エキサイティング・ドラマティック


ナマエには、形容に困る知り合いがいる。名前は宇佐美。職業は会社員。ちなみにこれは両方嘘かもしれない。というより、後者に関しては確実に嘘だ。
エンジン音が遠くから聞こえてきて、ナマエは居住まいを正してスマートフォンと向き合う。1分と経たないうちに着信が入り、ディスプレイに「宇佐美さん」と表示された。

「もしもし…はい、はい。わかりました。すぐ向かいます」

ナマエは電話に応答すると、財布とスマホだけが入ったバッグを持ってマンションを出る。エレベーターで一階まで降りれば、車寄せのところに黒塗りのセダンが停まっていた。カーウインドウがサーっと下がっていく。

「ナマエ」
「宇佐美さんこんばんは」

ナマエは両頬に特徴的なほくろを持つその男に挨拶をして、慣れた様子で助手席のドアを開ける。こんな夜のドライブをするのが何回目なのか、正直もう覚えていない。


ナマエがその日、会社からの帰り道で普段使わない道から帰ってみたら、団地の前の道路に人がうずくまっていた。怖い、と思ったけれど、もしも救急車が必要な人だったらどうしようかと思いなおし、意を決して近づいた。

「だ、大丈夫ですか…?」
「は?」

低い声に思わずヒュッと喉が鳴る。余計なことをしてしまったか、それとも声をかけてはまずい人間だったか。男は振り返ってナマエを確認すると、先ほどの声音が嘘だったかのようににっこりと人のいい笑みを浮かべた。両頬の同じ位置に特徴的なほくろがある。

「すみません、お騒がせしました」

覗き込んでギョッっとした。その場には彼だけではなくもう一人男がいて、しかも地面に突っ伏している。倒れている男の方にこそ救急車が必要なのではないかと、ナマエは焦ってスマホを取り出し「きゅ、救急車!」と口走った。すると、ほくろの男はスマホの画面をサッと手で覆う。

「えッ…」
「救急車は、必要ありません」

指先から手の甲、腕を辿って見上げ、彼の顔に辿り着く。やはりにっこりと笑っていて、しかし何も言わせない強制力のようなものを感じる。

「酔っ払って寝ちゃったんですよ。僕が送り届けますから」
「は、はぁ…そうだったんですね…あの、じゃあ、お気をつけて」
「ええ、あなたも」

これ以上関わるのも怖くなり、ナマエはぺこりと会釈をしてその場を離れた。なるべく早く家に帰りたくて早足になっていって、帰路の最後はとうとう全力疾走している始末だった。


ほくろの男と再会したのは、三日後のことだった。その日は金曜日で、しかしなんの予定もなく、残業もそこそこに一人で晩酌でもしようと最寄駅に降り立った。普通電車しか停まらないが、ハブ駅に比べれば駅近でも家賃がそこそこ安いのが魅力だろう。
駅から自宅までの間にはコンビニもスーパーもある。この時間ならまだスーパーも営業中であるし、お財布のためにもスーパーに寄ろう。そう決めて踏み出した瞬間だった。

「あ、いたいた。お姉さん、ちょっといい?」

キョロキョロと周りを見る。どうみても自分にかけられた声か、と思って振り向くと、そこにはスーツ姿のほくろの男が立っていた。

「あ、この前の…」
「覚えてくれてた?」

流石にあんな遭遇の仕方をしたら忘れる方が難しい。しかしそんな彼がこんなところで何の用だろうか。

「えっと、何か…?」
「通報してないかなぁって確認」

飛んできた思いもよらない言葉に「つ、通報!?」と大声で復唱してしまった。条件反射でパッと自分の口を塞ぐと、ほくろの男はにっこりと笑みを崩さず「行こっか」と言ってみせる。行くとはどこにだろう。まさかどこかに連れて行かれて乱暴されるのか。まだ死にたくない。

「や、あの、録画してるアマトーークも見てないし今日の脱力タイマーズも見てないしまだ死ねません…!!」
「バラエティ好きなの?」
「はい!」

緊張感があるはずなのにまるでそれを感じさせないやりとりが続く。それからほくろの男が「かりすま天国は?」と尋ねたので「毎週予約してます!」とナマエが答える。一体なんの話をしていたんだったか。

