Signal Red 01


ヤクザキック!続いてチンピラパンチ!おーっとそれを躱してカウンター!
現実逃避めいた実況をしながらバーカウンターの下に身を隠す。そんなのん気な実況をしていられない状況だというのは百も承知だ。その証拠にガタガタと身体が震えている。飛んできたグラスが至近距離で割れて思わず「ヒッ!」と短い悲鳴を漏らした。

「おい!裏からひとり逃げたぞ!追え!」
「ハイッ!!」

威勢の良い声にこれまた威勢の良い声が返事をしてドダダダダと騒がしくナマエのすぐそばを駆け抜けていった。ドン、ガシャン、パリン。物騒なオノマトペが駆け巡っていく。はてさて、一体なんでこんなことに巻き込まれているのか。


夜の蝶…いわゆるキャバクラ嬢として仕事をしているけれども、お客様に喜んでもらおうとか稼いだお金で夢を叶えようだとか、そういうちゃんとした志や展望があるわけではない。就職活動に失敗して日銭を稼ぐのに手ごろな手段だと思って始めただけだった。だからマナーの悪い客のお触りにイラつく気持ちなんて少しも我慢できないし、馬鹿みたいに飲む日々の酒にもうんざりしている。

「はぁー、まじで今日最悪でさぁ。聞いてよママ」

仕事上がりの深夜、女装に身を包んだ男性のスタッフの運営する店、いわゆるゲイバーの類に足を運んでいた。正確には、ここは男性の同性愛者でなくて女性も入店できる観光バーと呼ばれるものなのだが。

「あらァ。ナマエちゃんお疲れ様ァ。ほら、ちゃあんとお水も飲みなさいよォ」
「ありがとママぁ」

ハイアルコールを勢いよく呷ってたところにチェイサーで水を差し出される。言われるとおりにグラスに口をつけて喉を潤していった。ひんやりとアルコールで熱くなった喉が冷やされていく。

「ナマエちゃんねぇ、もうヤメちゃなさいよォ。向いてないわよ、キャバ」
「わかってるよぉ…でもお給料いいしさぁ…」

ぐだぐだと管を巻く。キャバクラの一番いいところはなによりその給料だと思っている。昼職に比べれば勿論水商売の給料なんて破格だ。この生活を始めてしまうとなかなか昼職を探そうと思えない。そもそも就労意欲の薄いナマエにとって、転職活動というのは面倒くさいものの極みでしかない。

「長いこと最前線で働けるってわけでもないんだからねェ。この業界に腰据える気ないなら、サッサとヤメちゃうのが得策ってもんヨ」

先ほどからナマエのしょうもない愚痴に付き合ってくれるのはこのバーの店長であるディアンヌという男だ。女装は趣味なだけで彼自身はストレートらしい。もっとも、店の中で「彼」と呼ぶと毎回怒られるのだけれど。

「ちょっとお手洗い行ってくる」
「便器で溺れないようにね」

ヒラヒラと手を振るママに「はぁい」と間延びした相槌を打ちながらお手洗いに向かった。居心地のいいこのバーの最大の欠点はお手洗いが店の外にあることだ。奥の扉からわざわざ外に出てビルの共有のものを使わなければいけない。

「はぁー…明日の出勤ダル…でも指名あるしなぁ」

キャバ嬢失格ともいえるやる気のなさを露呈させながらお手洗いのドアを開け、ため息とともにスカートをまくり上げて下着をずらす。こんなところでまで仕事の些細なことを考えて嫌な気分になるのなら、大した目標も目的もないのだし辞めてしまえばいいと心底思う。
用を足して洗面スベースで手を洗っていると、なんだかガタガタと騒がしい音が聞こえてきた。繁華街であるこのあたりは酔っぱらいの喧嘩も多い。何かに巻き込まれてしまう前にさっさと店の中に戻ろう。ここらへんの店で一番安全なのはあのバーだ。何せあのママは喧嘩の腕っぷしが強く、現役時代は負けなしだったと聞いたことがある。なんの現役なのかは、聞いたことがなかったけれど。

「ママぁ」

愚痴っぽさを隠しもしないふてぶてしい声でママを呼びながらビルの共有部分から店舗に戻るためのドアを開けると、すぐ目の前をウイスキーグラスが飛んでいった。一瞬何が起きているのかも分からずにフリーズして、次のグラスが飛んできたからなんとか屈んでそれをやり過ごした。

