都合の良い女


都合がいい女ってよく言うじゃないですか。それの何が悪いのって思うんですよ。
自分が欲しいものをくれる相手に対して自分が与えられるものをあげて、損と思わなければいいじゃないって。
だから私は私が許容出来る分をあげられるだけあげて、欲しいものは欲しいよって主張して。
だってそもそも好きになったほうが負けなんだもん。どうせ負けなら、失くして惜しいと思われるようになれればいい。

「じゃあね」
「……ああ」

──と、言い訳じみた持論を展開してみても、目の前の状況はひとつも変わらないし、自分の気持ちが誤魔化せるわけでもない。
私はベッドに寝そべったまま、帰り支度を進める彼の背中を見つめた。玄関先まで見送りに行かないのは、せめてもの意地だった。ばたん、と扉がしまる。彼がいなくなると、この部屋は途端にうら寂しくなった。

「……はぁ」

もう言葉も出なくてため息だけが漏れる。ころんと身体を回転させ、シーツに顔を埋める。もうこんな関係になって九ヶ月が過ぎようとしていた。


尾形百之助と出逢ったのは、確か家の近くのバーに立ち寄った時のことだったと思う。私はその当時付き合っていた彼氏に振られて三ヵ月が経ったかそのくらいで、女友達を誘って憂さ晴らしに飲みに行ったのだ。

「ねぇ、今日は女の子二人っきりなの?」

だらだらと彼に対する未練を口にしていたら、そうして隣から声をかけられた。坊主頭のにこにこと表情の柔らかい男で、その彼と一緒に飲みに来ていたのが尾形さんだった。
坊主頭の彼は白石さんといって、今日は競馬で大勝ちしたからと尾形さんを連れて飲みに来たらしい。白石さんは饒舌で話がうまくって、会話は途切れることなくぽんぽんと続いていった。どうやら彼は私の友人狙いのようで、私の友人も満更ではない様子だった。

「じゃー、このあと二件目いっちゃう?あ、俺らは三件目なんだけどさぁ」
「えー、どうしよっかなー」

これは友人と白石さんの会話。もう既に『行きます』と言っているようにしか聞こえない。こうなると邪魔をするのもなぁという気分になってきて、私は「二人で行ってきなよ」と言うつもりで口を開いた。

「おい白石、その女と次行けよ」

もちろんこれは私の声じゃない。白石さんの奥にいた尾形さんが言ったのだ。その一言で二人は何となく「じゃあ二人で行こうか」というふうに纏まっていって、会計を済ませると駅の方に消えて行った。
とりあえず二人を先に行かせるために私と尾形さんは店の前に留まってそれを見送り、背中が見えなくなったところでこの後どうしようかなぁと考えを巡らせる。

「あのー、私たちも飲みなおします?」
「……いや、明日朝早くから会議があるから…」
「あ、ははー、ですよねー」

尾形さんはそういいながら髪をナデナデと撫でつける。私も社交辞令といえば社交辞令だが、全くわかりやすい断り文句だ。彼は極端な無口なのか、そういえばバーで話していたのも殆ど白石さんだけだった。私も別に初対面の人をああだこうだと引き止める気もなく、その日は「じゃあ」と言って連絡先も交換せずにバーの前で別れたのだった。


それから三週間後。給料日後の金曜、いわゆる華金という日に私は件のバーに足を運んだ。今日はふらりと飲みに来ただけだからひとりだ。別にひとりで店に入るのをどうこう思うタチでもなく、特段緊張することもなくドアを開ける。

「あ」

カウンターに座っていたのは尾形さんだった。スーツ姿だから彼もきっと仕事帰りなんだろう。

「お久しぶりです。あの、前ここで会った…」
「ナマエだろ」

突然名前の方を呼ばれてギョッとした。遊び人か、と一瞬身構えるも、そう言えばこのまえ白石さんが私の友人のことも私のことも下の名前でちゃん付けしていたからかと飲み下した。
この状況で今更別の店に行くことも別の席に座ることも出来ず、私は「お隣良いですか?」と声をかけて彼が頷くのを待ってから隣に腰かける。

