いずれ愛の言葉


冬の近い山でじっと獲物を狙う。息はもう真っ白だ。
狙いを定めて引き金を引き、弾は吸い込まれるようにエゾシカの首を撃ち抜く。ぱたりとその場にエゾシカが倒れる。

「キラウシ、お前もうそろそろあの娘を嫁にとらんのか?」

エゾシカの皮を剥いでいるとき、仲間の一人がそう尋ねた。あの娘、というのはキラウシのチセで一緒に暮らしている和人の娘である。

「ナマエはそういうのじゃない」
「そんなこと言って、もう半年以上自分のチセに囲ってるだろう」
「べつに囲ってない」

否定するも仲間は意味深に笑うばかりである。普段こんなことを言わないのに、一体どうして急にこんなことを言い始めたのか。


キラウシが和人の娘を拾ったのは、ある春の日の事だった。雪が解け、季節はまさに女の季節である。
キラウシのコタンでも女たちが山菜詰みに忙しくしていて、キラウシ自身も猟銃を担いで山へと入っていた。

「なんだあれは……」

普段はあまり足を踏み入れることのない山の方で、木々の間にぽつねんとボロ布のようなものが転がっている。和人がこんなところまで何かを持ってきて捨てて行ったのか、と思ってそっと近寄ると、それがもぞもぞと小さく動いた。

「……猪か…小鹿か…?」

サッと猟銃を構える。飛び出したら一発で仕留める。じっと照準を合わせたままボロ布を狙っていると、またもぞもぞとした動きでがずれ、中から人間の足を確認することが出来た。
しかもあれは大人の男のものではない。子供か女のものだ。キラウシは猟銃を下げると慌ててボロ布に駆け寄る。動いていたのだから、死んでいるわけではないだろう。

「おい、大丈夫か!?」
「ご、ごめんなさい…!殺さないで……!」

焦りながら声をかけると、怯えた音が跳ね返ってくる。ボロ布の中身は若い娘だった。酷く憔悴していて、歯がカチカチと震えて鳴る音まで聞こえてくる始末だ。粗末な浴衣は所々が破れ、足にも腕にも細かい傷が出来ている。こんなに怯えるなんて、何かに追われてここまで来たのか。

「安心しろ、別にあんたを殺しはしない」
「ごめんなさ…わ、わたし……ぅうッ……」
「おい、しっかりしろ」

娘は反射的にばっと両腕で自分の顔を庇った。これは日常的に暴力を受けていた証拠だ。
荒療治だとは思いつつも、彼女の両手首を掴んで目を合わせる。自分が危害を加える人間ではないと分かってもらわなければ話も出来ない。

「落ち着け。俺はあんたの敵じゃない」

キラウシがじっと大きな瞳で見つめると、彼女は荒かった息づかいを徐々に落ち着かせていく。動揺のあまり焦点の合っていなかった視点はようやく合うようになり、どうにか意思の疎通が取れるようになってきた。

「俺はキラウシだ。あんた名前は」
「……ナマエです」
「ナマエか。こんな山まで…何処から来たんだ?」
「その……く、釧路の街から……」

言い淀む様子は何か隠し事をしているように見える。自分のコタンに連れて行ってやるか。いや、万が一にも彼女が何者かであって、コタンに迷惑をかけることになったらとんでもない。しかしこのまま傷だらけの、今にも死んでしまいそうな彼女をここに捨ておくことはキラウシには出来なかった。

「手当てをしてやる。俺のコタンまで少し距離があるが…歩けるか?」
「えっと、あの……」
「歩けないなら背負っていく」
「あ!歩けます…!」

ナマエの返事を待ち、手を引いて立たせる。ボロ布を申し訳程度に着せ、そこからコタンまでの道を歩いた。ナマエは終始俯いていて、何か少しの音にも敏感に肩を震わせている。よほど怖い思いをしたに違いない。
ナマエの歩調に合わせて普段よりもゆっくりと時間をかけてコタンまで歩き、すると入口の付近で遊んでいる子供たちに出くわした。

「キラウシニシパ。そのひとだれー?」
「俺の客人のシサムだ」
「キラウシニシパ、私のムックリ壊れちゃったの」
「あとで直してやる」

わらわらと子供がキラウシに群がり、ナマエに好奇の視線を向ける。子供たちの頭をわっしわっしと撫でて向こうで遊ぶように言うと、キラウシは自分のチセにナマエを連れて行った。
水で傷口を洗い、薬草で湿布をする。独特のにおいにナマエが少し眉間にしわを寄せた。

「なるべく清潔にしておくといい。今のところは化膿もしていないみたいだ」
「……ありがとう…ございます…」

さて、ひとまずの応急処置は終わったが、一時的にでも彼女をコタンに留め置くのならば、村長に話を通さねばなるまい。キラウシは処置に使った道具をあれこれと片づける。

「今から俺は村長にあんたの滞在の許可をとってくる。一緒に来れるか?」
「え……?」

ナマエが驚いて目を丸くする。何に驚かれているのか分からず、キラウシはこてんと首を傾げた。するとナマエは口ごもったあとにそっと「いいんですか」と言葉を吐き出す。

「…私が犯罪者だったら…この村にも迷惑をかけることになりますよ」
「犯罪者は自分から自分を犯罪者だとは言わない」
「それは…そうかも…知れないですけど……」

ナマエはもごもごと言い淀む。どうせ行き場もないのだから黙って世話になればいいものを、自分からそんなふうに言うなんて変な娘だと思った。

「心配するな、人を見る目には自信がある。あんたが悪い人間じゃないことはよくわかる」

キラウシはそう言うと、安心させるようにナマエの頭をくしゃりと撫でた。その反動に押し流されるようにナマエの目元から涙が溢れていく。一度溢れるともう止めることも出来なくて、涙はナマエの胸元を見る見るうちに濡らしていった。

