押しかけ小町
菊田杢太郎は、帝国陸軍東京第一師団の軍曹である。現在は陸軍士官学校で指南役を務め、日々若き才能を洗練している。
一見飄々とした佇まいはなにか役者のような趣を感じさせ、伊達気質な視線は端から女性を無言で口説き落としてしまうような魅力があった。
しかしそれもこれもすべて所詮は彼に対する幻想であると、ナマエはよく心得ていた。
「菊田さんこんにちは。今日は何にしましょう」
「おうナマエちゃん、今日はそうだな、カレイの煮つけをくれ」
「あら、今日は何かいいことでも?」
「はは、むしろ面倒なことを押し付けられてね」
菊田はのれんをくぐると、ナマエに勧められるまま椅子に座った。ナマエというのはこの食堂の看板娘で、ここは菊田の勤める士官学校にほど近い大衆食堂である。
値段の割に美味い魚が食べられると評判で、いつもよく混みあっているような店であった。
「はい、お待ちどうさまです」
「ありがとう」
ナマエがにっこりと笑いかける。彼女はちょっとこのあたりじゃ見ないくらいの美人だ。家族はなく天涯孤独の身の上でこうして食堂で働いてはいるが、どこぞの御令嬢といわれても頷けるくらいの洒脱な雰囲気があった。
「ねぇ菊田さん、あの話考えてくださった?」
「え、あー、あー…それは…」
菊田は歯切れ悪く言葉を濁す。あの話、と言われて思い当たるのはひとつしかない。視線を泳がせ、どうしたものかと首を捻る。
実のところ菊田はその洒脱な美人に正々堂々と思いを寄せられているのである。
「ナマエちゃん、君くらいの娘なら引く手数多だろう。わざわざ俺なんか…」
「俺なんか、じゃありません。私の思い人にケチをつけないでください」
ぷいっと怒ったふうで顔を逸らす。これは決して本気ではなく、しかもこんなさまを可愛らしいと思ってしまうのだから、これは相当焼きが回っている、と菊田は自分自身に心の中でため息を付いた。
「ねぇ菊田さん、私本気ですよ」
「はいはい、好いてくれるのはありがたいが、俺は戦争になりゃいつ死ぬかもわからない軍人だ。もっといい男探しな」
「またそう言って。私には菊田さん以上に素敵だと思える人はいないんだって、いつになったら分かって下さるの?」
こうした光景は最早日常と化していて、店の奥では店主が二人のやり取りを笑っている。本当に迷惑だと思っているのであれは店になんて通わなければいいだけの話で、つまるところそう言うことだった。
菊田には下された密命があった。第一師団長の奥田中将直々の命令である。
密命の内容は面倒なこと極まりなかった。というのも、現在士官学校で学んでいるとある青年のお見合いを妨害しろ、との話なのである。
その青年というのが花沢勇作、第七師団師団長の花沢幸次郎中将の子息で、花沢中将は彼を連隊の旗手にすることを望んでいる。連隊の旗手と言えば品行方正で童貞であることが条件であり、誉ではあるが非常に死亡率が高い。待ったをかけたいのは勇作の母であった。
お見合いでなし崩し的に相手を作り、無理やりに童貞を捨てさせてしまって、連隊騎手に相応しくないようにしてしまえという目論みである。事態はお家騒動で片付く段階を超え、秘密裏にお見合いを妨害して勇作の童貞を守れ、だなんて冗談のような密命が下ったというわけであった。
「よぉしノラ坊、なかなか様になってきたじゃねぇか」
菊田はその作戦に、丁度いい人材を手に入れた。家族を亡くし天涯孤独で日本各地を放浪しているという青年だ。名前は聞かなかった。菊田はその青年をノラ坊と呼んだ。
ノラ坊は顔だちに気品があり、例えば高級将校のお坊ちゃんと言われても説得力があった。つまり彼にある程度訓練をつけ、花沢勇作のお見合いに替え玉として送り込もうという策である。
「俺…本当にそんなお坊ちゃんにみえますかね」
「大丈夫だ、食事するだけだしな。そう長い時間じゃない」
菊田は自分の制服を貸し与え、ノラ坊に食事の作法の特訓をつけた。待機させる宿までの道すがら、ノラ坊が少し不安げにそう溢す。菊田はぽんっと肩を叩いた。
「あら、菊田さん、こんなところでお珍しいですね」
「あーナマエちゃん、こんなところまでお遣いか?」
「ええ。親父さまのお遣いでお得意さんのところに」
思わぬところで鉢合わせてしまった。ナマエは菊田の隣のノラ坊をまじまじと見つめる。
ナマエの丸い目で見つめられ、ノラ坊はかちこちに固まった。