「僕、今週予約するの忘れてさぁ。お姉さんちで見せてくれない?」
「はい!………え!?は!?」

勢いよく返事をしてしまってから妙なことを言われたのだと気がついた。なんでほとんど初対面のような男を自宅に招かねばならないのか。ここはもう逃げるしかない、と利き足に力を込めたところで、それを見透かしたように彼がナマエの肩を抱き、くるりと方向転換をして誘導してしまう。

「ハイ、じゃあここから合意ってことで」
「えっ!ちょ、ちょっと!私別に…!」
「ほら、僕の車向こうだから。さっさと行くよ」

少しも聞く耳を持たず、彼はスタスタと足を進める。抵抗しようにも思いのほか肩を掴む力が強く、逃げ出すことはできない。あっという間にパーキングについてしまって、彼が足を止めた車を見て絶句した。フルスモークの黒塗りのセダン。車種はその道の人ご用達の国産高級車。サァっと血の気が引いていく。

「助手席乗って」

そう言いながら彼が助手席のドアを開ける。その動作にスーツの袖口が引っ張られ、手首がチラリと見えた。肌の上に大変色鮮やかなお絵かきが施されている。
詰んだ。そう思うにあまりある。夜道で人をころがし、フルスモークの黒塗りのセダンに乗り、体に彫り物。ヤクザの役満である。
抵抗しようとしまいと自分の運命は決まったも同然だ、と悟り、ナマエは大人しく助手席に乗り込む。男はくるりと運転席に回ると、すんなりした動作で乗り込んだ。

「名前は?」
「えっと…ミョウジ…ナマエです…」
「ミョウジナマエね」

なんで復唱したんだろう。絶対忘れないぞという意思表示か、それともせめてもの餞に名前だけは覚えといてやる的なアレだろうか。もちろんそれを問いただすことなど出来るはずもなく、ナマエはそのまま黙した。

「家、団地のほう行けばいい?」
「あ、ハイ……あの…これから私の家に行くんですか?」
「だからそう言ったでしょ」

てっきりどこか湾岸地帯の工場や人里離れた山奥などに連れていかれて殺されるのかと思ったが、そう言うことでもないらしい。いや、辿り着いた先の自宅で殺されるという可能性も大いにあるけれど。
自宅以外に道案内しようものならこのまま沈められかねない。ナマエはまるで機械音声のように自宅までのナビゲートをした。

「ふぅん。ここが君の家か」
「は、はい…」
「女の子が住むにはちょっとセキュリティ甘いんじゃない?」

まぁ確かに、オートロックはついていないけれど、言われるほど甘いとも思えない。男はそのままずかずかとエントランスの中を進む。「部屋どこ?」と聞かれて「305です…」と答えれば、彼はエレベーターに乗り込んで3階のボタンを押した。
当然のように上がりこみ、彼は宣言通り録画したバラエティ番組を勝手に再生した。「ドラマ録ってないの?」と聞かれ「ドラマあんまり見ないんで…」と答えると、尋ねたわりに興味もなさそうに「ふぅん」と返ってきた。


男が部屋へ上がりこむようになって数か月。彼は思い出したようにナマエの部屋を訪れた。ナマエは彼を「ほくろさん」と呼んでいた。彼は金曜日に現れることが多いが、恐らく反社会的組織の一員であること以外何も知らない。名前さえもだ。
妙なことになってしまったが今のところ実害はないし、そもそも警察にでも駆け込もうものなら彼が捕まる前に自分が消される。そしてさらに妙なことに、存外彼と過ごす時間が面白いと思い始めていた。
給料日後のいわゆる華金だ。スーパーで発泡酒を買うのではなく、今日はコンビニで新作の季節限定ビールを買おう。意気揚々と駅を出て自宅マンションまでの道のりを行く。
コンビニまであとふたつ角を曲がる、という住宅街の道を歩いていたとき、正面から黒いワンボックスが通りがかり、ナマエがひょいっと端によける。ワンボックスはそのままナマエの真横に停車し、後部座席からナイフを持った男が降りてきた。

「動くな」
「ヒッ…!」

ワンボックスからもうひとり男が姿を現す。いずれも夜に溶けるような黒づくめで、見覚えのない男である。身体がカチコチに硬直した。そのままナイフを持っていないほうの男がナマエの両手首を拘束する。

「騒ぐなよ。大人しくしてりゃ命までは取らない」

背中を押され、そのままワンボックスに詰め込まれる。乱暴に後部座席のドアが閉じられた。車が急発進し、身体が揺さぶられた。その瞬間にぐっと視線が落ち、男の手首のあたりに刺青が見える。

