私の王様


世界が輝いて見えるようになったのは、牢獄みたいな座敷を抜け出したその日だった。

「おっと、こんなところに女がいたか」

薄暗い部屋に光がさして、彼はまばゆい外の景色をその背に負っていた。長く艶やかな黒髪が風になびき、まるで神々しい天国の門が開いたのかとさえ思った。ナマエはやっとの思いで声を出す。それはどうしようもなく掠れて醜く、ヤギかヒツジの鳴き声のようだった。

「かみ、さま……」
「神?はは、そんなもんじゃねぇよ、俺は」

からがらと吐き出したその言葉を男は笑い、それからナマエにそっと手を差し伸べる。大きな手のひらはこの世のすべてを掴みとってしまえるのではないかとさえ思った。ナマエは恐る恐る手を伸ばし、彼の手のひらに指先が着地する直前、奪い去るようにぱっとそれを奪う。

「おまえ、名前は?」
「…ナマエ……」
「気に入った。今日からナマエは俺の后だ」

隣に立たされて、それでもなお彼は見上げるのも辛いくらいの長身だった。世界が変わる。そのことを寸分の狂いもなく、ナマエはこの日はっきりと理解した。


彼は海賊房太郎と名乗った。恐らく本名ではないだろうが、そんなことはどうでもよかった。
泥だらけに汚れたナマエを丁寧に風呂に入れ、清潔な服を着せて拠点の中の自分の部屋へ招き入れた。房太郎はその大きな体躯に不似合いなほどの丁寧さで支度を整えていき、まるで自分が高貴な女性になったかのように思えた。

「ナマエ、こっち」
「は、はい…」
「堅苦しい口調は苦手なんだ。もっと適当でいい」

あぐらをかく房太郎に手招かれ、ナマエはそろりそろりと近づいた。手を引かれた時と同じように、たどり着く前に腰を掴まれて引き寄せられる。かたちのいい目がナマエを見つめる。

「ナマエはなんであんな牢屋みたいなところにいたんだ?」
「えっと、家族がみんな死んじゃって、おじさんに面倒見てもらってたんだけど、一年くらい前に売られちゃったんです」

ナマエは他人の物語かのように自分のことを話した。ナマエの家族はナマエ以外の全員が流行り病で命を落とし、父方の叔父が幼いナマエを引き取ったが、その男が酷い酒乱で毎日のように暴力を受けた。
一年前に酒代として町の商人に売られ、そこからは毎日毎日慰みものにされる日々だった。どちらの地獄もそう大して変わりはない。だからどうでもよかったし、自分はこのままここで死んでいくんだと思っていた。

「もうあの小屋が死に場所と思っていました。助けていただいて…ありがとうございました」
「へぇ、じゃあ俺はナマエの救世主ってことだ」

ナマエは勿体をつけたような話し方をする彼にこくりと頷いた。昔読んだ聖書に出てくる救い主というものは、彼のようにきっと美しいに違いない。疑いもなくそう信じることが出来る。
助け出してもらったはいいが、あいにくナマエは無一文だ。だからといって代わりになるような高価なものを持っているわけでもないし、彼に払える対価がない。ナマエはすぐそばにある美しい横顔に向かって口を開いた。

「あの…助けていただいたお礼に払えるものがありません」
「べつに、金が欲しくて攫ったわけじゃない」

房太郎はナマエをなかば抱き上げるようにして顔をもっと近づけ、さらさらと黒髪がナマエの頬へと落ちる。その感覚がくすぐったくて、ナマエはそっと目を閉じる。明け渡すことが出来るのはこの身ひとつしかない。
自分を救ってくれたこの男のためなら、自分の身体くらい喜んで差し出すことが出来る。

「んー、でもそうだなぁ、そういうのはやぶさかじゃないぜ」

房太郎の大きな体が覆い被さる。抗いようもない波に飲まれているような感覚に陥り、それに身を委ねるのが心地いい。房太郎がナマエの白い喉元に噛みつく。甘い痺れが噛みつかれた場所からじんじんと伝播して脳を揺らす。

「んっ…」
「俺は抱いてる女の声を聞くのが好きだ。よぉく覚えておきな」

分厚い舌が首を這いずる。ぞくぞくと背中が震えた。彼の外套を畳に敷き、その上にナマエを横たえた。彼の逞しい腕はいとも簡単にナマエの身体のすべてを拘束してしまえたし、見下ろされるときに長い髪がナマエを閉じ込め、外界とは隔絶された特別な空間が生まれるような気がした。
一挙手一投足に翻弄され、踊らされ、好き勝手になぶられるのが不思議と気持ちいい。買われた家でだって同じようなことをされていたはずなのに、房太郎から与えられるそれはすべてが快感に代わっていった。

「ナマエは家族が病で死んだって言ったろ。俺もなんだ」

ことが終わったあと、房太郎はナマエをぎゅっと抱きしめながらそう打ち明けた。平坦な声音は悲しみや郷愁、怒りなどのすべての感情が抜け落ちていた。ナマエは胸板に手をつき、彼のことを見上げる。

「14人もいた兄弟は全員疱瘡で死んだ。俺はひとりぼっちになって、帰る場所もなくなった」
「それは……」
「だから俺は故郷をつくることにしたんだ」

故郷をつくる、とはどういうことだろう。どこかに定住し、そこに根を下ろして家族を作るということだろうか。ナマエはそのまま言葉の続きを待った。

「死にきれないほど沢山の家族を作る。俺の家族たちの住む国を作って、そんで王様の子供たちが俺のことを国民に語り継ぐ。俺の生きた証をみんなが忘れないように」

荒唐無稽な話のようでいて、しかし房太郎の顔を見ていれば冗談なんかじゃないとすぐにわかる。自分の生きた証を刻むために沢山の家族を作りたいだなんて、なんと意地らしい話だろう。ナマエはずっと、自分が死ねばその存在ごと消えてなくなってしまうのが当たり前だと思っていた。房太郎のように、それを憂うことなんてなかった。