「そちらの兵隊さんは、菊田さんの部下の方?」
「あー、いや、コイツは陸士候補生なんだ。ちょっと用があって同行してもらってる」
「まぁ、そうなんですか。お勤めご苦労様です」
ナマエがそう言ってぺこりと頭を下げ、ノラ坊はどう対応したものかとオロオロ菊田に視線を飛ばした。
「じゃあまたな、ナマエちゃん」
「はい。お仕事がんばって下さいね」
にこやかに手を振るナマエとそこで別れ、訳も分からないままノラ坊はひょこっと会釈をした。すたすた歩く菊田に小走りで追いつくと、ノラ坊はこっそりと尋ねた。
「菊田さん、さっきのお嬢さんは誰すか?」
「ああ、定食屋の娘だよ。お前を連れてったところじゃないけど」
「へぇ。菊田さんのいいひと?」
「違う。だいたいいくつ歳離れてると思ってんだ」
好奇心を隠せないといった様子のノラ坊を一蹴する。歳の差に関してはノラ坊が知る由もないのだから、ほぼ八つ当たりだか照れ隠しだか、そういう類いのものだ。
ノラ坊はホワホワとした様子だった。確かにナマエは、定食屋で働かせているのが勿体ないくらいの器量のいい女である。
「なんか…凄い美人さんでしたね」
感心したようなしみじみとした少し熱っぽい声にぎくりと心臓が嫌な音を立てた。菊田は被ったハンチングのつばをぐっと掴む。
「狙うなよ」
「は?え?まさかそんな!」
言ってしまってから菊田は自分の口を手で覆う。今のは相当まずい。普段あんなに躱しておいて、この言い草はないだろう。自分の中で認めなければならない感情に、菊田はハァ、と大きくため息をついた。
結果的に言えば、いくつか不測の事態は起こったものの、花沢勇作の童貞を守ることには成功した。途中奥田の差し向けた第七師団の連中と鉢合わせる事態になり、しかも士官学校の事務の女性がうっかり帝国ホテルでの見合いの話を漏らしてしまって、最終的に本人まで出てくることになった。
最後は菊田自身が突入して何とかノラ坊と見合い相手の令嬢を逃がすことが出来たものの、第七師団の兵士が撃った拳銃からノラ坊を庇い、左肩を負傷する羽目になった。
「菊田軍曹を第七師団に転属させる。転属の理由は自分で考えろ」
陸軍を辞めさせられる事態になるかと思いきや、風向きが変わった。奥田に呼び出された菊田は、今回の一件で北海道の第七師団への転属が決められたのである。
軍を辞めずに済んだか、と思う反面、まさか北海道に転属することになるとはと、菊田は街を歩きながらぽつりぽつり考えた。
胸中にあるのはナマエの笑いかける顔である。
「はぁ…まさか北海道とはなぁ」
自分のようなひと回り以上年の違う男がいいという。何度も躱そうとしても、その度真っ直ぐに向かってくる。
あれだけの美人なのだから、探そうと思えばいくらでもいい男なんかいるはずだし、そもそもあの食堂に通う客の内何人もが彼女を目当てに通っている。そんな彼女が自分のことを好いてくれるのはくすぐったくもあり、同時に申し訳なくも思った。
何せ自分は地獄行きの特等席に座る男である。きっといつか彼女を置いていってしまうのだと、どこか確信めいてそう思っていた。
「っと…無意識とは俺も大概だなぁ…」
ナマエのことを考えるうち、菊田の足は自然とナマエの働く食堂へと向いていた。これはいよいよ、決着をつけねばなるまい。
ずっとぬるま湯に浸かっているような関係を続けていたが、第七師団に転属となれば話は別だ。あの笑顔が他の男に向けられるのは惜しいが、いい機会じゃないか。
「いらっしゃい」
がらがらと引き戸を開けると、飛んできたのは店主の声である。いつもなら飛んでくるのはナマエの声のはずで、菊田は思わず店内を見回した。ナマエは店内のどこにもおらず、最終的に店主とバチっと目が合ってしまい、決まり悪く曖昧に笑う。
「あの子ねぇ、今日ちっと体調が悪そうでね、休むように言ってるんですわ。菊田さん来たって言ったら悔しがるだろうなぁ」
店主には菊田が何を探そうとしていたかもお見通しで、カラカラと笑いとともにそんな言葉が返ってくる。
ナマエに会えないことを落胆した反面、少しホッとした。ナマエに会って直接伝えたとして、万が一泣かれでもしたら上手くとりなしてやる自信がなかった。
「親父、今日はちょっと…まぁなんだ、礼を言いに来たんだ」
「礼ぃ?なんかあったのかい?」
「はは、今度北海道の第七師団に転属になってね。そうなりゃここにも来られなくなるだろうからさ」
