夜明けの肖像




※最終話までの内容を含みます。尾形もヴァシリも出てきません。




S氏の職業は、アートキュレーターである。
彼は学生時代に日本有数の美術大学で油絵の専攻で入学をしたが、在学中、アートキュレーターの経験があるという教授の話を聞くうち、キュレーターの仕事に興味を持つようになった。恩師の口利きなどを含め経験を積み、彼は母校の教員を勤めながらキュレーターとしての仕事を請け負っている。

「ロシア美術、ですか」
「ええ、先日エルミタージュ美術館の展示があったでしょう。その影響でね、ご興味を持っていただいた方がいるみたいで。あの時よりも規模は小さくなってしまうんですが、これを機に日本であまり知られていないロシアの絵画をご紹介できないかと話が持ち上がったんです」

応接セットの向かい側に座るのは都内某美術館の館長である。S氏のキュレーションに信頼を置き、次回の展覧会のキュレーションをS氏にぜひ、という話であった。
エルミタージュ美術館の巡回展が現在日本国内を盛り上げている。この特別展は大きなスポンサーがついた派手なもので、予算も格別だった。あれほどの予算はないとのことだが、目新しいものの展示のツテがあるという。

「目玉というわけにはいかないんですけどね、日本ではあまり知られていない画家ですから。その画家の希少な作品がこの前日本のIT企業が落札したんですよ。Sさんもご存じでしょう」
「ええ。三億の値が付いたとか」
「彼は昔のちょっとした知人でして。この展覧会の話をしたら興味を持ってくれたんですよ」

作品の名前は【山猫の死】と題されたものであった。ロシアの著名な画家が1940年に製作し、死の間際まで手放さなかったという絵画である。貴重なそれが市場に出回りオークションにかけられた経緯は割愛するが、どうやら北海道のとある家族が画家の死後所蔵していたらしい。

「山猫の死を展示出来たら、国内初になりますね」
「ああ。一度ニューヨークでの展示はされたみたいだけど、そのあとは彼の家に保管されてると言うからね」

S氏は館長からIT企業社長のM氏の連絡先を聞き、早速アポイントを取った。
二週間後、指定されたのはM氏の自宅マンションであった。面識のある人間ならまだしも、初対面の自分を自宅に呼ぶだなんて少し妙だと思ったものの、館長の知人であって社会的立場もある人間だ。滅多なことはないだろうと気を取り直し、手土産を持ってインターホンを鳴らす。

「お約束しておりましたSです」
「ああ、Sさん、すみませんね。こんなところまで呼びつけまして」

社長であるM氏は50代前半の恰幅のいい男である。一代で会社を一部上場の企業にまで成長させた敏腕社長としてメディアでも知られ、S氏もテレビや雑誌で何度もその顔を見たことがあった。
都内の一等地に建つ高層マンションの上層階、大理石の玄関には早速現代アーティストの彫刻が並んでいた。廊下の奥にも絵画が飾られ、美術に強く興味をもっていることは一目瞭然だった。

「どうぞ。ちょっとまぁ…なんというか、本題に入る前にご相談がありまして」
「はい、お邪魔します」

S氏は革靴を玄関で脱いでそろえると、黒で揃えられたスリッパに足を差し入れた。ピカピカに磨き上げられた廊下を案内されるままに歩き、突き当りのリビングでソファに座って待つように言われる。柔らかいそれに浅く腰掛け、自分の部屋よりも広そうな開放的なリビングを見渡した。
壁には青い絵具で絵付けされたデンマークの有名陶磁器工房のイヤープレートが掛けられ、ガラス戸のつけられた重厚な飾り棚にバカラが並ぶ。少々成金趣味っぽいところを除けば、概ね多岐にわたる美術愛好家のコレクション然としている。

「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとうございます」

M氏自らコーヒーを用意してくれたようで、クリーム色の陶器のカップに黒い液体が注がれている。あまりコーヒーに詳しくないS氏ではあるが、上品なカップに用意されたそれは普段自分が口にするものとは一線を画しているような気がした。

「改めまして、館長から今回のキュレーションを任せていただきましたSと申します」
「Mです。その山猫の死について、少しよろしいですか」
「ええ、もちろん。さきほど仰っていた相談ごとですか?」
「はい……」

