モーニングスター
「宇佐美って、セックスのとき言葉責めしそう」
「は?」
なんてことはない飲み会の、もうお開きも近づいているようなあやふやな時間。突如として吐き出された猥談に宇佐美はぐいっと眉間に皺を寄せ眉尻を上げた。
今日は大学の同期が結婚したいう宇佐美にとってはまったく興味のない集まりで、声をかけたのがナマエでなければ確実に参加はしていなかった。元々酒が強いせいもあるが、興味のないバカ騒ぎを興味のない人間が目の前でしていれば微塵も酔うことができない。補足するならばこの「バカ騒ぎ」というのは宇佐美の主観であり、客観するところによると和気藹々と酒を酌み交わしている程度の話である。
「なんだよ、急に」
「べつにぃ。だって宇佐美性格悪いし、女の子にもねちねちしてそうだなぁって思っただけ」
じろりと隣を見ると、ナマエは手にしていたコークハイのグラスを傾けて中身を飲み干したところだった。これが数杯なら可愛いものだが、何杯目かもわからないほど飲んでいるのだから血中のアルコール度数はとんでもないことになっているだろう。つまるところ、隣にいるこの女は酔っぱらっていた。
「ナマエは無口な男が好きだもんね」
「そぉだねー、無口ってほどじゃなくても寡黙な人が好きかなー」
参加をしたくもない飲み会で、好きでもない猥談に乗らされている。これはひとえに宇佐美がナマエのことを好いているのが要因だった。もう五年前だ。こんなあけすけな女を好きになってしまったのは。
「宇佐美は?どんな子がタイプ?」
どうして彼女だったのか、宇佐美は上手く説明ができない。ただ何となく気づいたら目で追っていて、何となく他の男と一緒にいるのがムカつくと思った。
告白はしなかった。そういう雰囲気になるより前に気安い友達になってしまっていたからだ。
「ナマエには教えてやんない」
ナマエは「えぇぇぇ」と抗議の声を上げた。好きなタイプはお前みたいな子だよなんて、そんなうすら寒いことは言う気にもならなかった。
飲み会は二次会でお開きになった。またどうせ結婚式でも集まるだろうに、ただ飲み会をするきっかけが欲しかっただけかもしれない。
花嫁の方はナマエと仲の良い同じゼミの女だったが、男は一つ年上の、違うゼミの先輩だった。花嫁とはサークルで出会ったらしい。そんなわけで、13人とそれなりに大所帯になった今日の飲み会には顔も知らない男が4人ほど混ざっていた。
「ミョウジさん大丈夫?」
「だいじょうぶ、でぇす…」
宇佐美がお手洗いから戻ると、あからさまに大丈夫じゃない声でナマエが「大丈夫」とぬかしていた。だから端っこに寄って黙って待ってろって言ったのに、と苛々しながら座敷に上がれば、言いつけの通りナマエは座敷の隅に小さく丸まっていた。男の方からナマエに近寄ったのだ。
「家どのあたり?俺タクシー呼んで…」
「ナマエ」
送り狼にもほどがある文言を遮り、ナマエの名前を呼ぶ。すると、トロンとした目がうろうろと動き、宇佐美を見つけてへらっと笑った。
「うしゃみー、飲み足りなーい」
「はいはい、もう充分でしょ。すみません、こいつ僕が送っていくので」
宇佐美はにっこり笑顔を貼り付け、言外に「早く失せろ」と圧力をかけ、男は「そっか」と言ってそそくさと立ち去った。
惚れている贔屓目をもってしても、ミョウジナマエという女は十人並みであると思う。不細工というほどではないが絶世の美女でもなく、頭も悪くも良くもなく、性格も平々凡々。なのに学生時代から何かとこうして声をかけられる機会が多かった。それはこの女から勝手に漏れ出ている「ヤレそう」という空気が原因だと宇佐美は分析していた。
「……今日、帰りたくない」
「酔っ払いの相手は御免だよ」
ほら、こういうところだ。無自覚なんだろうが、こうやって男にヤレそうな雰囲気を簡単に出す。だから十人並みのくせに妙な男に声を掛けられるのだ。僕がいないと本当に駄目なんだから、と宇佐美は身勝手な正義感を心の中でナマエに押し付けた。
「宇佐美がいるからぁ、なんとかなってるけどぉ…私一人だけぇ、売れ残っちゃうぅ…」
「何言ってんの、まだ26でしょ」
「いいひとから売れてくってぇ、あーちゃんが言ってたもん…」
このあーちゃんとは今日の主役の花嫁である。確かに相手の先輩は一部上場企業に就職を決めたエリートではあるが、いいひとかどうかは宇佐美の知るところではない。
しかしまぁ、その理論に関しては概ね同意であった。さすがに26歳で売れ残りを心配するのはどうかと思うが、男も女も優良物件から売約されていくのは当然の節理である。
「売れ残ったら僕が貰ってあげるよ」
「ほんと?アテにするよ?」
宇佐美は平気な顔でそう言った。何故ならもうこのセリフも擦り切れるほど口にしているものだからだ。そして酔っぱらっているナマエの記憶にはさっぱり残らないと、予めよく知っていた。