「尾形さんなに飲んでるんです?」
「ジン」

私はジンが苦手だからストレートで飲んでいるのはちょっとかっこいいなと思った。私はそんな強いのは飲めないから、いつも通り適当にカクテルを作ってもらう。ソルティドッグを作ってもらって、すると横目で見た尾形さんが「いかにも女って感じだな」と鼻で笑うように言った。

「いいじゃないですか別に。グレープフルーツ好きなんで」
「ふうん」

会話は予想の通り白石さんが一緒だった時とは比べ物にならないくらい盛り上がらなかった。尾形さんはどうにか間を持たせようとかそういう努力は一切見られず、なんだかそれが潔くて笑ってしまった。

「尾形さんって、口下手?」
「……好きじゃないだけだ」
「あはは、それもう認めてるようなものですよ」

私が少し意地悪くそう言えば、尾形さんは少し拗ねた風に表情を落とした。風貌に似合わず子供っぽい一面に触れ、私は可愛いな、と思った。
尾形さんは黙々とジンをストレートで飲み、私はソルティドッグとかモスコミュールとかを適度に飲んだ。会話は盛り上がらないのに、彼の隣は居心地が良かった。

「尾形さん、大丈夫ですか?」
「べつに、酔ってない…」
「もー、足元ふらふらじゃないですかぁ」

無表情でごくごくと飲むものだからてっきりアルコールに強いタチかと思ったのに、どうやら顔に出ないだけのようだった。
店を出る頃にはもう尾形さんはフラフラで、私より弱いんじゃないかと思わされるほどだ。

「尾形さん、帰れます?家、近いんですか?」
「××駅…」
「えっ、ここから30分はかかりますよ?」

ここはあまり繁華街と呼べる駅じゃない。だからてっきり家はそこそこ近いのかと思ったのに、なんと30分かかる上に乗り換えまである。これ、尾形さん帰れるのかな。純粋に心配すると同時に、少しだけ魔が差した。

「…あの、私の家近いんですけど……休んでいきますか…?」

私がそう言えば、尾形さんは猫のような目をほとんど見開きもせず、こくりと頷く。私はそれを確認して「こっちです」などと言いながら尾形さんを自宅アパートまで案内した。途中尾形さんが大きくふらついて、それを支えようとしたら手を掴まれた。振り払う理由なんてなくて、アパートにつくまで手は繋がれたままだった。


端的に言うと、私は尾形さんと割り切ったお付き合いをするようになった。いわゆる「セックスフレンド」というものだ。そのうちに尾形さんを百之助と呼ぶようになって、時おり連絡を取っては私の家でことに及んだ。
百之助は気配がないこともあるくらい静かで、だけどあれこれ話さなきゃいけないと思わされることがなくて気が楽だった。

「お前は気が楽でいい」

何回目かもわからないくらいのセックスのあと、百之助がそう言った。お互いおんなじことを感じていたんだなぁということが嬉しくて思わず口元が綻び、次の瞬間打ち砕かれた。

「他の女は姦しく媚びてくるからうんざりしていたんだ」

ひゅっと空気を飲み込んだ。そうなったのは、私の中でこの関係以上のことを少しでも意識している証拠だった。
何を期待していたんだろう。あんなふうに始まって、ちゃんとした関係になれるわけがない。百之助にとって私は都合のいい相手で、私にとって百之助も同じでなければいけない。

「あはは、中々いないでしょ、面倒のない女って」

嘘ばっかり。面倒な感情の塊のくせに。私が笑えば、百之助もニィっと口角を上げた。まるで服の中に氷を放り込まれたような、そういう感情へと引きずり降ろされるような気持ちになった。

「ああ、そうだな」

恋って残酷だから、私はこのとき百之助への恋心を否応なしに自覚してしまったのだった。


自覚してしまうと、百之助に会うたびに辛くなった。連絡が返ってこなくなると「もしかして今日が最後だったかな」と不安になったし、だからといって次の人を探そうなんて気にもなれなかった。
百之助との関係を切るなんて絶対嫌だ。都合のいい女でいい。都合のいい女でもいいから百之助となにか繋がりを持っていたい。泥沼だ、わかってる。そんなこと自分が一番よくわかっている。だけどどうしようもなかった。