菊田がそう言うと、店主はしぱしぱと目を瞬かせ、それから大袈裟なくらい大きな声で「ええぇッ!!」と声を上げた。
思わずといった調子で厨を放りだし、バタバタと菊田のそばまで駆け寄る。
「そんな急に!ナマエをすぐ呼んで来ようか!」
「いや、いいよ。寝かせておいてやってくれ」
「ナマエが聞いたら寂しがるだろうよ」
「はは、まぁいつまでもおじさんの相手なんかさせられないさ。ナマエちゃんには、いいひとと一緒になるよう伝えておいてほしい」
店主は太い眉をぐにっと下げ、それから頭を抱えてため息をついた。ナマエの気持ちというものは、一番近くにいた店主が一番よく知るところだろう。店主はもう一度ため息をついたあと、言いづらそうに口を開く。
「実のところさ、ナマエを貰って幸せにしてくれるのは、菊田さんじゃないかと思ってたんだ」
「まさか。俺にはそんな甲斐性ねぇよ」
「菊田さんあんた……」
「じゃあ、よろしくな」
菊田はそう言い、まだ少し物言いたげにしている店主に背を向けると店を出た。これでいい。きっとこれが一番良い。彼女にはきっと相応しい男がいて、それは絶対に自分ではない。
その後数日で菊田は北海道の第七師団に正式に転属となり、そこで曹長の階級を授かった。ナマエとは一度も顔を合わせることがないままだった。
東京から北海道となると、味の好みも随分変わる。
しかも北海道は東京よりも北に位置しながらも、大阪商人との交流が盛んであったために、関西の文化が流れ込んでいる部分もあり、食文化は東西折衷。そこに和洋とアイヌまで加わり、ほかの土地にはない多様さが生まれている。
「よう有古、お前どっかこのあたりで美味い飯屋しらねぇか」
「美味い飯屋ですか…」
菊田はこちらに来てから五ヶ月、決まった飯屋というものが見つからずにこうしていい店を聞いて回っている。
まずくはない店もたくさんある。しかしどうにも落ち着いてここに通うかと思えるような店に出会えないままでいた。
「そういえば、師団通りの西にある店の話をよく聞きます。自分は行ったことがないのですが、最近になって美人が給仕しているとかで、同じ班の一等卒も行ったと言っていました」
「へぇ、美人の看板娘ねぇ…」
正直な話、その類の触れ込みはナマエを連想してしまうので気が進まない。とはいえ他にあてもなく、結局菊田はその兵卒の間で話題だという食堂に向かうことにした。
噂の定食屋というのは話の通り師団通りの西の隅にあった。昼時を過ぎていたからか少し客足は落ち着いているように思えるがこの時間でこの人出なのだから充分繁盛しているだろう。菊田がのれんを潜ろうとすると、丁度店の中から女の給仕がひょっこりと顔を出した。
「こんにちは、菊田さん」
のれんから顔を出したのは、着物をたすき掛けして給仕らしい恰好をしたナマエだった。北海道にいるはずがない。他人の空似か。いや、今名前を呼んだ。では自分の都合のいい幻覚か何かだろうか。
「は、え…な、なんでこんなところに…」
「親父さまから聞いたんです。菊田さん、北海道に行くって」
「いや、だからってどうして…」
「だってお別れも言えないままなんてひどいわ。しかも他のいいひと探せなんてあんまりじゃないですか」
どうやらこの娘は正真正銘ナマエであり、菊田が第七師団に転属になったと聞いてひとりあてもなく北海道まで飛び出して来たらしい。
「……俺なんかよりいい男、どれだけだっているだろう」
「私の思い人にケチをつけないでください」
いつかと同じようなせりふを言って、つんと唇を尖らせてみせる。心臓の底でなにか甘いものが燃えていくような気がした。ナマエは菊田のすぐそばまで歩み寄り、幾分も低い位置からぎゅっと菊田を見上げる。
「私には菊田さん以上に素敵だと思える人はいないんだって、そろそろ分かって下さった?」
そうナマエが笑った。もうここまでされてはお手上げだ。
きっと自分がこの先ナマエを置いていってしまうかもなんてそんなことを言ったところで、ナマエは少しも引かないんだろう。
「参ったよ、俺のお嬢さん」
菊田はナマエの手を引き、腕の中に閉じ込める。自分よりも随分と小さく柔らかい身体の熱を、ついに捕まえてしまった。
こうなってしまえばあとはこの腕の中の彼女を、いかにして幸せにするかを考えるだけだ。
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