素敵な愛が始まる予感・後編


※明確な表現、別ヒロインは出ませんが月島連載「君によく似た死神」と同じ世界線を前提にしています。

妙齢になれば、見合いの話が舞い込んでくるのは当たり前のことで、ナマエもご多聞に漏れなかった。親の伝手で決められた相手や近隣の村の年頃の男女が娶せられる。それは一般庶民のことで、それなりの家格の娘ともなればそう簡単に決まることではない。
家のためになる人物との結婚を求められ、ろくに話したこともなく、あるいは結婚するまでまともに顔を見たことのない相手との結婚を決められることもある。それはべつに特殊なことではなくて、受け入れなければならない運命のひとつであった。

「ナマエ、兄さんも結婚が決まったんだ。お前もそろそろ真面目に考えんか」

父に小言めいたことを言われ、ナマエは内心もやもやとしたものを抱えた。家のことを思うのなら結婚をするのは当たり前だし、婦女子たるもの甲斐性のある旦那に嫁ぐことこそ幸せなことであるというのは理解する。父が急かすのは、自分が結局女学校を卒業するまで結婚を決めなかったからだろう。女学校の学友は殆どが在学中に結婚して中退していったし、そうでなくても婚約を済ませて卒業後すぐに結婚をするのだと決まっていた。

「……よいお相手がおりません」
「またそんなことを言って。うちはまだいいが…他の家ならこうも悠長に待っていられんのだからな」
「…はい。肝に銘じます」
「まったくおまえは…はぁ、まぁいい。見合い写真を持ってきたから、また目を通しておきなさい」

父はそう言って少しため息をつき、いくつかの見合い写真をナマエの机の上に置いて行く。ナマエは父を見送り、それから置き去りにされた写真に手を付けた。写真には釣書が添えられていた。

「東京…東京…東京…あ、この方は大阪!…はぁ、すぐに上京なさるのね」

釣書の所在地や生業の欄を確認せども、殆どの人間が東京在住であり、たまに大阪や名古屋の人間がいたとしても、商売のためにゆくゆくは上京するつもりだと書いてあった。商売人ともなれば、東京で一旗あげようというのは当然のことであるし、東京を住まいとするミョウジ家への配慮でもあるだろう。

「だけれど、それがつまらないの」

ぺらりと釣書を弄び、不要な折り目をひとつ足す。ああつまらない。つまらない。自分はこのままずっと東京を出ることもなく煌びやかな文明だけを見て死んでいくのだ。贅沢なことと多くの人間に言われるだろうが、ひとりで外を歩くこともままならない「誰かに決められるしかない」自分の人生を憂いているのは紛れもない本心だった。

「ナマエお嬢様、お見合い写真と釣書をお持ちしました」
「…どうぞ。持ってきて頂戴」

使用人の声がしてナマエは「まだ追加があるのか」と少し呆れ交じりに使用人に入室を許可してそれを受け取る。今度はどこの商人か、はたまた貴族院の恩恵に預かろうという良家の息子か。そう思いながら開いたそこには、軍人の姿が写されていた。

「将校様?」

浅黒い肌を持つ美丈夫で、陸軍少尉を示す軍服に身を包んでいる。目鼻立ちがはっきりしていて、軍人だというよりは役者かなにかのほうがそれらしいほどの美貌だった。祖父が海軍だったこともあって、海城学校の人間から見合いを申し込まれたこともあったが、陸軍の人間から申し込まれるのは初めてだ。どうやらこの写真の主の母がミョウジ家の少し遠い親戚筋にあたるらしい。
ひときわ目を引いたのは、彼の居住地の「北海道」という文字だった。北海道。東京さえ出たことのないナマエにとってはそこは想像も出来ないような場所だ。明治時代に入って急速に開拓が進んでいるらしいけれど、実際はどんなところなんだろう。

「鯉登…音之進、さま」

もしも彼が連れ出してくれるのなら、素敵だ。このひとの見合いの申し出を受けよう。そう思い立ち、ナマエはその写真と釣書を持って父の書斎に向かった。


そうして用意された見合いの席。ナマエは美丈夫を前に心を躍らせた。彼の口から聞かされる遠い北海道の地のことはどれも瑞々しくて魅力的で、何より彼の寛容で柔軟な考え方が素敵だと思ったし、父には注意されがちな自分の知的好奇心からくる女性らしくない振る舞いや口の利き方をすることも、目の付け所がするどい、なんて言ってくれた。
一番素敵だと思ったのは、北海道に先住するアイヌ民族に対する姿勢だった。アイヌ民族は我々和人とは違う文化や宗教、生活習慣を持っている。少数のものを排他したがる人間の性質のためにアイヌのことを文明的ではないと下に見るような人間も少なくないが、ナマエはそうは思わなかった。違うということはときに分かり合えないことだけれど、本当は讃え合うべきもので、それぞれにないものを補うことも出来る。あまり家では歓迎されないこの考え方と、鯉登も同じように考えているのだと思ったら嬉しくなってしまった。
左頬の傷は少しだけ恐ろしいような気もしたけれど、彼の優しい物腰と相反した激しい痕跡はむしろ彼の魅力を高めていると思った。

「はぁ、音之進様…素敵な殿方だった…」

見合いや結婚なんて誰としても同じなのだから、許される範囲内で自分の一番我が儘の通る相手と結婚しよう。ナマエは狡賢くもそんなことを考えていたが、彼に出会って「誰としても同じ」という考えはさっぱりとたち消えた。自分を受け入れてくれる相手と、自分と同じものを見てくれる相手と結婚したい。
鯉登とはあのあと、三週間後にホテルの中の庭園を散歩しようと約束を取り付けることが出来た。今からどんなおめかしをしていこうかと心が弾むばかりだ。


