Get a Tattoo


狭っ苦しい雑居ビル。とてつもなく入りづらい雰囲気を醸し出すその建物の中を少女は制服のスカートを揺らしながらトントンと小気味いいテンポで上った。一階は空きテナントで、二階には雀荘、三階にやっと、彼女のお目当ての店が入っている。金属製の重い扉は一見するとまるで従業員の出入口のようだが、これがれっきとした正面玄関ともいえるドアだ。

「こんにちはー!」
「…はぁ、また来たの?今日早くない?」
「今日からテスト期間なので、サボりじゃないですよ」

ドアの向こうにはコンクリート打ちっぱなしの部屋が広がっていて、右側にマッサージの施術台のようなものが置かれている。その近くに可動式の椅子と重そうな機械が置かれ、壁には幾何学模様を中心にして何枚ものアート作品が飾られていた。

「はぁ…未成年がこんなとこ来るなって何回言えばわかるの?」
「こんなとこって、別にヤバいお店じゃないじゃないですか」
「そもそも店なんだからお客以外が来るなって話だと思うんだけど」
「えぇぇ…じゃあ私もお客さんになります」
「馬鹿」

男がピンっとナマエの額にデコピンをお見舞いする。「いたぁい…」と必要以上に痛がってみたが、その実少しも痛くなんてなかった。

「宇佐美さんに彫って貰えるならぜんぜんいいのに…」
「子供が軽はずみに決めるようなことじゃないんだよ」

ここはタトゥースタジオだ。この男は店長の宇佐美という男で、目下ナマエがアタックし続けている想い人である。しかし通えども通えども少しも相手になんてしてもらえずに、何度もしている告白は流水で石鹸を落とすかの如く流されていた。

「宇佐美さん、好きです」
「ハイハイ」

また今日もだ。さらりと流された告白は空気とともに換気扇に吸い込まれた。


彼に出会ったのは、八ヶ月ほど前の冬の始まりのことだった。その日はなんとなく学校に行きたくなくてサボって、行ったことのない方面の電車に乗り、あてもなくふらふらと出かけていた。気まぐれで降りた町はこぢんまりしたところで、駅前の商店街にはシャッターが閉まっているところが多かった。
学校をサボって知らない町をひとりで歩いているなんて状況に何となく酔ってしまって、調子に乗ってずんずんと歩いて、にわか雨が降り出したとき、ようやく自分の状況を思い知った。

「……道、わかんない……」

慌ててマップアプリを起動してみたけれど、充電が心もとなくてどうにも帰路につくまで持つかわからない。なんで知らない場所に調子に乗って来ちゃったんだろう、と思ってももうあとの祭りだった。ざぁざぁと雨脚が強まって、目の前の軒下に飛び込む。少し弱くなったら町を歩いて目印になるものを探してみよう。軒下に飛び込んですぐの時はそれくらいの気持ちでいたけれど、白くけぶるほどの雨脚になってきてしまって、どんどんと弱気になってきてしまった。

「ハァ……」

膝を抱えてうずくまる。先ほど受けた雨で肩が冷えて、地面に跳ね返った雨粒が靴下を濡らした。なんとなく、というのは嘘だった。教室に入るのが嫌になって逃げてきたのだ。
ナマエには随分と美形な幼馴染がいて、その幼馴染のことをクラスメイトが好きになった。ナマエはべつに幼馴染に特別な感情はなかったが、何かにつけて「協力して」と言われるのには嫌気がさした。自分で行動すればいいのに、私をダシにして話しかけようとかかっこ悪くない?そんなこと言えようはずもない。

「うぅ…このまま排水口に流れて消えたい……」

後から思えば大袈裟なことなのかもしれないけれど、心の中の窮屈さと泥沼はこのとき間違いなくナマエを苦しめていたし、これ以上に自分を苦しめるものなどないのではないかとさえ思った。

「……ちょっと、そこ、どいてもらっていい?」

不意に頭上から声をかけられ、はっと見上げる。そこには坊主頭の若い男が立っていて、ちょいっとナマエの奥を指さす。振り返ると、自分がこのビルの出入り口を塞ぐような位置にうずくまっていたことに気が付いた。

「す、すいませっ…!」
「このビルに用じゃなさそうだよね。雨宿り?」
「は、はい…ごめんなさい、その、傘持ってなくて…あの…道も、わかんなくて…」

とりあえずの謝罪を口にしながら、少し涙声になってきてしまった。人前で泣くなんて恥ずかしい。我慢しろ、と涙腺に命令をしても溢れてくるのを止めることが出来なかった。案の定目の前の彼は「ちょっ…なに泣いてんの!?」と焦りだした。