「えっと…あの…」
「殺されたくなきゃ、何も質問しないことだな」

そう言われ、ひゅっという息とともに言葉を飲み込んだ。車はどんどんと進み、途中で目隠しをされた。左右に曲がった回数を覚えておこうと試みたけれど、残念ながら途中でわからなくなってしまった。20分だか30分だか、とにかく長い間ゆらゆらと車に揺られ、車が急停止して後部座席のドアが開けられる。

「降りろ」

どんっと背中を押されて転がり落ちるように車から降ろされる。それから二の腕を掴まれ乱暴に立たされると、引きずられながら歩き、目隠しで視界を奪われているものだから何度も躓いた。

「ここで大人しくしてろ」
「いっ、痛ッ…!」

地面に引き倒され、頬を擦った。後ろ手に何かに括りつけられ、もう完全に身動きが取れなくなってしまう。なんでこんなことになったんだろう。別に今日だって普通に仕事をしていただけだ。コンビニでビールを買って録画したバラエティを見て、ささやかな金曜日の夜を過ごすだけのはずだった。

「兄貴、本当にヤツは来るんですか?」
「あれだけ足しげくこの女ンとこに通ってんだ。アイツのオンナだか組の他のモンのオンナだか知らないが…みすみす見殺しにはしねぇだろうさ」
「にしても…別に普通の女ですよね…夜の女でもねぇみてぇだし…」

男たちの会話が聞こえる。自分が何か人質のようなものとしてここまで誘拐されてきているようだ。どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ。じわりと涙がにじみ、目隠しの布がべちゃりと濡れていく。
こんなことなら先週の金曜日も発泡酒じゃなくてビールにすればよかった。おつまみだってデパ地下のデリにして、我慢していたケーキも食べればよかった。ガタガタと物音が聞こえる。怖い。死にたくない。刺激的なことなんてテレビの中で充分だ。

「来やがった!」
「くそ、なんでこんなに速く…」

にわかに視界の向こう側が騒がしくなる。低いエンジン音が響いて、同時に金属製のパイプが打ち付けられるような甲高い音が鳴った。あのエンジン音には聞き覚えがある。腹の奥を揺らすような、淡々と獰猛な音だ。

「お前らさぁ…ホント余計なことしてくれるよね…」
「あの女?」
「そうそう。二階堂、チャチャっとやっちゃうよ」

少し離れた場所から声が聞こえる。片方は知らないが、もう片方は誰だかよくわかった。例の「ほくろさん」である。

「た…助けてください……!」

気が付くとそう口走っていた。こんな裏社会の人間と関わるような生き方をしてこなかったナマエがこんな風に誘拐されているのは、何か心当たりといえば彼と出会ったこと以外に何もない。彼が元凶かどうかも判断は出来ないけれど、少なくともここに来ているということは無関係ではないだろう。

「いま助けてあげる。いい子で待ってて」

そういうや否や、建物の中は怒号と激しい物音に包まれる。金属が飛んでコンクリートに打ち付けられ、ナマエを誘拐してきた男たちの悲鳴が聞こえた。ガタ、ドドド、ガチン、バキ。視界を遮られた状態で激しい音を聞き続けるのは恐ろしかった。そのうち物音よりも呻き声のほうが多くなり、10分も経たないうちにあたりがシンと静まり返る。
それから後ろ手に縛られたロープをがゆっくりと緩められ、続いて目隠しの布が取り去られた。視界がやっと開ける。目の前にはやはり彼がいた。

「ほ、ほくろさん…!!」
「ハァ?なんだよそのあだ名」

彼は眉間にぐっとしわを寄せ、ナマエに「立てる?」と尋ねた。ナマエは頷いたけれど結局足に力が入らず、それを見て彼がため息をつくとナマエを抱き上げた。どうやらここは何か倉庫のようなところで、コンクリートの床の上にはナマエを攫ってきた男たちがひとり残らず伸びている。
一体この男たちは何者で、ここはどこなのか。とりあえず命の危機を脱したことだけはわかったが、他のことは何一つわからない。

「宇佐美」

半ば現実逃避で思考を飛ばしていると、彼が不意にそう言って、ナマエは思わず「え?」と聞き返す。すると補足で「僕の名前」と付け加えられた。
ナマエは教えられた名前を心の中で繰り返す。宇佐美さん、宇佐美さん、宇佐美さん。不思議と、初めて知ったはずのその名前は昔からよく知っているような気分になった。口に出せばもっとそう思うだろう。