「…本当は、花街から逃げてきたんです…おっ父の借金のカタに売られて…米町で遊女をしていました」

ナマエがしゃくりあげながら打ち明ける。米町と言えば釧路の有名な花街だ。話によると、ナマエは一年ほど前に米町の遊郭に売られた。それがどうにも粗悪な店であるらしく、店の主人や客に日々暴力を振るわれていたらしい。
たまりかねてナマエは三日前、とうとう店を逃げ出した。あてもなく彷徨ううちにこの森に辿り着き、空腹と疲れで行き倒れていたのだった。

「…もうあの店にいたら殺されると思って…怖くて、でも行くところもなくて…」
「そうか、必死で逃げてきたんだな」
「わ、私…それで…」
「大丈夫だ。このコタンにナマエを傷つける人間はいない」

ついに言葉は泣き声に飲み込まれ、ナマエは洪水のようにわぁわぁと泣いた。浴衣の間から見える傷はなにも、この数日間の逃亡劇でついたものばかりではないらしい。
こんな娘がひとりきりで暴力に耐え、どんなに恐ろしい思いだっただろう。うずくまって泣き続けるナマエの背中をキラウシはトントンと優しく撫で続けた。


それがもう、七か月ほど前の話になる。キラウシが普段得ていた信用の甲斐もあり、ナマエの滞在は比較的簡単に許された。和人の言葉のわかるキラウシの姉がナマエにアイヌの女の仕事を教え、ナマエも熱心に働いた。
初めのうちこそアイヌの言葉も分からない和人の女をみな遠巻きにしていたが、ナマエの仕事ぶりに打ち解けるのは案外早かった。

「キラウシさん!おかえりなさい!」

何より一番の変化は、あれほど怯えていた彼女が笑顔さえ見せるようになったことだ。
キラウシが猟から戻ってくるのを待ち構え、姿が見えると嬉々として駆け寄る。治りきらずに痕になってしまった傷もあるけれど、このコタンで過ごすようになって顔色も見違えた。

「ただいま」

キラウシもこうして懐かれるのは悪い気がしないし、何よりもあれほど憔悴しきって怯えていたナマエが回復していく姿を見るのは胸の温まるものがあった。
ナマエは現在、キラウシのチセに間借りしている。キラウシの姉のチセの方が良いのではないかという話もあったが、いかんせんその話が出た当時はナマエがまだキラウシ以外の他人を怖がっていた。

「今日のお夕飯はユクオハウですね」
「すっかりアイヌ語も覚えたな」
「まだまだです。エカシと話すと全然伝わりませんから」

チセに戻ると、その日のなんてことのない話を報告しあうのが恒例だった。キラウシは今日の猟の様子を報告し、ナマエは自分の手仕事の成果を報告する。毎日特別変わったことはないし、劇的なことは起こらない。それでも二人で囲炉裏を囲んで話す時間が心地よかった。

「最近もうすごく寒くって。釧路の町も寒かったですけど、私、山の中で冬を越すなんて初めてで。少し不安です」
「何か足りないものがあれば俺に言えばいい。村の女たちも良くしてくれるだろう」
「そうですね、良くしていただいて申し訳ないくらいです」

ナマエがそう言いながらも、両手の指を握ってさすさすと擦り合わせた。指先が冷えているのか、と気が付き、キラウシはナマエの手を取ると冷えた指先を包んで温めた。

「冷えているな。この時期の水仕事は堪えるだろう」

氷のようにとまでは言わないが、自分の手に比べると何倍も冷たく感じる。自分の指とは違い、ナマエの指は細く柔らかい。女の手なんて村で何人も見たことがあるはずなのに、彼女の指先が特別美しく感じた。

「…ピリカ」

気が付くと、その手を引いて指先に口を寄せていた。胡坐をかく自分の膝の上にナマエが飛び込むような姿勢になっている。思いのほかナマエの顔が近くにあり、見開かれた目と視線がかち合った。黒いその中に焦った自分の顔が映っている。

「いや、ナマエ…これは…」

情けない言葉がぽろぽろとこぼれる。笑顔ばかりをみているからついつい忘れてしまいそうになるが、ナマエは遊郭で酷い目に遭わされたのだ。男が怖いに決まっている。自分とこうして接していられるのはきっと彼女の命を助けたという経緯があるからにすぎなくて、キラウシがそういう目で見ていると分かってしまえば怖がって出て行ってしまうかもしれない。
普段比較的なんでも言葉にするキラウシにしては珍しく、言葉を選びあぐねて口ごもった。こんなふうに握った手をどうやって誤魔化せばいいんだろう。

「キ…キラウシニシパ」

沈黙を破ったのは小さく震えるナマエの声だった。薄い唇をはくはくと動かす。それからぐっとキラウシに寄りかかり、耳をぴったりとつける。ナマエの髪が首元にあたり、キラウシをくすぐるようだった。

「ネイタパクノ トゥラノ アン ワ エンコレ ヤン」
「ナマエ、おまえ───」

私とずっと一緒にいてください。確かに彼女はそう言った。キラウシはナマエの背中に手を伸ばす。ナマエが胸元にすりすりと、愛おしそうに頬ずりをした。ぴったりとくっつく身体がじわじわ温められていくのを感じる。

「…いつの間にそんな言葉覚えたんだ」
「だっていつか、キラウシさんに言いたくて」

それからナマエは「この言葉をお姉さんたちに習うの、すごく恥ずかしかったんですよ」と言った。どうやら一から十まで、ありとあらゆるところに情報が出回ってしまっている。昼間どうして急に仲間があんなことを言い出したのか、正解はここにありそうだ。


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