水曜日のフレンチトースト


水曜日。午後八時には閉店してしまうカフェの、閉店後の絞った明かりの中にナマエは座っていた。べつに従業員というわけではない。従業員は目の前の、このコック服に身を包んだ彼だけである。

「はい、これどうぞ」
「ありがとうございますっ」

甘い香りが鼻腔をくすぐる。バターや砂糖、卵液の絶妙なバランスがトーストによって絶妙に保たれている。トーストの上には淡いグリーンのアイスが乗っていて、手前にはカットされたキウイやメロンがミントの葉とともに彩を加えている。

「おいしそう…」
「実際美味いんですよ」
「自画自賛…」
「何か言いました?」
「いえっ!なんでも!!」

危ない。危うくこの贅沢なフレンチトーストを没収されてしまうところだった。そんな事態は避けなければ。ナマエはあたふたしながらフォークを手に取り、先をじゅわりとフレンチトーストに沈めた。
一口大に切り分けたそれを口に運ぶと、暴力的な甘さが広がっていく。この店のデザート類は美味けれど、どれもとても甘いのが特徴だ。

「ん!!おいし!!」

ナマエは広がった甘さに思わず脳みそから直結しているだけの感想を口にした。ここのフレンチトーストはオーナーこだわりのパン屋が毎朝焼いてくれる食パンで作られていて、卵液に使う卵も契約養鶏農場からの仕入である。牛乳やバターを初めとする乳製品も北海道の酪農家と契約をしていて、とにかくどの食材もオーナーのこだわりのものなのだ。

「この食パン、トーストで頂いたときも美味しかったですけど、フレンチトーストにすると本当にフレンチトーストにするために生まれて来たんじゃないのかって思いますね!アイスもメロンかな?と思って食べたらピスタチオで、このコクがたまらないです〜」
「食レポどうも」

コック服を纏った彼はカウンターに頬杖をついてこちらを眺めている。口の端っこついてますよ、なんて言いながら親指で拭ってくるようなこの男との関係は、非常に妙な偶然から始まった。


ナマエはその日、きっちり朝昼を食いっぱぐれた。その前の土日に好きなバンドのライブを見に遠征していて、疲れのあまり夜はゼリー飲料的なものをちゅうちゅう吸ってベッドに倒れたものだから、実質晩朝昼の三食を食いっぱぐれていると言ってもいい。

「やば…マジ…もう若くない……」

そもそも前乗りのホテル代と新幹線代をケチって夜行バスで行ったのも悪手だった。学生時代のノリで行けるやろ、と思ったのが大間違いだ。自分の体力を過信し、見事その虚像を打ち砕かれて鉛のように重い身体を引きずる。まだまだ会社の部署内では自分は年下の方で「年を食った」なんて言ったらお局のお姉さまたちに叱られてしまうが、学生のようなバイタリティは当然なくなっている。

「うっ…コンビニ寄らないと流石にまずい…」

今すぐ家に帰ってベッドにダイブしたいが、三食すでに抜いている状態でこれ以上は絶対ヤバい。万が一こんなことで救急搬送なんぞされたら末代までの恥だ。コンビニ、コンビニ、ともはやコンビニを求めるゾンビのような気分で歩いてると、不意に開いたドアに驚いて尻もちをついてしまった。

「わっ、ごめんなさい、大丈夫ですか?」
「すみません、私も前見てなくて……」
「お怪我はありませんか?」

柔らかい男性の声が聞こえる。ドアを開けたのは彼らしい。自分の体幹が弱いせいで尻もちをついたが、怪我らしい怪我はしていない。顔を上げるとコック服の美青年がこちらに向かって手を差し出している。

「立てますか?足もと気を付けて」

彼の後に背負う店舗の淡い光が相俟って、まるで舞踏会でダンスに誘う高貴なひとのように見える。ナマエは躊躇いながら手を伸ばし、触れたところでぐっと身体が引き起こされた。

「あ、あの、ありがとうございます。私がふらふらしてたせいで避けらんなくて…」
「いえいえ、僕の確認不足ですから」

青年は柔らかい物腰で、くるんとした睫毛と両頬の対象の位置にあるほくろが特徴的だった。思わず見とれてしまって、彼と視線がかちあったところで思い切り逸らす。初対面のひとに失礼なことをしてしまった。これ以上失礼を重ねる前に退散してしまおう。
そう思って「それじゃあ私はここで──」と立ち去ろうとすると、タイミングを見計らったようにグゥゥゥと腹の虫が鳴った。

「…良ければお詫びに何かご馳走しますよ」
「えっ、いやっ!悪いですよ…!」
「賄いみたいなものしか作れませんけど、どうぞ」

彼が店舗の扉を開き、ナマエを中に招き入れる。ウッド調で統一された店内は小綺麗にまとまっていて、ここがカフェなのだということを時間差で理解する。ナマエは奥のカウンター席に通され、嫌いなものやアレルギーを聞かれたあと、彼は厨房で何やら調理をしてれて、ほかほか湯気の立つクロックムッシュが出てきた。

「わっ…美味しそう…!」
「カフェなんで、あんまりがっつりしたものないんですけど」
「全然!あの、ありがとうございます!」

ハムとチーズの挟まったトーストにうるうるとホワイトソースがかかっている。ぺこぺこの胃袋には暴力的ともいえる香ばしい匂いにじゅるりとよだれが垂れてきてしまいそうだ。頂きます、と手を合わせ、ナイフとフォークで切り分けたクロックムッシュを口に運ぶ。