「え、え、ちょ、なにこれ…」

目の前でスーツの男たちと女装に身を包んだ店のスタッフが大暴れしている。ベロアのソファはひっくり返り、グラスは何個も割れて、酒の瓶が床に転がる。「ブチ殺したるそオラァ!」と、映画でしか聞かないような台詞まで飛んできて、ことの経緯は不明であるが、どうやら暴れているスーツの男たちがヤクザか何かであることだけを理解した。

「ヒッ…!」

もぞもぞと這いつくばりながらなんとかカウンターの下まで逃げ込む。怒号が飛び交い、物が破壊される音が容赦なく建物を揺らす。わけはわからないが、突っ立っていたら怪我をすることだけは間違いない。
身を縮こませてやり過ごそうとなんとか試みていると、ピカピカに磨かれた革靴がナマエの前でピタリと止まりカウンターの下に潜む自分を覗き込む。ぎょろっとした目がナマエを捕らえた。

「あれ、カタギ?」

殺される。反射的にそう思って、怖いはずなのに驚きと衝撃が強すぎて涙も出ない。革靴の男は大きな目につんと尖った唇、それから両頬にある棒人間みたいな異様な落書きが特徴的だった。手が延ばされて、ナマエはびくりと身体を震わせる。

「こ、殺さないでくださいぃぃぃ!!」
「はぁ?」

命乞いに対して面倒くさそうな言葉だけが返ってきて、涙で視界を滲ませていれば二の腕を引かれて立ちあがることを強制される。もつれる足のまま彼に連れていかれたのはお手洗いに行く際も使う裏口の扉であり、そこから押し出すように店の外に出される。

「すみません、カタギがまだ残ってるなんて気付きませんでした。こっちからまっすぐ北に抜ければ人通り多い道に抜けれますから」
「あ、あの…ディアンヌさんは…!?」
「ディアンヌ…って、ああ、権堂のことね。あいつ最前線退いてるけど立派なヤクザですよ。この店も今日きり営業できないだろうから、もうここには来ない方がいいと思いますけど」

呆気にとられ過ぎて「あっ、そうなんですね」とスーパーで在庫切れを告げられたような軽さで相槌を打ってしまって、そのままシッシと手で払われてビルを追い出された。ガシャンとまた大きな物音が鳴り響き、とにもかくにもここを逃げないとどうしようもないとビルを逃げ出した。


昨日はとんでもないことに巻き込まれた。結局何が何だったのかよくわからないが、あの逃がしてくれたほくろの男によればあの優しいママはヤクザ者であり、戦っていたところを見るにほくろの男は敵対勢力かなにかということだろうか。

「おはようございまーす」

どれだけ面倒なことに巻き込まれようと、夕方になれば出勤しなければならない。今日は指名客が来る予定だし、欠勤のぺナルティも馬鹿にならない。更衣室の隅っこでドレスに着替え、申し訳程度にアクセサリー類を身に着けると、普段よりも濃い目の仕事用のメイクで顔面を彩る。
開店早々に約束をしていたナマエの指名客が来店して、ワンセットで帰っていった。殆ど毎回ワンセットで帰っていくケチな客である。一度バックルームに戻って化粧を直してから待機席に座ってヘルプの要請やフリーの卓、あわよくば場内指名を待つ身になる。

「マリーさんご指名です」
「あ、はい」

未だに慣れない源氏名を呼ばれて慌ててドレスを整えて指定された卓に向かう。ヘルプでもフリーでもなく場内指名だ。「はじめましてぇ」の常套句を口にしながら客の前に立つと、男の顔に嫌でも口角がヒクヒクと引き攣った。何故なら男の頬にくっきりと棒人間のような落書きが描かれていたからだ。

「あ、来た来た」
「え……と、あの…」

とにかく謝る。なにはなくとも逃げる。その二択が頭の中に浮かぶ。どっちもあまり得策とは思えないけれど、そもそもなんで彼がここにいるんだろう。まさか目撃者である自分を消しに来たのか。いや、それならそもそも昨晩逃がさずに殺していたはずだろう。「目立つから座ったらどうですか」と言われ、おずおずと彼の隣に腰を下ろした。