「二階堂、運転して。事務所戻るよ」
「え?こいつらいいの?」
「もうすぐ月島さんが来るから。どうせ例の香港マフィアの回し者だろうし、全部吐かせてやるってさ」

宇佐美は平然とそう言ってみせて、二階堂と呼ばれた仲間らしき男は「グンソーかぁ、かわいそう…」と憐憫の視線をくたばる男たちに向ける。
二階堂は運転席に乗り込み、なれた手つきでエンジンをかける。ワンボックスよりも何倍も快適な乗り心地で車は走り出した。

「一応、君がなんでこんな目に遭ってるか説明してあげるけど」

そう前置きをして宇佐美は面倒くさそうにことのあらましを話し始めた。
最初は「現場」を見たナマエが妙な行動をしないか確認しに来たということ、そしてそうしているうちにそれが日課に変わったこと。それからしばらく経って敵対組織からナマエが自分のオンナだと誤認されていると察したが、それでも来るのをやめなかったこと。

「察したならやめてくださいよ!」
「別に僕としては誤解されたままでも構わないし、いっかなって」
「え?良くないですよ…!こんな目に遭って…!」
「どうせ遅かれ早かれこいつら来てただろうから、それなら僕がなるべく様子見てGPS付けといたほうが安全でしょ?」
「じっGPS!?」

当たり前のように「通勤カバンと靴何足かね」とのたまって、しかもひとつではなかったのかと唖然とした。全く気が付かなかった。というよりそもそも赤の他人からGPSを付けられる可能性なんて考えるはずがない。
いつつけられたかさっぱりわからなかった。一般人がそんなにも複数のGPSを使いこなせるものなのか。それは否だ。ナマエはじっと宇佐美を見つめて今まで聞くことをやめていた問いを尋ねる。

「あの…宇佐美さんって何者なんですか…?」
「それは聞かないほうがいいんじゃない?」
「…ですよね」

触らぬ神に祟りなしというか、もうそれ自体が答えと言うか、兎にも角にも知って得するようなことは何もないらしい。
ナマエはそのまま車で都内のホテルに運ばれた。あんな目に遭ったのだから、今晩はここで過ごせということだそうだ。必要なものあれば言って、と言う言葉とともに、宇佐美がテーブルにある供え付きのメモ帳に11桁の番号をすらすらと書いていく。

「眠れそう?」
「いやぁ…どうですかね…」
「子守歌謡ってあげようか」
「やぁ…それは…」
「冗談だよ」

何処から何処までが冗談なのかわかったものじゃない。いっそ今日起きたことをすべて冗談にして欲しい。思い出すと目がじんと熱くなり、それを見た宇佐美がナマエの頭をくしゃりと撫でる。

「明日の朝迎えに来るから。おやすみ」

彼の手の重さにはんのうするように、堪えていたはずの涙がぽろぽろとこぼれていった。


淡々と獰猛なこのエンジンも随分と聞きなれてしまった。今日は何処に連れていかれるのだろう。
いつもどこへ連れて行ってくれるかは聞いたことがないけれど、毎回呼び出されるのは夜だから夜景の見えるところに連れていかれることが多かった。

「今日はどこに連れて行ってくれるんですか?」
「内緒」

どうせ教えてくれないとわかっていて予定調和のやりとりをする。住宅街を抜け、国道を通り、周囲に街灯が少なくなってきたあたりだった。あからさまに後ろの車があとをつけてきている。

「あの…宇佐美さん、後ろの車…つけてきてません?」
「つけてきてるね」
「心当たりは…」
「腐るほどある」

やっぱりだ、どうせそんなことだろうと思った。ナマエがため息をつくよりもはやく宇佐美がアクセルを踏み込み、黒塗りのセダンは猛スピードで田舎道を駆け抜けていく。いつになったら私は平穏無事な生活を手に入れることができるのか、と内心思っていると、それを見透かしたように宇佐美が口を開いた。

「ほら、こういう刺激的なのもテレビみたいで悪くないでしょ?」
「私ドラマよりバラエティ派なんですけど…!」

ナマエはシートベルトを握りしめ、もはや違反どころではなくなったスピードに耐えるようにきゅっと口を引き結ぶ。車窓から見える街灯が線になっていく。どうせこのまま後続車を引き千切って何食わぬ顔で帰宅して、彼は録りためたバラエティをみることを口実にナマエの部屋に上がりこむに違いなかった。


戻る








- ナノ -