「ご、ごめんなさっ…」
「ああ、ちょっと…もう…僕が泣かせたみたいになってるじゃん…」

がしがしと彼は頭を掻きむしり、大きくため息をつく。それからナマエの隣をすり抜けて雑居ビルの中に足を踏み入れ、ナマエにむかって手招きをした。

「そんな恰好じゃ風邪ひくよ。店先で泣かれても困るし」
「えっ」
「ホラ、僕通報されたくないんだけど」

彼の強引な呼びかけに断ることも出来ずに立ち上がると、彼の後ろをついて歩く。古びたビルの中は妙に足音が反響して、途中でやっぱりついてこなければ良かったのかもしれないと後悔した。そう思っている間に三階まで辿り着いて、彼は鉄の扉の前でガチャガチャと鍵を開ける。パチンとドアのすぐそばのスイッチを触って電気がつけられると、コンクリート打ちっぱなしの部屋が広がっている。右側には施術台のようなものが置かれていた。

「こ、こは…?」
「僕の店」
「マッサージ屋さんですか?」
「違うよ。タトゥースタジオ」

タトゥースタジオ。言われた言葉を口の中で反芻した。勝手にもっと病院めいたところでやるものかと思っていたから、まるで普通の部屋で彫るものなのか、不思議な気分になった。

「ほら、タオル使って」
「あ…りがとう…ございます…」

ぽいっと白いタオルを投げられる。彼は自分のジャケットを脱いで、すると手首のあたりに幾何学模様の刺青が入っていることに気が付いた。タトゥースタジオを運営しているのなら刺青くらい入っていても当然か。

「なに?」
「え、あ…いや、その…タトゥーって、痛くないのかなと思って…」
「入れるときはそこそこ痛いけど、安定したら別に痛くないよ」

見ていたことを指摘されてそう言えば、存外親切にそう返ってきた。彼はナマエがタトゥーを見たいのだと思ったようで、腕まくりして自身の腕に刻まれたタトゥーをよく見えるように差し出した。

「…すごい…細かい…模様…」
「すごいでしょ。これ、僕の師匠みたいな人が彫ってくれたんだ」

彼はすごく得意げで、たしかにその精緻な図柄は無関係の一般人から見ても高い技術を要するように思われる。彼は適当に施術台に座るように言って、ナマエはおずおずとそれに従う。今度は彼が奥に引っ込んで、少し待っているとホカホカと湯気の立つマグカップを持って戻ってくる。その片方をナマエに差し出す。

「蜂蜜入りのホットミルク。飲める?」
「は、はい…ありがとうございます」

受け取ったそれを両手で包み、ふぅふぅと息をかける。ふちにちょこんと唇をつければ、ミルクと蜂蜜の甘さが広がった。冷えていった身体が温まるような気がする。思わず口か「あったかい…」と声が漏れた。

「君、迷子?」
「えっと…はい、多分…」
「多分って。道わかんないなら迷子でしょ」

外で見たときは少し怖いようにも見えけれど、明るいスタジオの明りの中では全くそんなふうには見えなかったし、なにか不思議と話しやすいような柔軟な雰囲気を感じた。

「僕は宇佐美。ここでタトゥーアーティストやってる。君の名前は?」
「ミョウジナマエです。あの、今日は行ったことない町に行ってみようと思って、迷っちゃって…」

彼は宇佐美と名乗った。ナマエは自分がここに迷いついたことを白状すると、宇佐美は更に続けた。

「君、高校生でしょ?まだ学校がある時間じゃないの?」
「その…教室に行きたくなくて、今日はサボっちゃって…」

後ろめたさがあるから、逃げるような声音になった。うろうろと視線を動かして、着地点を見失って結局湯気をあげるミルクに落とすことにした。宇佐美からはとくにこれといった返事はなくて、だけど自分で広げられるような話でもないから黙りこくる。

「…学校嫌な理由、聞いてあげよっか」
「え?」
「僕は君のこと何にも知らないし、無関係な大人でしょ。後腐れもなんにもないから話くらい聞くけど」

宇佐美の丸い目がこちらを見ていた。まさかそんなことを言ってくれるとは思わなくて、今日のこの非日常感もあいまったことから、気がつけば「実は…」とナマエを悩ませる学校の小さくて大きな問題を口にしていた。

「あー、高校生っぽい。若いなぁ」
「…自分でも、大袈裟だなってわかってるんです…でもなんか、その…いざ朝になるとどうしようもなく嫌になっちゃって…馬鹿みたいですよね」
「そんなのしょうがないでしょ。それを馬鹿みたいな悩みだって言っていいのは、未来の君だけじゃない?」