『今週空いてるか』

私は馬鹿だから、そんなメッセージひとつで簡単に舞い上がってしまい、悩んでいることはいつも先送りにした。
すぐに既読をつけてしまわないようにわざと少し時間をあけてから返信をする。もちろん返事は『空いてるよ』に決まっていた。

「ナマエさぁ、あの人とまだ会ってんの?」
「え」
「ほら、そういう関係の男いるって言ってたじゃん」

あの日も一緒に飲んでいた女友達にそう言われた。相手が百之助だということは言っていなかったけれど、いわゆるそういう相手がいるということは打ち明けていた。もっとも、そういうふうに始まった人に本気になってしまったという相談をしたから話すことになったのだけれど。

「あんたそういうの得意じゃないでしょ、さっさとやめちゃいなさいよ」
「それは……」
「スッキリした方がいいって。逆に付き合おうって言っちゃうとか」

白黒はっきりさせた方がいいというのは彼女の言う通りだ。もともと器用な方じゃないし、そういう関係になる相手というのも百之助が初めてだった。だけど告白なんて出来るはずもない。百之助から「お前は気が楽でいい」と言われている。自分が本気になってしまったなんて知られたら、間違いなくこの関係は終わってしまう。

「……だけど…言ったら終わっちゃうもん……」
「…もー、そんなこと言って体壊したらどうすんのよ」
「わかってるけどさぁ……」

ごちゃごちゃ言っていたって仕方がない。頭だけはお利口さん。あーあ、物分かりのふりなんてもう辞めたい。友達が大きくため息をついた。

「私だってさ、応援したいよ。ナマエがいいって思うならそれでいいと思うし。だけどね、あんたがちゃんと割り切ってやっていけるならって話よ」

彼女はトントンと私の背中を叩く。結局いつか破綻する。私の気持ちが溢れちゃうか、百之助が私の気持ちに気づいちゃうか。

「無理してそんな顔してまで続けたいって…それは賛成できないよ」

もうだめなんだ。ちゃんと自分の気持ちに整理をつけるしかないんだ。
だって、自分で考えているだけでこんなにも辛いんだもん。このまま続けていたっていつかどこかで崩れていくに決まっている。本当は頭の中でずっとわかっていたことなんだ。


百之助から連絡が来たのは、友達と話して一週間が過ぎたときだった。正直その間に気持ちは何度も揺らいだけれど、もうこれは逃げられないところまで来ていると思った。

「よぅ」
「ん。入って」

いつもよりそっけなくなってしまいながら私は百之助を招き入れる。百之助は少し怪訝な顔をしながらも靴を脱いで部屋に上がった。いつもならすぐに「シャワー浴びる?」なんて聞いたりするけど、今日はそのままリビングのところに通した。

「…百之助、コーヒーのむ?」
「あ?……あぁ…」
「砂糖とミルクは?」
「いらない」

私はそれを聞きながら、キッチンに立ってブラックコーヒーの準備をした。百之助ってコーヒーはブラックなんだ。そんなことさえ知らなかったんだな、と気がついてもう無性に情けない気持ちになった。
自分のカフェオレとコーヒーを手に、手持ち無沙汰で待つ百之助の向かい側に腰を下ろす。

「はい」
「ん」

今日も百之助は言葉が少ない。別に初めて会った時からそうだ。あんまり話すのが好きじゃなくて、だから姦しくないのがいいといって私とそういう関係になった。それがいいと思っていたはずなのに、今はそれが切ないなんて本当に自分勝手。