「マ、マリーです…よろしくお願い、します…」
「僕、宇佐美っていいます。今日は特に遊びに来たわけじゃないんで、適当に酒入れてくれればいいですから」
「え?じゃ、じゃあその、やっぱり…」

自分に用があって来たのか。そう思ってモゴモゴ唇を濁らせていると、宇佐美と名乗った彼はきゅっと眉間にシワを寄せ「あなたに何かしようってわけじゃないですからね」とナマエの考えを否定して見せる。

「僕はお供で来ただけですよ」

宇佐美はそう言って視線だけで向かいの卓をさす。失礼にならないように視線をそちらに向けて確認すると、宇佐美のさした先の卓にもいかつい男が座っていてキャストを何人もつけて盛り上がっているようだった。

「あちらのお客様、お知り合いなんですか?」
「そうですね。僕の親父ですよ」
「お父さん?」
「ああ、そういうのじゃなくって」

親子でキャバクラ?と首をひねったらそういうことでもないらしい。とりあえずセット料金に含まれているハウスボトルの焼酎で水割りを作る。それをコースターに置くと、宇佐美が「マリーさんも好きなの飲んでください」と言ったので「じゃあ、いただきます」と言ってカクテルをボーイに頼んだ。

「シャンパンとか開けても良かったのに」
「え、そんな…」
「どうせ今日の飲み代組の払いですからね」

さらっと出てきた「組」という言葉に改めて口角を痙攣させる。とりあえず届いたレディースグラスをボーイから受け取り、グラスを傾けるだけの乾杯をした。焼酎の水割りを半分ほど一気に飲み干し、彼の視線はそこはかとなく向こうの卓に向けられている。

「あの、親父さんっていうのはもしかして…」
「そうです。渡世の親…まぁつまり、僕の極道の親父分ってことですね」
「ああ、はい…」

そりゃあ恐らくヤクザの類いだとは思っていたが、しっかり言語化されて背中に汗をかいた。ということは、向こうの卓にいるいかつい男に囲まれた優し気な髭の男性もヤクザということだろう。全然そうは見えないのだけれど。
グラスにちょんと口をつけて中身を減らす。宇佐美がすぐに水割りを飲み干したから、次の飲み物を勧めたらポンっとシャンパンを入れてくれた。場内指名だけどこれは嬉しい売上だ。今度はふたりでシャンパングラスで乾杯をして、ちょこんとまた口をつける。彼を見ればつんとした唇をナマエと同じようにグラスにつけていた。

「場内指名、してくれたんですよね?」
「はい、そうですよ。遊ぶ気もないのに女の子に必死になって接客してもらうのも面倒じゃないですか。あなたなら昨日のこともあるし、面倒なこと言わずに黙ってお酒飲んでてくれるかと思ったので。待機席に座ってたから指名したんです」

一気に理由を説明してくれてなるほどと状況を理解する。変な偶然もあったものだ。昨晩彼らがカチコミに来た先にいた客が今度は彼らを接客する方に回っているなんて。同じ狭い繁華街のなかだとはいえ、そうそうあるものじゃない。

「マリーさん、売れてないんですね」
「ウッ……」
「顔良いのに、相当接客が残念なんですかね。あ、それとも営業?」
「ど、どっちもです…」

痛いところを突かれ、たじたじになりながら肩を落とす。宇佐美が自ら言っていたようにお供で来ただけのようで、ナマエがいわゆる接客をしていなくても気に留める様子もない。むしろその方が居心地がいいらしい。確かに場内指名はチャンスだから、卓についたキャストはせっせと接客するに決まっている。
それから小一時間もしないうちに彼の「親父」のいる卓がお開きになるようで、宇佐美もそれに合わせて動き始めたためにナマエもボーイを呼び止めて会計を頼めば、ボーイは向こうの卓と同じ支払いであることを既に承知していたようでその旨を伝えて下がっていく。

「マリ―さん、今週末って出勤してます?」
「え、あ、はい……」

見送りに店先まで出ると、宇佐美の親父という紳士たちは少し先を歩いていた。去り際にそんなことを問われて、何も考える間もなく条件反射で自分の出勤状況を答えてしまった。

「それじゃあ、また来ますね。ミョウジナマエさん」

突然名前を呼ばれて心臓にぞくっと冷たいものが走った。どうして私の名前を、という疑問を投げかける間もなく彼は視線を外してすっと踵を返してしまった。少し先に見える赤信号が煌々と光を放っていた。



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