし、そもそもあんな小さい公園で女が夜にワンカップを傾けるのはいかがなものかという話だ。

「今度飲みたくなったら僕が付き合ってあげますよ」
「…はぁ、ありがとうございます」

意図の読めない台詞に適当な相槌をうつ。次第に駅の明かりが近づいてきた。思ったよりもゆっくりとした歩みの中で交わされる彼との会話が心地よくて、ここまで普段の倍以上の時間を要してしまった。

「宇佐美さん、ありがとうございました」
「ええ。そう言えば、強盗事件があったって嘘ですから」
「え…!?」

それをきっかけにここまで送ってもらうことになってるはずなのに、突如として前提を覆されて開いた口が塞がらない。なんでそんな嘘を、と問いただしたかったけれど「終電、行っちゃいますよ」と言われてそんな時間もないことに気が付き、会釈をすると終電にどうにか滑り込んだ。ガタゴトと揺られる電車の中で、彼の煙草を吸う横顔を何度も何度も反芻していた。


戻る








- ナノ -