「あの、さ。今日言いたいことがあって…」

何度も頭の中でシミュレーションしたはずなのに、いざ言葉にしようと思うとまるでうまくいかない。私はぎゅっとマグカップを握る。

「おい、どうした。体調悪ぃのか」

あまりにも黙ったままの私を不審に思ったのか、百之助が声をかけた。やめて、ここで優しくしないで。気持ちが揺らいじゃう。絶対今日、精算しようって決めてたのに。

「おいナマエ」
「あ…えっと、その………」

百之助の手が迷いに迷った末、私の背中にぽすんと小さく触れた。ああダメだな。やっぱり好きだな。こんな気持ちを隠したまま、百之助とセックスするなんて私にはできないな。

「好き……」
「は?」
「私、百之助が好きなの……ごめんね。面倒のない女って自分で言ったのに。好きになっちゃった」

堰を切ったように言葉があふれた。もう止めるなんて無理だ。「ごめんね」と「好き」を私は壊れたオルゴールみたいに何回も繰り返す。ようやくその濁流がおさまろうというとき、百之助が至極不思議そうな声で私に尋ねた。

「なんでそれで謝るんだよ」
「だって、百之助は面倒なこと嫌いでしょ。だから私とセフレやってたのに……」

気が楽でいいことが私の売りだったのに、それがなくなってしまえば百之助が私と関係を持つ理由なんてなくなっちゃう。ぎゅっと唇を噛む。視界のはしに見える自分の指先が震えていた。

「……待て、俺とお前はセフレなのか?」
「え?」
「おい、おいおい、お前…嘘だろ」

百之助は盛大にため息をつき、私の手からマグカップを引ったくると少し乱暴にテーブルへ置く。反動でちゃぷんと揺れたカフェオレが少しこぼれた。だけどそんなことにはお構いなしで百之助は私の両手を掴み、大きな目でじっと私を見つめる。

「……俺は、お前と付き合ってるつもりだった」

百之助が大真面目にそう言って、私は一つも理解ができず馬鹿の一つ覚えのように短音を漏らした。付き合ってる?嘘でしょ、今までそんな要素どこにあったの?あまりの認識の齟齬にセンチメンタルな気持ちが一度全部吹き飛んで、驚くほど冷静に出会いから今までを洗い直していく。ない。やはり告白はおろか、デートさえしていない。

「え、うそ、うっそぉ……!」
「女が男を家にあげるってそういうことじゃねぇのか」
「え、まぁ、いや、そうとも限らない、と、いうか……」

ちょっと待て、じゃあ何か。百之助は私の家に初めて上がったあの日からそういうつもりだったってこと?え、うそ、そんなことある?

「そもそもなんでお前セフレとか思ってたんだよ」
「だ、だって!セックスしかしないじゃん!好きとか言われたことないし、百之助は私のこと気が楽だって言うし…」
「それはお前が変な媚び売ってこないから良いって話だろ」
「じゃあセックスしかしないのは?」
「連絡するたびにお前が家でって…言うから……」

好いた女の家に来て抱かない奴がいるかよ。とボソボソ付け加えられる。何だこの茶番は。私も百之助も、言葉が足りないにも程がある。
私の手首を掴む力が弱まったから、私はそれをするりと抜け出して百之助に思いっきり抱きついた。不意のことで百之助はバランスを崩して、私は百之助を下敷きにバタンとカーペットの上に倒れ込む。

「……好き。百之助のこと好きなの。ねぇお願い。彼女にして」
「………だから、最初からそうだって言ってるだろ」

百之助の腕が私の背中に回る。今まで散々これ以上のことなんてしてきたはずなのに、今が一番ドキドキしてる。馬鹿みたい。怖がらずに、初めから全部言って仕舞えばよかった。
後から聞いたところによると、そもそも繁華街でも自宅の近くでも通勤経路でもないあのバーにいたのは、私にもう一度会うためだったらしい。初めて会った日だって二軒目誘ったのに、とクレームじみたことを言えば、会議だったんだから仕方ないだろ、と返ってきた。あからさまな断り文句だと思っていたあれが真実だったようだ。

「早朝の会議さえなけりゃ、あのままお前を口説くつもりだったんだ」

まるでねだったおもちゃを買ってもらえない子供のような拗ね方をするものだから、私は思わず笑った。


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