三週間後、また帝国ホテルで待ち合わせをして、今度は庭園を並んで歩く。家族でも使用人でもない男性と隣り合って歩くなんてあまり経験がないから、それだけで緊張した。冬の陽の光の下で見る彼は室内で見るよりも凛々しく精悍に見えた。

「今日は、よいお天気ですわね」
「ええ、先日は晴れとはいきませんでしたが、今日は散策に丁度良い気候ですね」

木々が美しく色づき、透き通った陽射しが噴水の水をきらめかせる。首筋を撫でる冷たい風は冬の香りを乗せていて、土の匂いがゆっくりと通り過ぎる。

「北海道は、お寒いのですか?」
「そうですね。夏も夜は冷えるくらいですから、冬は随分厳しいかと思います」
「まぁ、夏が冷えるだなんて不思議ですね」

鯉登によれば、やはり植生もずいぶんと違うらしい。鹿児島と北海道、日本の南と北に居住の経験がある鯉登の話はどれも面白くて、いくらでも話を聞いていたくなる。

「ナマエさん」

いくつかの話の途中に不意に鯉登が立ち止まり、ナマエはそれと時間差で足を止めて振り返った。改まってナマエの名を呼ぶ彼は一度ナマエを見て、それから気まずそうに逸らされる。一体何を言うつもりなのか。まさかこの見合いの話をなかったことにしたいだとか、そういう話だろうか。鯉登は三拍ほど置いてようやく口を開く。

「……正直に申し上げて、私はナマエさんとの婚姻を、ごく個人的なもののために利用しようとしているのです」

思ってもみなかった言葉が飛んできて、何を当たり前のことを言っているのだろうと思ってパチパチとまばたきをする。ナマエの凪いだ脳内とは裏腹に鯉登は深刻そうな様子で、逸らされた視線はまたゆっくりと、今度は意思を持ってナマエのそれと交わった。

「ですが、結婚した暁には、誠心誠意あなたを幸せにすると誓います。どうか、私と結婚していただけませんか」

おかしなことを言うひとだ。婚姻を利用しない上流階級の人間はいないだろう。自分はその道具であるし、誰だって口にしないだけで利用したいから自分に見合いを申し込む。それがどうした、彼は赤裸々に言葉にして、その上で幸せを誓おうなんて言う。

「……不思議なことをおっしゃるんですね」

ナマエはぽつんと鯉登に聞こえるか否かの小さな声でこぼした。風が空気をさらって入れ替わる。まるで新世界の門出に相応しいもののように思えた。

「では私も、音之進さまを利用していいかしら」
「私を利用…ですか?」

思わずとばかりに鯉登が聞き返した。結婚が利害関係なのは当然のことだけれど、彼がそんなにも気にした様子で言うのなら、自分も同じようなことを言って彼の荷を下ろしてやることは出来ないだろうか。

「私、東京を出ていろんなところに行ってみたいんです」

彼とならひょっとして、どこか遠くに行けるのかもしれない。それは物理的なものであり、精神的なものでもあった。彼のような独自の視点を持つことのできる相手と、いろんなものを見に行きたい。それが出来たらどんなに素敵だろう。

「今までお見合いを申し込んでくださった方は東京にお住まいの方だとか、東京に根を下ろしたい方だとか、そういう方ばかりなんです。ミョウジ家に配慮してくださるのは有り難いことなのですけれど、私、このまま東京を出ることも出来ないなんていやなんです」

この国は美しいと、歌人や俳人、文筆家は言う。想像でしか知らないそれを自分の目で確かめてみたい。女は守られているけれど、一方で不自由でもある。東京から出ることだって男に比べて難しくて、生まれた家のためもあってナマエにはもっと難しい。

「将校さまはご出世なさるときにいろんなところへ転属なさるのでしょう?それすべてに私を連れて行ってくれませんか」
「無論それはナマエさんさえお嫌でなければお連れしますが…」
「では、決まりですね」

彼のような士官は栄転を望めば転属になることも多い。普通は転属先になど妻子はついて行きたがらないものであるが、ナマエにとってはこれ以上に無い大義名分だった。

「よろしいのですか、ここでお決めになって…」
「ええ。もちろんです。父や祖父はあなたの釣書を持ってきたときから承諾の意志があるということですもの」

あまりにもナマエがさっぱり言うものだからなのか、それとも彼の中に思うところがあるからなのか、鯉登はナマエを気遣うようにそう尋ねた。しかし心配は無用であるし、彼が拒絶をするのならまだしも、そうでないのなら自分に断る理由はひとつも見当たらない。鯉登が口を閉じ、ナマエをジッと見つめた。

「音之進さまは私を利用して…私は音之進さまを利用する。なんだか秘密の約束みたいで素敵じゃありませんか」

透き通る陽射しの中で笑顔を浮かべる彼女に鯉登が手を差し伸べる。ナマエはゆっくりとそれをとると、彼のささやかな力に任せてそっと身を寄せた。軍衣はざらざらと固い生地で出来ていて、逞しい彼の身体を包むには似合いのものだと思った。

「この人生をかけて、あなたを幸せにすると誓います」
「音之進様と一緒なら、なにか素敵なことが始まる気がするのです」
「それは光栄だ」

庭園は木々に遮られて、まるで二人だけの空間のように思われた。鯉登の手がやわらかにナマエの肩を抱く。
明治41年冬。帝国ホテルの中庭で二人の婚約が内定した。一見奇妙な盟約を結んだかのようなこの縁は、実にこのあと半世紀以上も続くことになるのである。


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