M氏はもごもごと口ごもる。メディアでの彼の印象というものはもっと論旨明快で、辛口ながらも忖度のない発言が多い印象だった。あくまでそれは彼の一面に過ぎないのだろうが、どうにもこの様子は何かに怯えている人間のものに思える。
たっぷりの間を取ったあと、M氏はやっとといった様子で口を開いた。

「その山猫の死なんですがね、私の仕事部屋においているんです。それでその…妙な視線を感じるというか…」
「妙な視線?」
「はい。何かじっと見られているような、そういう視線です。まるで誰かに狙われているようで…」

話すたびにM氏の顔は青ざめていく。これは何も冗談を言っているわけではなさそうだ。M氏は落ち着かない様子で手を組んだり離したりを繰り返す。
美術作品から視線を感じる、という感覚についてはS氏にも覚えがあるが、M氏のものはそんな可愛らしいものとは思えない。

「失礼ですが、仕事部屋に窓は?」
「つけていません。窓があると集中できないタチでして、空気の入れ替えは換気システムでまかなっているんです」
「そうですか…では、このお部屋にはおひとりで?」
「はい。妻と息子は田園調布の家に住んでいるんです。職場が近いので私はここで寝泊りすることが多いんですが、来客もほとんどありませんよ」

詳しく聞くと、M氏の本宅は田園調布にある一軒家であり、ここはM氏が職場からの移動を考えて平日に寝泊りをするために購入したマンションであるらしい。ハウスキーパーが週に一度訪れるが、それ以外は来客さえなく、仕事部屋にはハウスキーパーを含めて誰も入れたことがないのだという。

「その、お仕事部屋というのを見せていただくことは…」
「もちろんです。もうその…視線が痛くてですね…」

M氏は快諾した。アートミステリーめいたことになってきてしまった、と思いながらも、S氏はそんな強いメッセージを放つ作品に胸を高鳴らせていた。
リビングから移動し、東にのびる廊下の突き当りがM氏の仕事部屋だった。パソコンや周辺機器はシルバーで統一され、デスクもメタル調の機能的なものである。一見スマートで合理性を追求したようなしつらいのなか、一番広い壁にその絵画は掲げられていた。山猫の死である。
S氏は思わず息をのみ、その絵画に見入った。この画家は精緻な描写に定評のある画家で、主にロシア東部の原風景や生き物を描いた。生き物はどれも写真と見紛うほどの精確さであり、生命力と存在感にあふれている。
その画家が唯一描いた「死」それがこの絵画であった。

「…すごい……」

思わず言葉が漏れた。これは死であり、そして生だ。
この山猫の死はすぐそこにあった。つい先ほどまで生きていた。山猫が斃れ、冷たくなっていくその一瞬を切り取ったような、まさに死の瞬間を描いた一枚であった。
山猫のごわごわとした毛がゆっくりと横になる。絶え絶えだった息が次第に安らかになっていく。ここまでの生を全うしたことを受け入れるような、生命の極地への至りである。絵画は当然動きはしないが、これは動いたところで驚きはしないかもしれない。そんな存在感を放っている。

「これは見事な一枚ですね…その、視線というのはこの山猫から?」
「ええ、パソコンに向かってますとね、じっと監視をされているような視線を感じまして。私も最初は気のせいだと思って、絵画の場所を変えたり、布を掛けてみたりしたんです。けれど視線が止むことはありませんでした」
「M社長の勘違いではないと…」

M氏はそう言うが、一度感じてしまった印象というものを変えるのは難しい。気になってしまったのがそのまま脳に焼き付き、刷り込みのようになってしまっているのではないか。S氏はそう考えた。
しかし悩んでいる人間に「気のせいですよ」というのはどうにもデリカシーに欠ける。何か穏便な言葉はないだろうかと考えていると、M氏はさらに言葉を続けた。

「その上ね、ついには変な夢まで見るようになったんです」
「夢ですか?」
「はい。外国人の男がずっと山猫を眺めているんです。雪山でその山猫を撃とうとでもしているようでした。男の服装も古めかしい軍服のようで、まるで戦争映画に出てくるような恰好の上にまた古そうなライフルを持っているんですよ」

雪山、という言葉にS氏は脳内のデータベースに検索をかけていく。この画家はたしか、若いころにロシアの国境警備隊に所属していた時期があったはずだ。いやまさか。画家自身が化けて出たとでもいうのか。

