素敵な愛が始まる予感・前編


※明確な表現、別ヒロインは出ませんが月島連載「君によく似た死神」と同じ世界線を前提にしています。


帝国ホテルの一室。真っ白いテーブルクロスを挟んで男女が座していた。男のほうは浅黒い肌にきりりとした目を持つ通った鼻筋が印象的な美丈夫で、軍装に身を包んでいる。女のほうは頭をひさし髪に結い、山吹色の振袖を身に纏って良家の令嬢然とした佇まいで椅子に腰を下ろしていた。
冬の雲は重たく空の低いところで広がり、お世辞にも「いい天気ですね」なんて言葉は出てきそうにない。

「初めてお目もじ致します。鯉登音之進と申します」
「はじめまして、ミョウジナマエと申します」

いわゆる典型的な見合いの席であり、まさにこの二人がその当人である。


鯉登音之進は、元薩摩藩士の家柄に生まれた次男である。次男と言っても長兄は日清戦争で戦死しており、実質的に家督を継ぐ立場であった。鯉登家は海軍の家柄であったが、音之進は紆余曲折の末、陸軍に志願し、現在は士官学校から原隊復帰の上転属して第七師団歩兵第27連隊に所属する少尉の身の上であった。

「さて…淀川中佐にもう少し交渉を続けねばならんが…」

函館で仮宿としている商家の中、鯉登はこの先のことを決めあぐねていた。何を隠そう、今彼らは反乱分子として裁かれる立場にある。27連隊に属する中尉、鶴見の先導により、志を同じくする者たちがアイヌの隠した金塊を足がかりとした政権転覆を目論んでいたのだ。
先の春、鶴見は件の金塊争奪戦の末、汽車とともに海に沈んで行方不明になっている。しかし事態はこちらで隠匿できる範囲をとうに超え、このままいけば残った者たちはクーデターの実行犯たちとして裁かれるしかない。

「鯉登少尉殿、よろしいですか」
「む、月島軍曹。何かあったか」
「御母堂からお手紙が届いています」

この男は鯉登の部下である軍曹の月島といって、行方不明の鶴見中尉の信奉者のひとりであった。一時はあてもなく鶴見の痕跡を探す毎日を送っていたが、最近やっと鯉登の補佐を務めるように言い含めることに成功したばかりだ。

「母上か…」

鯉登は手紙を受け取る。手紙の差出人は大湊に住む母親からだった。大湊の要港部が開設される前は函館に居住していたが、開設以降には要港部のある大湊へと移っている。長細い封筒を開けると、中から手紙を取り出す。それには現在「事故」として報告されている父の死についてと、自分の身を案じる内容が書かれていた。

「…そろそろお返事を出されては?」
「……そうだな…」

何度か届く手紙に、鯉登はなんと返したらいいのかわからなくて返事を出していなかった。父の死は事故などではない。金塊争奪戦の中で失われたものである。もちろん現在母に本当のことを伝えることは出来ないし、ひょっとするとこの先ずっと母には本当のことを明かせないままかもしれない。

「……婚約…」

母の手紙の最後を視線で追う。そこには母の親類筋のミョウジ家の嫡男がようやく結婚をして、娘のほうの婿を探しているという話が書かれていた。これは暗に自分へそれを斡旋しようという意図が含まれている。ミョウジ家といえば旧土佐藩の上士の家柄で、新華族として子爵に叙任された名家である。しかも現当主は現役時代に軍部から一目置かれていた傑物ではなかったか。

「月島、このあたりで電話がある家はどこだ?」
「は?」
「母に電話をかける」

もしこのミョウジ家の娘との婚約が取り付けられたなら、これからの自分にとって大きな後ろ盾になることは間違いない。今は打算でも計略でもなんでも練って、現状を打破する必要がある。幸か不幸か陸軍と海軍は折り合いが悪く、情報は錯綜しているはずだ。陸軍上層部も出来ることなら今回の醜聞をなんとかなるべく小さく納めようと試みてくるだろう。その前に対策を立てることができればあるいは。
鯉登はそのまま母親に電話をかけ、ミョウジ家の娘との見合いを取り次いでくれないかと頼んだ。家柄で言えばミョウジ家に選ばれる立場にある。母からの連絡は2週間ほどで届き、見合いの日程がまたたく間に決まっていった。


そうして設けられたのが今日の席だ。対峙するナマエは写真で見るよりも少し気が強そうに見えた。とんでもない娘だとしても目的のために飲み込むつもりでいたが、想像よりもナマエは欠点らしい欠点も見えず、彼女は鯉登と穏やかに食事を続けていた。

「音之進さまは、陸軍の少尉でいらっしゃるのですよね」
「ええ。歩兵第27連隊に所属しています」
「北海道はどんなところですか?」

ナマエが特に興味を示したのは北海道の話だった。東京生まれ東京育ちの彼女は遠く離れた北の大地がよほど珍しいのか、気候やら生態やらをあれこれと知りたがった。地元の人間ではない鯉登の北海道に対する知識は地元住民のものに比べればいくらも少ないだろうが、逆に本土で暮らしていたことがあるからこそ違いをとらえることも出来た。

「北海道は食事もずいぶんと違ったのではありませんか?」
「街中はそうでもありませんでしたが…そうですね、ニシンがよく獲れますから、そこかしこでニシン蕎麦が食べられますよ」
「お味はどうでしたか?」
「関東風ですね。醤油の濃い味でした」