ナマエは、酔っぱらうと50%くらいの確率で完全に記憶を失う。自分がどんなことを言ったかなんて些末な記憶の場合は80%以上なくなると言っても過言ではない。だから翌日「昨日はごめんね、ありがとう」なんてメッセージが届いたときにはたいそう驚いた。
泥酔していたくせに、もしかして昨日の「貰ってあげる」というのも覚えているのか。べつにあれを冗談で言っているわけではないが、覚えられていた場合はどう立ち回るか。
宇佐美はじっと液晶画面を睨みつけ、ナマエの顔を思い浮かべた。
『悪いと思ってるなら今度奢ってよ』
それが宇佐美の返信だ。メッセージのやり取りで探れるところがあるならそれでいいし、なければ取り付けた約束の日に直接探ってやればいい。二人で飲みに行くなんて今まで何度もあったんだ。提案そのものを不審がられることはないだろう。
『あんま高い店禁止ね!』
これがナマエの返信である。今まで一度たりともそういう、例えばデートで利用しそうな雰囲気の店なんて行ったことがない。そういう店に行くのは宇佐美とナマエの関係ではなかった。
結局二人の家の中間地点より少しだけ宇佐美の家に近い馴染みの居酒屋で飲むことになった。思いっきり飲みたいから金曜日がいい、なんて、彼女は本当に奢る気があるのか。もっとも、実際に奢らせる気は宇佐美にはなかったけれど。
「お疲れー!」
宇佐美のさまざまな思考とは裏腹に、ナマエはいつも通りだった。それが腹立たしくもあるし、少しホッとしたような気持ちでもある。
軟骨のから揚げ、枝豆、だし巻き卵。いつも通りの色気のかけらもない料理がテーブルに並び、色気のないビールとコークハイで乾杯をする。男女だからという理由だけで横並びの半個室になっている席に通されるが、これも特別珍しいことではないし、今更お互い気にもしない。
「はぁ、コークハイうま」
「ナマエ、コークハイ好きだよね」
「うん、大好き」
へらっとナマエが笑う。こういう何気ない言葉にさえ翻弄されてしまうのだから、もういい加減末期だと思う。
ナマエは裏表がないから、その真っ直ぐな言葉が好きだった。嘘が下手なせいで生きづらそうな場面も何度もみたけれど、結局のところ彼女のそれは美徳だと思う。
「そういやさぁ、今日母親からメール来てね、実家の猫ちゃんが子供産んだんだってー」
見て見て、とナマエがスマホの画面に写真を表示した。覗き込もうとしたら同じタイミングでナマエもぐっと近づき、思いのほか二人の距離が縮まる。こつん、と手の甲がぶつかり、ナマエが思わずといった調子で勢いよく身を引いた。顔がふっと逸らされる。
「う、宇佐美さ、貰ってあげるとか、他の女の子に言わないほうがいいよ」
「は?」
「わ、私は良いけど…ホラ、他の子だと絶対本気にすると思うし、その…私は冗談だって分かるけどね!?」
突如落とされた爆弾に、宇佐美は思わず言葉を飲み込んだ。なんだ、覚えていたのか。覚えていて、いつもと変わらない態度を取っていたのか。しかもなんだ、この自分は本気にしてません、冗談だと思っていますなんて言い訳は。
そうわかると、胸の奥の方の暗い感情がふつふつと沸き立つ。この女はあの言葉を少しも何とも思っていないのだ。
「ナマエさ、僕のこと見縊り過ぎじゃない?」
「え?どういうこと?」
「僕はナマエと違ってバカじゃないし、そういうこと言う相手は選んでるんだよ」
宇佐美はずいっと距離を詰め、ナマエの細い顎を引っ掴む。目玉がこぼれ落ちるかと思うほど大きく開いてびっくりしていて、いい気味だと思った。
そのままもう片方の手で強引に肩を引き寄せ、ぽかんと開いている唇に噛みつき、舌をねじ込んで口内を蹂躙すれば、コークハイで甘くなっているナマエの味はどんどん中和されていった。
「僕がセックスの時に言葉責めするか、確かめてみる?」
トドメとばかりにそう言ってやれば、ナマエの顔はみるみるうちに真っ赤に染まった。
これはもうそう言うことでいいだろう。今更そんなつもりはありませんでしたなんて言われても、聞いてやるつもりはさらさらなかった。宇佐美は自分のジョッキに手を伸ばしてビールを呷る。
この居酒屋の近くに連れ込めるようなホテルはあっただろうか。まぁ無ければ無いで、自分のマンションまで連れて行ってしまおう。きっとその時ナマエは従順に後ろをついてくるんだろうな。
そう思うと、ビールの味まで甘く感じてしまうのだから、自分は本当にらしくもないことになってしまっていると思う。この唇でキスしたらきっとさっき中和できていたのが嘘みたいに甘くなってしまうんだろう。
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