「素晴らしい絵ではあるんですけどね、どうだろう、私の手には余るかもしれないと最近は思うようになってしまって」
「そうでしたか。ちなみに展覧会にお貸出しいただくというのは…」
「結構ですよ。美術館への寄付も考えてるくらいだ」

三億円という大金を払ってわざわざ競り落としたものを早々に寄付とは、M氏は相当にこの絵画から送られてくる視線に参っているらしい。
話が随分な方向に脱線したものの、S氏は無事この絵画を借り受けることが出来た。しかも出来れば早くこの家から出したいというM氏の要望もあり、二週間後にはS氏の在籍する大学まで移動させることが決まった。


「S先生、山猫の死がこの学校に来るって本当ですか?」
「どこからそんな話を…他言無用で頼むよ」

専門の業者によって山猫の死が運ばれてくる当日、S氏が師事する教授のゼミに所属する院生のひとりがそう声をかけてきた。公にはしていないはずなのに一体どこから話が漏れたのか。人の口に戸は立てられないものだ。
山猫の死のような希少性の高い特殊なものは早々ないが、研究対象としてや一時的な保管場所として大学を使うことはままあることだ。院生のK嬢は勉強熱心な学生であり、特にロシア美術を研究している。あの山猫の死ともなればお目にかかりたいと言ってくるに違いない。

「あのS先生、ほんのちょっと、一目だけでいいので、拝見することは出来ませんか?」
「君なら言うと思ったよ」
「お願いします!先生!だってあんな超絶レア私なんかの身分じゃ絶対お目にかかれないんですもん!」

K嬢は両手をぱちんと合わせ、なんとかお目通り願いたいと懇願する。そこまでしなくても、S氏はK嬢を対面させるつもりであった。彼女の普段の勤勉な態度は知っているし、何より彼女の研究の専門分野でもある。

「いいよ、今日の午後に第七保管室に搬入されるから、夕方でも良ければ見においで」
「ほんとですか?やったぁ!」

嬢はまるで少女のように喜び、早速夕方に時間を作るべく溜まっている事務作業と論文に取り掛かった。
あの絵が自分の在籍する大学に運ばれてくるというのは、内心S氏の心を騒がせていた。死をテーマにしてなお、あれほどの存在感を放つ作品がほかにあるだろうか。例えばあの絵画の裏になにか重大な、秘密めいたものが隠されているような、そういう淑やかな知性を感じる。


絵画の搬入は馴染みの業者により予定通り午後三時には終了した。
様々な研究対象の所蔵品が並ぶなか、やはり山猫の死は特異な光を放っているように思われた。それは絢爛な輝きではなく、雪の降り積もる中に落とされるしんしんとした月の光のように感じられる。
S氏は山猫と視線を合わせるように対峙した。ありもしない雪が音を遮断していく。山猫は人知れず地面の上で目を閉じ、その毛並みを横たえ、静かに死を待つ。心臓が止まり、やがて体中の温度が失われていく。抵抗はない。満ち足りた光を己のなかに内包し、ほの白さが静かにわたっていく。
この絵画の山猫の一生は誰も知るところではないが、ため息の出るような美の成熟を感じ取ることができる。
あまりにその絵画に魅入られ、気が付くと外はもうすっかり陽が落ちてしまっていた。

「あの、S先生」

丁度K嬢が保管室に現れ、S氏はパタパタとK嬢の待つ出入口へと向かった。人智を超越するような美しいものに出会った際、人間というものは時間の概念を失って立ち尽くしてしまうものだが、こんなにも強烈なものはS氏にとって初めての経験だった。

「Kさん、無事運び込まれたよ。周囲の備品に気を付けて」
「はい。失礼します」

美術品を傷つけてしまわないように様々な対策の施されている保管室ではあるが、それでも可能性というものはゼロにはならない。K嬢は慎重に室内を歩き、山猫の死の正面に立った。

「すごい。まるで生きているみたい…あ、死をテーマにしているのにこの表現は不適切でしょうか」
「いや、僕もそう思ったよ。死んでいるものを描いたというよりは、死んでいくものを描いたように思える」
「そうですね。これはやはり普段の彼の作風が影響しているものでしょうか」
「どうだろう。いやむしろ…これは死の保存なのかもしれない」
「死の保存ですか?」