「お、おいひい…!」
「フフ、それは良かったです」
「すごいですね、なんかホワイトソースが食べたことないくらい濃くって、でもギトギトってわけじゃなくって…」

あまりの美味さにペラペラと感想がそのまま漏れだした。腹が減っているということもあるが、これはたとえ通常の状態だったとしても同じ感想が飛び出るだろう。カフェのご飯というものを見縊っているわけではないが、カフェ飯というとお洒落重視見た目重視なものが多い。しかしこのクロックムッシュはそういうものとは一線を画しているもののように感じる。

「ご、ごめんなさい、ぺらぺらと……」
「目の前でお客様の感想を聞く機会は貴重ですから。うち、仕入にこだわっているんです。食材の良さはそのまま味に出るんですよ」
「そうなんですか」

どうやらホワイトソースの美味さの秘密は素材にあるらしい。カウンター越しにこのカフェの仕入のこだわり、北海道の契約農家の話、それからオーナーの素晴らしさを彼から聞いた。スポットライトのように絞られた明りの中は不思議と非現実的な空間のように感じられて、なんだかふわふわとした浮遊感がある。

「今日はありがとうございました。また今度はちゃんとお客さんとして来ますね」
「ええ、お待ちしてます」

クロックムッシュを食べ終え、浮遊感に包まれたまま店を出る。家の近くにまさかこんないいお店があったなんて知らなかった。


彼の名前は宇佐美時重。このカフェを任されている店長らしい。あの日の出会いをきっかけに数回カフェに客として来店し、その後時おり一緒に食事をしたり、新メニューの試食に誘ってくれたりするようになった。出会いが出会いだったせいで食事もままならないずぼらな貧乏人と思われている節がなくもないが、まぁ彼の食事は美味いし、これにありつくためなら多少の悪い評価は見て見ぬふりが出来るというものだ。
毎週水曜日は閉店後の彼の店に寄る約束をしていて、彼に会えると思うと残業だってへっちゃらだった。照明の絞られ、CLOSEの札のかかったドアを開く。普通は開けてはいけないこの「CLOSE」の札がかかっているドアを開くことが出来るというのも、なんだか特別感があって好きだった。

「宇佐美さん、こんばんは」
「ナマエさんこんばんは。お疲れさまです」

カウンターの中で彼はグラスを磨いている。その様はカフェの店長というよりはバーテンダーのようにも見える。ナマエは半分指定席と化しているカウンター席に一直線で向かった。椅子の高さのせいでこうしていると自分より背が高いはずの宇佐美と同じくらいの目線の高さになる。

「あ、先週のフレンチトーストどうでした?」
「んー。悪くないけど本採用にはならなかったですよ」
「うそっ!あんなに美味しかったのに?」

先週食べたピスタチオアイスののったフレンチトーストは今後の新メニューの案のひとつと聞いていたが、残念ながら採用には至らなかったらしい。何がいけなかったんだろう。あんなに美味しかったのに。メニュー発案者の宇佐美よりも落ち込むような勢いでナマエがため息をついた。

「鶴見さん、ピスタチオアイスがお気に召さなかったみたいなんですよね。だからまぁ、もうちょっとクリーム系で提案してみようかと思ってます」
「そうなんですか。仕方ないですけど…あんなに美味しかったから勿体ないですね」

鶴見さん、というのはこのカフェのオーナーであり、宇佐美の盲執する雇い主である。食材に対する徹底的なこだわりも鶴見のポリシーによるものであり、なにもこの小さなカフェのためというわけではなく、鶴見の経営する富裕層向けスーパーの仕入も兼ねているのだ。このカフェで鶴見の気に入るもののみを提供しなければいけないというルールがあるわけではないが、鶴見さん色のお店にしたい、という宇佐美の舵きりでメニューはすべて鶴見好みのものになっている。

「そんなに気に入ったんなら、特別にナマエさんにだけは出してあげてもいいですよ」
「えっ?」
「ほら、いつものこの時間だったら、特別メニューとも思われませんし」

宇佐美がそう言ってナマエをジッと見つめる。かたちのいいアーモンド形の瞳に見つめられると身動きが取れなくなってしまって、威圧されているわけでもないのにナマエは蛇に睨まれたかえるのような頼りなさでカウンターの椅子に座ることしかできない。

「そ、そんな。悪いですよ…ピスタチオアイスがお嫌いってことはメニューに使わない食材ってことですよね?」
「はい。メニューには使いませんけど、アイスひと種類くらい冷凍庫に入れていても邪魔になりませんから」

まぁ店長なんだから多少の融通は利かせられるだろうけれど、そんなのナマエのためみたいで、鶴見色に染め上げてやろうというなかにまるで自分が少し入り込むような、そんな感じがしてしまう。宇佐美がナマエに向かって口を開こうとして、どきどきと緊張する静寂のなかでタイミング悪くグゥゥゥと腹の虫が鳴った。それを聞いて宇佐美がくすくす笑う。

「さ、今日は何食べます?」
「ピ、ピスタチオアイスのフレンチトーストで…」

口をついたのは自分のために特別に残してくれるというメニューで宇佐美は少し口角を上げて「わかりました。ナマエさん特別メニューですね」とわざわざ言い直した。彼はどんなつもりがあってそんなことをしてくれるんだろう。都合のいい理由を期待してしまうのをやめられそうにない。水曜日の夜はしばらくフレンチトーストが続きそうだ。


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