「…寂しがり屋なのね、海賊さんは」
「房太郎でいい」

厚い胸板に頬ずりをすれば、房太郎の手がもぞもぞと動き、ナマエの耳のあたりを撫でると上を向くように誘導する。それに従って顔を上げれば、溺れるほど深く深く口づけをされた。房太郎、と呼ぶ声もそれに飲み込まれてしまい、彼の流れに揺られるがままもう一度身体を委ねたのだった。


海賊房太郎を自称するこの男は、平たく言えば強盗殺人犯である。その凶悪さから網走監獄に収容され、そして四年前、とある企てによって脱獄を果たした。顔だちは凶悪な強盗殺人犯とは思えないほど整っており、日本人離れした長身と女と見紛うような長い黒髪が特徴的だった。彼はいつも洋装を身にまとい、飄々と自信満々に振舞った。

「ねぇ房太郎、今度はどこに行くの?」
「ん−?そうだなぁ。この辺で聞きたいことは聞けたし…一発貸稼いでいくかな」

房太郎は権堂をはじめとする数人の男を家臣として従え、ナマエを后としてそばに置いた。強盗殺人の前科を持つ彼であるが、ナマエにとって救い主であることに変わりはなかった。むしろ彼の少し強引なところや、子供っぽく夢を語るところなんかは魅力的で、どうしようもなくナマエを惹きつけた。
彼は隠された金塊を探しているらしく、そのために今日は徳富川近くのアイヌの村に足を運んで話を聞いていたのだ。今すぐにでも出発したいところだけれど、アイヌから話を聞くために大盤振る舞いをしたものだから、懐が随分と寂しい。

「今度は何をするの?」
「江別まで舟が出てる。そこを襲ってひと稼ぎだ」
「じゃあ私はどこかでお留守番だね」

時として路銀のために強盗を働く彼らの仕事に、足手まといのナマエは同行することはない。決められた場所で彼らの帰りを待つのが常だった。だからこんなこと言われるとは思わなかった。

「……いや、今回はナマエも連れていく」
「私も?」
「なんか嫌な予感がするんだよなぁ」

ぽつりとこぼす。嫌な予感がするなんて珍しいことをいうものだ。房太郎の勘というものは、これがなかなかよく当たる。しかも彼は一行の王様なのだから、口ごたえを出来る人間がいるはずもない。

「邪魔になっちゃわないようにしなきゃね」
「ナマエのことは俺が守る」
「ふふ、嬉しい。お姫さまみたい」

ナマエが房太郎の洋袴の腰のところをちょこんと摘まむ。房太郎は大きな手でナマエの肩を包み込むように抱きしめた。

「お姫さまじゃなくてお后さまだろ」
「どうちがうの?」
「お姫さまだと王様の娘になっちまう」

学のないナマエに房太郎はいろんなことを教えた。学校で教わるようなことからそうでないことまで様々で、凶悪な犯罪者というわりに彼はそう思わせない博識なところがあった。なんでも、収監されていた監獄であれこれと教わったらしい。

「ねぇ房太郎、やっぱり王様はたくさんの女の人ひとと結婚しなくちゃだめ?」
「んー、そりゃあ、沢山子供作らなきゃいけないからなぁ。そういうものなんじゃないか?」

房太郎の返答を聞き、ナマエはつんと唇を尖らせる。房太郎はすぐにそれに気が付き、長身を折りたたんでナマエの顔を覗き込む。小さな声で「どうした?」とナマエの機嫌をうかがった。

「……やだ、房太郎のお后さまは私ひとりがいい」

こんなにも彼のことが好きなのに、他の誰かがそばにいるなんて考えたくもなかった。沢山の家族を作るという彼の夢のためには仕方のないことなのかもしれないけれど、それでもやっぱり嫌なものは嫌だ。房太郎の隣には自分だけがいい。いままでのことは分からないけれど、この先はずっとずっと誰にも譲りたくない。

「ねぇ房太郎、私たくさん子供産むからお后さまは私ひとりにして!ね?」

ね、ね?とまるで鳴き声のように何度もそう言い、ぐいぐいと房太郎の腕を引いた。房太郎はふっと頬を緩め、ナマエの背と膝の裏に手を回すと、そのままいとも簡単に自分の肩の高さまで抱き上げる。「わっ!」と声を上げながら、ナマエは落ちてしまわないように房太郎の首に抱きついた。

「ナマエにそう言われちゃ仕方ねぇなぁ」
「私だけにしてくれる?」
「その代わり、沢山子供を産んでくれなきゃ困るぜ?俺の王国には沢山の家族が必要なんだ」
「うん、頑張る!」

担ぎ上げていたナマエをそっと地面に降ろすと、房太郎はこきこきと首を左右に倒して音を鳴らした。さてここからは仕事の時間だ。

「取り急ぎ金稼ぎと行くか。もうすぐ江別行きの上川丸がここを通るはずだ」

房太郎は手漕ぎの舟で石狩川に出る。ナマエも同じ舟に乗り、落っこちてしまわないように体勢を低くして彼の見つめる先を一緒になって見つめる。上流から汽船が姿を現した。外輪式の蒸気船はドドドドドと音を立てながら煙を吐き出して進んだ。

「さぁ、行くか」

ナマエは房太郎の言葉にこくんと頷く。世界が輝いて見えるようになったのは、あの日彼が手を差し伸べてくれたからだ。この先どんな冒険が待っているんだろう。彼とだったらきっと、どんなことでも乗り越えられるような気がする。彼は出会った時から、たったひとりの王様だ。


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