K嬢が聞き返した。S氏自身もまだ感覚的なものでしかなく、それをここで言語化していくのは難しいように思える。
S氏はなんとか感覚の言語化を試み、K嬢は隣でよりいっそう絵画に見入った。数分そうしているうちに、K嬢が「あれ」と声を上げる。

「どうかしたかい?」
「いえその…私の勘違いかもしれないんですが、この隅のところ、すこしだけ筆致が不自然な気がしてしまって」

彼女が指さしたのは左下部の額縁の隅だった。S氏も指摘されたところをじっと見つめる。言われてみればそんな気もするが、重大な特徴と言えるほどではない。何か製作途中の痕跡のようにも見えるし、長きにわたり所在不明だったのだから、その間に出来た傷と言われても納得できるようなものだった。
そのときふと、S氏の脳裏に同じような筆の痕跡の事例がよぎる。7年ほど前、スペインで発見されたものだ。それまで国立美術館に所蔵されていたものが展覧会で初めて貸し出されることになり、その搬送作業中に現地の学芸員が見つけた。担当の学芸員が丁度考古美術の研究をしていたことから、国の許可を得てX線分析をするという大騒動になった。

「S先生?」
「あ、いや…ちょっと気になるね、これ。X線分析の許可を貰えないかM社長に聞いてみるよ」
「えっ!そんなにですか!?わ、私の勘違いかもしれませんし…」

そこまでの大騒動になって自分の勘違いだったら、とK嬢は怖気づいたのだろう。しかし何も出ないならばそれでいい。M氏の言っていた奇妙な視線の話を聞いていたこともあり、S氏には何か、この絵画に表層的なものとは別の、もっと特別なものが隠されているような気がしてならなかった。
S氏は早速スマートフォンを取り出し、M氏へと電話をかける。電話は繋がらなかったが、3分と経たないうちに折り返しがかかってきた。

『Sさん、何かあったんですか』
「いえ、ちょっと気になる点がありまして、もしも可能であればこの絵画のX線分析をさせていただきたいのですが…」
『ええ、もちろんです、構いません。私の感じた視線のこともその調査でわかるものでしょうか』
「そこまでは何とも言えませんが、何か手掛かりになることを発見しましたらご報告いたします」
『ええ、ええ、頼みましたよ』

M氏は相当この絵画の視線に囚われているものと思われる。X線分析の件は一も二もなく承諾された。しかしもう分析をしようにも遅い時間だ。明日にでも早速分析をしよう、K嬢と話し、S氏はK嬢と共に研究室に戻ったのだった。背中に何か、強いものが突き刺さるのを感じた。


S氏はその夜、溜め込んだ事務作業と直近のキュレーションの報告書をまとめるために研究室に残っていた。時計がてっぺんを回ってしまって久しく、眠気も限界だ。
大きな特別展を任されたときなどは徹夜に近い作業も日常茶飯事ではあるが、ここのところ落ち着いていたために研究室に泊まり込むのは久しぶりのことだった。
もうダメだ、明日のX線分析のこともあるし、これは一度仮眠をとろう。S氏は大まかにデスクの上を片付け、隣室のソファに横になった。窮屈ではあるが、意外とこれでも仮眠には申し分ない寝心地である。うとうとと急速に眠気が襲ってきて、S氏はゆっくりと眠りについた。


銃声、列車の音、怒号、爆発音。あらゆる音が渦になり、そこかしこにひしめいている。
ガタンガタンと揺れる列車の音は現代のものとは違った。あれは、幼いころに家族と見に行ったことがある蒸気機関の音だ。
S氏はぼやける視界であたりを見回した。海沿いを列車が走っている。随分な田舎だ、ここは日本だろうか。いや、少なくとも現代の日本ではない。
S氏がそう考えているうち、また近くでドンッという銃声が鳴り響いた。いつの間にか列車の屋根に人が乗っていて、自ら目を打ち抜いた軍服の男が衝撃で転げ落ちる。S氏に成すすべなどなく、しかし気が付くとS氏の視点もその軍服の男のそばに落っこちていた。

(一体これは…なんなんだ…)

列車は走り去る。軍服の男は穏やかに笑っていた。
見知らぬこの男に、S氏は既視感を覚えた。あの山猫だ。満ち足りた光を己のなかに内包し、ほの白さが静かにわたっていく。
死んでいく男の隣に呆然と立ち尽くしていると、遠くから足を引きずるようにして別の男が現れた。口元を隠していてよく見えないが、少なくとも日本人ではない。その外国人もまた、軍服のような装いであった。
その外国人は横たわる男を見つけると、跪いて祈りを捧げた。宗教画のような清廉さよりも、生々しい人間の祈りがそこにあった。