ふむ、と少し考えるようにナマエが「関東風…」と復唱する。なにか引っかかったのか、と思って「どうかしましたか」と尋ねると、一拍置いて彼女が口を開いた。

「北海道には関西の北前船が昔から入っていましたでしょう?ですから、てっきり関西の文化が強いものかと思っていたんです」

予想もしていなかった彼女の言葉に鯉登は思わず面食らってしまった。北海道における北前船の交易の件は確かに周知の事実ではあるけども、彼女のようなうら若き乙女から出てくる話題にしてはずいぶん渋いもののように思われる。

「ナマエさんは目の付け所が鋭いのですね。ニシン蕎麦はたまたま関東風でしたが、そうでないものもあるかもしれません。北海道の生活が長いものに今度聞いてきましょう」
「本当ですか?ありがとうございます」

ナマエがふんわりと笑った。渋い話題に反して年頃の少女めいた笑顔である。そのとき控えめに給仕がメインを運んできた。帝国ホテル名物のビーフスチウだ。ほかほかと湯気を上げるそれが二人の前に運ばれ、ナマエはそっと匙を手にスチウの器に沈める。そっと持ち上げた匙はあらかじめ決められていたかのような軌道で彼女の小さな口元に運ばれて、桜色の唇がそれを控えめに挟むようにしてスチウを口の中へ流し込んだ。

「音之進さまも召し上がってください」

そう言われて初めて、自分が彼女の所作に見入っていたことに気が付いた。妙齢の女性の食事姿をこうもしげしげと見つめるなんて礼を失する。鯉登は慌てて匙をとり、自分も同じようにしてスチウを口に運んだけれど、彼女ほど美しい所作でそれが出来たかどうかは甚だ怪しかった。

「音之進さまは北海道のお食事でどんなものがお好きですか?」
「好きな食べ物ですか……」

月寒あんぱん、と口にするのは少しだけ憚られた。連想する人物がいるからだ。恨みつらみだとかそんなものでは決してないけれど、鶴見篤四郎という男の全てを飲み込んで消化するにはまだ時間が足りなかった。

「…興味深かったのは、アイヌの食事ですね」
「まぁ、アイヌの方の?」
「ええ。食事もそうですが、和人とは生活の規則からなにから全て違います。狩猟と採集で暮らす生活は我々の視点では見えないものを見せてくれるように感じました」

明け透けに言ってしまえばこの言葉は逃げであるが、内容に嘘はなかった。金塊争奪戦で樺太のアイヌや少数民族に世話にもなったし、1週間の間だけではあるがアシリパの祖母の家にも世話になった。具体的に想像の出来ていなかったアイヌの生活というものは知るほどに自分たちとは違い、自分たちには見えていないものを見ているような気がした。

「音之進さまは懐の大きな殿方なのですね」
「懐が大きい、ですか。あまり考えたことはありませんでしたが」

どちらかと言えば、自分はその逆に位置しているのではないかと思う。信じたものには一直線で、時おり周囲が見えなくなることもあった。アイヌという存在に対しても一連の金塊争奪戦を経験していなければ、こんなに身近に感じることもなかっただろう。

「とても素敵なことだと思いますわ」

ナマエがきゅっと両方の口角を上げた。それから他愛もない話を挟みながら、食事はゆるやかに続く。ビーフスチウは美味いはずなのに、相槌を打つ彼女の顔のことばかりを覚えてしまって、味わうことなどろくに出来なかった。


もう一度お会いしましょう、と見事に話が進んで、また三週間後に彼女とまみえることが決まった。先方は随分と自分のことをお気に召してくれたらしい。喜ぶべきことだ。そもそも彼女を伝手に利用して自分の足場を固めようとしていたのだから。

「ハァ……」
「どうされたんです。お見合い、失敗でもしたんですか」
「いっそのことその方が良かったのかもしれん」

彼女はあまりにも純粋に自分という人間を見ようとしてくれた。見合いなど家の決めることであり、婚姻関係を利用しようなんていうのも予測できる範囲内のことだと思う。けれど、本人同士に添い遂げる意志がある方が望ましいに決まっている。彼女は歩み寄ろうとしてくれていると思う。後ろめたいのは自分の方だ。月島にそれをぶちまけると、はぁ、といまいち伝わっているのかいないのかよくわからない返事があった。

「結婚なんて家同士のもんでしょう。私のような庶民にはピンと来ませんが、良家の御令嬢なら当たり前のことなのでは?」
「…それでもだ。というか、お前にだけは言われたくない」
「私は背負うものもない庶民ですので」

自身の感情に決着をつけて吹っ切れた自分の部下は随分と良い性格をしている。
自分は部下を守るという目的を果たすためにも出世をしなければならないし、ミョウジ家との繋がりをそれに利用することも考えている。これは彼女の家柄を一般的な範囲を逸脱するかたちで利用するということであって、それを繋ぐのは他でもないナマエだ。彼女にだけは、誠実であらねばならないと思った。

「私はミョウジ家を自分のために利用するのだ。彼女にだけは…誠実であらねばならんだろう」

ひとを欺いて利用することが必ずしも悪だとは言えないと思う。嘘が人を救うこともあると思うし、そのおかげで生きていけるものもいるだろう。そういうものを間近で見た。しかし自分には、それほどまでに人を救えるような嘘をつくことはできない。鯉登は自らの左頬に触れた。これは覚悟の傷だ。


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