アフターバースデー


恋人の佐一くんが住んでるのは1Kの単身者向けマンション。お世辞にも広いとは言えなくて、ベッドとテーブルを置いてしまえば一杯一杯の空間である。しかも佐一くんは片づけるのが結構苦手で、だからいつも取り込んだ洋服がそのまま重ねられていたり読んだ漫画が詰まれたままになっていることが殆どだった。

「はぁ、それももう八ヶ月前かぁ」

私は昨年の7月から念願だったイギリスへの留学のために日本を出ていた。本当は帰国はあと一週間後の予定で、日程の調整がついたために少しだけ前倒して佐一くんの誕生日に間に合うように戻ってきたのだ。
帰国のことは佐一くんには内緒。驚かせてやろうって思ってる。
サプライズとかそういうベタな乙女みたいなこと好きだし、きっと喜んでくれると思う。
そんなこんなで私は空港から色んなお店を経由し、ありったけのご馳走を手に佐一くんの部屋に向かった。

「あれ…?」

が、インターホンを押して待てど暮らせど応答はない。ちらっと玄関脇の電気メーターを見れば、明らかに不在にしている様子でごくゆっくりとしか回転していなかった。
しょうがない。外で待っているのも不審者だと思われて通報されちゃたまらないし、預かっている合鍵で上がらせてもらうことにしよう。

「お邪魔しまーす」

かちゃん、となるべく静かにドアを開けて中に入る。日本にいたときはお互い預けた鍵で結構頻繁に行き来していたし今更なんだけど、久しぶりだからかすごく緊張した。
ぱちん、玄関を入ってすぐそばのスイッチを押し、電気をつける。短い廊下のくせに、もう下駄箱に入りきらないスニーカー類が並べられていたりして随分せせこましい。

「…佐一くんのにおいだ…」

いや、だめだ、これはかなり変態っぽかったな。
誰に聞かれたわけでもないのにひとりでそう突っ込みを入れながら廊下を進み、ワンルームの隅へ自分の荷物を置かせてもらう。
ケーキやオードブルなどの食べ物は必要に応じて冷蔵庫に入れて、シンクの中に放ったらかしになっていたコップと皿を洗った。こういうちょっと雑な生活感があるところってなんか安心するなぁ。

「さて、と」

多少雑然としていると言っても、本人不在の状況で色々勝手に触るわけにもいかない。仕方がないからベッドに背を預けるようにカーペットの上に座ってすいすいとスマホをいじる。
実家の母から「いつ帰ってくるんだっけ?」のメッセージ、留学先のホストファミリーのママから「無事日本についたかしら?」というメッセージ。たぷたぷそれぞれに返信をする。佐一くんからの連絡は特にない。当たり前だ。だって私今日帰ってくるって言ってないし。

「佐一くん…仕事かな…」

ぽすん、と頭をベッドに押し付ける。佐一くんの匂いがもっと濃く感じて、安心するような寂しいような、何とも言えない気持ちになった。
だめだ、勝手に早めに帰ってきたくせに、会いたくてしょうがない。
しんとした部屋でぼうっとしていると、じわじわじわと眠気がやってきた。時差ボケの元だから気を付けたいのに、瞼は容赦なく下がってくる。ちょっとだけ、10分、いや15分くらいならうたた寝しても平気かな。


ーーああ、寒い。もう昨日から3月になったというのにまだ雪が積もってる。
はぁ、と息を吐くと、視界が真っ白に染まった。春の山はまだ雪解けには遠く、これが日本の南側だとまったくこの時期に雪は残っていないのだと知ったときは大層びっくりしたものだ。
樺太から戻ってきたはいいけれど、またいちから刺青人皮を見つけなければいけない。大変だな、と思う反面、また杉元さんやアシリパちゃん、白石さんと一緒に旅が出来るのは単純に嬉しい気持ちもあった。

「ナマエさん、大丈夫?」
「杉元さん。すみません、ちょっとぼうっとしていて」
「もうすぐ春になるっていうのにまだ朝晩は冷えるね」

杉元さんが後ろから声をかける。私は日も昇らないうちに野営場所から抜け出し、遠くまでを良く見渡せる山の開けた場所に来ていた。夜明け前はまだほんのりと紫で、じりじりと地平線が橙色に変わっていく。
何年か前に小樽で異国の商人の道案内をしたときも、こんなふうに朝焼けを見たことがあった。あのときはどんな話をしたんだったか。

「そういえば、昔イギリスの商人さんから聞いたんですけど、異国では生まれた日をお祝いする風習があるそうですよ」
「へぇ、日本とは違うんだ」
「はい。不思議ですよねぇ。バースデーって言うそうです」

そうだ、あの時はその異人さんが「今日は私のバースデーなんです」と言っていて、私は「バースデー?」と聞き返したんだ。そしたらバースデーというのは生まれた日のことだと教えてもらって、初めて触れる生まれた日を祝うという考えに随分と驚いた覚えがある。

「じゃあ俺は昨日がバースデーだな」
「えっ、そうだったんですか?」
「うん。サイチだから3月1日ってね。あ、逆か」

ははっと杉元さんが笑う。私たちにはお誕生日の当日をお祝いする風習はないけれど、こんな話をしていたものだからお祝いしていないことが途端に申し訳ない気持ちになってきた。