「…ッ!!」

目を覚ますと、じっとり脂汗をかいていた。夢、夢だ、夢に決まっている。S氏は時計を見た。思いのほか眠ってしまっていたのか、もう夜が明けようとしている。
S氏の心臓はドクドクと激しく鼓動していた。まるで現実のような夢であった。ひょっとして、あの外国人はM氏が見たという外国人ではないのか。いや、M氏の話を聞いて勝手に想像したに違いない。
S氏は言いえぬ興奮をおさめるため、テーブルの上のミネラルウォーターを一気に飲む。生ぬるいそれが喉を通り抜け、胃に落ちていくのを感じた。

「…いけない。準備をしないと」

X線分析の準備も昨日の続きもある。S氏はミネラルウォーターを飲み干し、ペットボトルをゴミ箱に放ると隣の自分のデスクに向かった。当然のように眠る前と同じ位置で書類がS氏の帰りを待っている。S氏はパソコンを立ち上げ、まだおさまらない鼓動を誤魔化すように作業に没頭した。
いくつかの作業を終わらせ、K嬢が来るのを待って二人は第七保管室から山猫の死をX線分析のかけられる特別な研究室に運ぶ。K嬢は好奇心と恐れを隠せないような、なんとも名状しがたい表情であった。慎重に器具に絵画を横たえ、いくつかのボタンを操作する。

「あの、S先生、何か見つかるんでしょうか…」
「調べてみなければわからないよ」
「私、少し怖いです」

K嬢の声が震える。この絵は人をひきつけ、恐れさせる魅力がある。その魅力の真相を知ってしまうことは、見るなのタブーを冒すような、そういう恐ろしさがあった。
S氏は震える指を律し、分析をスタートさせるボタンを押した。電子音が小さく鳴り、X線が山猫をスキャンしていく。最新鋭のそれは、繋がれたPC上にスキャンの結果をリアルタイムで写しとった。PCのモニターに山猫ではないものが浮かび上がった。

「S先生…これ…」
「ああ。キャンバスの修正や製作の微調整は良く見つかるものだけど…これは…」

7年前のスペインの件では、絵画の下からまったく別の絵が描かれていることが発見された。それは弾圧から逃れるため、画家自らが作品の上に別の絵を描いたものだと推測されている。この絵画もまさか、何か事情があって画家自ら上塗りをしたものなのか。

「これ何でしょう…なにか別の動物…?」
「いや……」

S氏はモニターをのぞき込み、下敷きにされた絵を見つめる。そしてその輪郭を把握し、思わず息をのんだ。これは人間だ。

「……人間」
「えっ、うそ…あっ…ここに横たわって…?」

K嬢もS氏の言葉を受け、下敷きの絵の輪郭をとらえた。画面の中央、山猫が横たわっていた場所に男が横たわっている。おそらく少し微笑んでいて、なにかマントのようなものを纏っているようにも見えた。

「これ…誰でしょう。彼の作品に人物画なんてほとんどありませんよね、ましてや人間の死を描いてるなんて…」
「彼がこの絵画を手放さなかったのは、もしかして山猫ではなく下敷きのこの絵を誰にも渡さないためじゃないか」
「え?どういうことです?」

S氏の頭の中には夢で見た男の顔が浮かんでいた。口元を隠し、横たわる男に祈りを捧げる。命の灯が消える瞬間を彼だけが見つめていた。彼だけがあの男の死を知っていた。

「彼の死を、こうして保存するつもりだったのかもしれない」

のちの精密な調査により、山猫の絵が描かれたのは、下敷きになっている横たわる男の絵の描かれた30年ほど後のことだと分かった。画家は自分の作品を上書きまでしてでも、この男の絵を誰にも渡したくなかったのかもしれない。S氏はそう考えたが、真相は闇の中だ。
その画家の名前はヴァシリ・パヴリチェンコといった。類まれなる観察眼と精密な筆致をもって、絵画に命を与える画家であった。
うねる歴史の波に飲み込まれた画家が、死の間際まで守り続けたこの絵の男が誰であったのか、それはもう誰にもわからないことであった。


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