宇佐美はそっと自分のマグカップに口をつける。他の大人には言われたことのない、自分の悩みを肯定するような言い回しがやけに鮮明に耳に残る。彼の骨ばった分厚い手には黒いネイルが塗られていて、袖のまくられた両腕からも襟元からも、黒く特徴的なタトゥーが主張していて、それが眩しいくらい自由なものに見えた。

「…タトゥー、かっこいいですね」
「でしょ」

日が落ちる前、宇佐美が傘を貸してくれて駅まで送ってくれた。傘は返さなくていいと言われたけれど、傘を返すことを口実にしてタトゥースタジオに通い始めたのだった。


それからもうずっと、子供が来るところじゃないなんて言われながらも、時間を見つけては宇佐美のタトゥースタジオに通う日々が始まり、三ヵ月くらい前から会うたびに告白をして流されるような日々が始まった。子供から大人に対する憧れだなんて言われたら上手にそれを打破する説明は出来なかったけれど、そんな曖昧な言葉で片づけられるのは嫌だった。

「ナマエ、学校は最近平気なの?」
「はい。幼馴染に別の彼女が出来たから私はお役御免になったんです」
「良かったじゃん」

宇佐美はスタジオに来るたびに嫌そうな顔をしてみせたけれど、本気で追い出そうとするようなことは一度もなかった。一番の原因はなくなったけれど、思春期特有の漠然とした理由で学校に行くのはいまも億劫なときがあり、宇佐美のスタジオはひとつの貴重なスケープゴートでもあった。
道具の手入れをする彼の後ろ姿を見つめる。顔こそ線の細い美形に見えるけれど、所狭しとタトゥーの刻まれた身体はしっかり鍛えられていて、暑い時期だと筋肉の隆起がTシャツの上からでもよくわかる。

「…宇佐美さんはほんとに彼女とかいないんですか?」
「だからいないってば。前も言ったでしょ?」
「じゃあいいじゃないですか」
「何が」
「私と付き合って下さいっ!」
「ハイハイ」

いつも通りのやり取りで流されて、つんっと唇を尖らせる。こっちに一瞥もくれないのが何より気に入らない。子供は恋愛対象じゃないと言いたいんだろう。彼と自分は多分10歳近く差があるだろうし、自分はまだ高校生で彼は立派な社会人だ。フラれるならまだしも、適当に流されるというのは本気をわかってくれてないみたいで嫌だ。

「ねぇ宇佐美さん、私本気ですよ?」
「ハイハイわかったわかった」
「わかってない」
「わかったってば」

ナマエはまだ彼がこちらを見ないことにむくれる。相手にしてもらえないのが悔しくて、一度だけでもこちらを見てほしくて、ナマエは施術台から降りると、背を向けている宇佐美の前に回り込み、セーラー服の上をぐっとまくって生っ白い腹を見せた。

「じゃあ私、宇佐美ってタトゥーいれてもいいよっ!」
「はぁ!?」
「宇佐美さんは私が本気じゃないって思ってるんですよね?私、宇佐美さんの名前彫れるもん!」

流石にナマエの行動と言動に驚いて宇佐美は持っていた道具を取り落としそうになって、慌てて掴んでいた。

「はぁ…なんでそうなるんだよ…」
「だって宇佐美さんが全然相手にしてくれないから。私、本気なのに…」
「高校生なんか相手にできるわけないでしょ。僕を犯罪者にするつもり?」
「そういうわけじゃないですけど…真剣ならいいじゃないですか…」

大人はそうもいかないんだよ、という言葉とともに宇佐美がため息をつく。彼は作業のためにつけていたゴム製の手袋を外し、ナマエの晒された白い腹にとんっと指を立てる。それからなぞるように指先を上に動かして移動し、ナマエの制服を掴む手を包んで下ろさせる。

「今年で高校卒業でしょ。卒業してもまだ僕の名前彫りたかったら、そのときは真剣に考えてあげる」

卒業まであと八ヶ月。ここに通い始めてから今日までと同じ期間だ。今日までは驚くほど時間が早く過ぎて、だからきっと卒業までだってすぐに過ぎてしまうに違いない。

「宇佐美さん、また遊びに来ていい?」
「仕事の邪魔しないならね」

彼はそう言うと、ナマエの手の甲を一度親指で擦ってからまた作業に戻っていった。顔がびっくりするくらい熱い。彼の顔も少しくらい赤くなっていたらいいのに。残念ながら、この角度からは見えそうになかった。


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