「すみません、そうとは知らず何も用意してなくって…」
「はは、知らなかったんだし、そもそも俺たちに生まれた日を祝う習慣なんてないんだから当たり前だよ」

そりゃあ、そうなんだけど。
私があからさまに納得のいかないといった顔をしていたら、杉元さんが隣に立って同じように地平線を眺めた。太陽が少しだけ顔を出して、そうするとあたりはたちどころに朝に変わっていく。

「じゃあナマエさん、来年も俺の誕生日は一緒にいてくれないかい」
「えっ」
「いやその…ナマエさんの迷惑じゃなければ…なんだけど…」

迷惑だなんてそんなことあるもんか。私は思わず杉元さんの手を掴み、寒さで赤くなっている彼の顔をじっと見つめる。少し驚いていたけれど、すぐに目元を緩めて手を握り返してくれた。

「来年こそは、ちゃんとお祝いさせてくださいね」

私がそう言えば、杉元さんが今度は気の抜けた顔で笑う。来年、再来年、自分たちはどこで何をしているか見当もつかない。それでもきっと、私は3月1日だけは、何としてでも杉元さんに会いに行くのだろうと思う。


ーーなんだか妙な夢を見た。全部が全部リアルで、まるで自分が体験したことのようだ。そんなことあるはずがないのに。
だって私は北海道になって行ったことがないし、山でキャンプだってしたことがない。でも一緒に朝焼けを見た男のひとの顔は、見覚えがある気がした。一体誰だろう。
夢と現実の狭間で身体がふわふわ運ばれていく。

「ん、んんっ…さいち、くん…」
「なんだい、ナマエちゃん」

背中に柔らかな感触が広がり、ゆっくりと沈み込んだ。身体の前面に感じていたぬくもりが遠ざかる気配がして、私は思わず手を伸ばす。すると、一度離れかけたぬくもりがまた戻ってきて私のことを包み込んだ。まるで抱きしめられているみたい。

「さいち、くん」
「なぁに」

すごい、佐一くんが返事をしてくれる。ふふ、嬉しい。
ぼんやりとした意識の中で少しずつ視界がクリアになっていく。天井は真っ白で、ホームステイ先の部屋は花柄だったのになぁ。それに身体が重い。毛布の重さとかそんなの比にならないくらい。一体なに、が…。

「さ、佐一くん!?」
「おはよ、ナマエちゃん」
「おはよう…」

私の上に乗っかって、もとい私を抱きしめていたのは佐一くんだった。そうだ、私日本に帰ってきて佐一くんの部屋に来たんだ。
やっと意識がはっきりして、私は自分の状況を整理した。佐一くんが「起きれる?」と言いながら身体を引き起こしてくれる。

「びっくりしたよ、帰ったらナマエちゃんがいたからさ」
「ご、ごめん…私寝落ちちゃってた…」
「寝顔可愛かったよ?」
「もう…恥ずかしいこと言わないで」

佐一くんは結構こうやって恥ずかしいことを臆面もなくいう節がある。そういうところも好きだけど、未だにちょっと、かなり、照れるところはある。
変わんないなぁ。そりゃ八ヶ月、つまり約240日くらいしか経ってないけど、離れてる間はいくらメッセージを交わしたって通話をしたって不安だった。目の前に変わらない佐一くんがいてくれることが何より嬉しい。八ヶ月…八ヶ月?

「あっ!そうじゃなくて!」

私は本来の目的をやっと思い出し、慌てて時計を確認する。時計はちょうどてっぺんを回ってしまったところで、思わずその場にべちゃりと項垂れた。
せっかくお祝いしようと帰国を早めたのに、私が眠ってたせいで台無しだ。

「…お誕生日…おめでとうございまし、た…」
「ありがと…って、ふふ、なんでそんなに不満そうな顔してるの?」
「だって…ちゃんと当日にお祝いしようと思って帰国したのに寝ちゃってたとかマヌケすぎて…」

ぼんやりして再会の感動を噛みしめてる場合じゃなかった。項垂れたまま佐一くんを見上げると、キラキラした顔をニコニコ笑わせている。うっ、眩しい。好き。
こういう笑顔を見ていると、本当はもっともっと笑わせるつもりだったのにと欲が湧いてきた。今更言っても仕方がないと思いつつも「ごめん、サプライズのつもりで待ってたのに」といえば、佐一くんは予想通りに「いや、俺こそ家にいなくてごめんね」と返す。

「今日、仕事だったの?」
「ううん。白石たちが誕生日パーティーしてくれてさ。ナマエちゃんいないからどうせ祝ってくれる人いないだろって」
「そっか、先越されちゃったなぁ」

白石くんということは、アシリパちゃんやキロランケさんもいたのかも。当日ちゃんと祝えなかったけど、佐一くんが誕生日に寂しい思いをしてなくて良かった。

「ナマエちゃんが帰ってくるって思ってなかったから、俺いまスゲー嬉しい」

佐一くんがそう言って、気の抜けた顔で笑ったあとに私のことを抱きしめる。悔しいとか寂しいとかもうどうでもよくって、私は佐一くんの背中に手を回してぎゅっと抱きしめられる強さに応える。

「佐一くん、来年のお誕生日こそ一緒にお祝いしようね」

オードブルやケーキなんかのご馳走は明日食べることにしよう。味は少し落ちちゃうと思うけど、佐一くんと食べたらきっと高級レストランより美味しくなっちゃうの。
気の抜けた顔で笑う佐一くんを見ていたら、夢で見た男のひとはこんな顔だったかもしれない、と、調子のいい考えが浮かんできたのだった。


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