幻肢痛


人間の体というものは心と密接な関係を持っていて、知らず知らずのうちに影響しあって均衡を保っているんだど、私は本当の意味では知らなかったのだろうとつくづく思う。
両耳と、右手と、右足と、そして何より生まれてずっとそばにいた半身のような兄弟。彼は立て続けにそれらを失い、そしてその度に均衡を崩していった。

「浩平さん、お加減いかがですか?」
「ナマエちゃん?」

私は元々小樽の軍病院で働いていた。それが負傷した兵士ーー二階堂浩平さんの看護のために鶴見中尉殿のご指示で網走までついてくるようにと連れ出された。
私は小樽の軍病院でも浩平さんの看護を担当していたから、それでお声がかかったんだと思う。

「ご飯は食べられましたか?」
「要らない」
「でも、食べないと体力が戻りませんよ」

27聯隊の、鶴見中尉殿が何をお考えなのかは私には知る由もないが、先日網走監獄で大騒動があり、その治療で何人もが近郊の病院に運び込まれた。
私も看護の心得のある者としてそこに参加し、今はこうして浩平さんの看護に手を尽くしているというわけである。

「だって箸持てない!」
「フォーク持ってきましたよ、どうですか?」

浩平さんはそういう私をじっと見た。何か言いたげで、けれど何も言い返す言葉が見つからないような様子だ。
私は浩平さんの横たわる寝台のそばに寄り、フォークを持ち手から差し出した。

「ナマエちゃん手伝って」
「はい、もちろんです」

浩平さんはもぞもぞと身じろぎをしながら布団の上にあぐらをかき、私は隣に置いてある椅子に腰掛けた。左手でフォークを持った浩平さんがお盆に乗った食事と睨めっこをする。
ジャガイモの煮付けにフォークを突き立て、あぐっと口に運ぼうとする。それが上手くいかないようで、二、三度あぐあぐと口を動かした。

「浩平さん、お皿に一旦戻して小さく切りましょうか」
「うん」

私がそう声をかけると浩平さんはお皿にじゃがいもを戻し、私がフォークを借りて四等分に切り分ける。これで幾分か食べやすくなっただろう。
フォークを浩平さんに返そうとすると、浩平さんがイヤイヤと首を振った。

「ナマエちゃん食べさせて!」
「もう、練習しなきゃずっと左手でご飯食べられないままですよ?」
「いい!ナマエちゃんがずっと食べさせて!」

そうは言っても自分で食べられるようになってもらわなければ先々困るだろうことは明白で、だけどそれをいっぺんに強要するほど私は鬼にはなれなかった。
同情よりも傲慢な感情で、私は浩平さんのことを邪に想っていたからだ。

「じゃあひとかけだけ自分で食べてください。そうしたら残りは私が食べさせてあげますから」
「ほんとに?」

私の提案に、浩平さんはフォークを持つと小さくなったじゃがいもを慎重に突き刺し、自分の口に持っていく。薄い唇をパッと開いて放り込み、私に向かって「ほら見て」と言わんばかりに咀嚼をした。

「その意気です、明日はもうちょっと頑張りましょうね」

私は約束通り浩平さんからフォークを受け取って、残りのじゃがいもや漬物、麦ご飯を彼の口にせっせと運んだ。昨日はこう説得しても「ナマエちゃんが食べさせて」の一点張りだったから、今日は少し前に進んだ。

「はい、浩平さんお口開けてください」
「あーん」

浩平さんには元気になってほしい。だけど元気になってほしくない。
きっと彼は回復して仕舞えば、また復讐の鬼になってしまう。そんなことになるくらいならいっそこのまま、と、私はひどいことを考えていた。


浩平さんに初めて会ったのは、小樽の兵営でのことだった。その日は先生について鶴見中尉殿の往診に向かって、先生がお茶を呼ばれる間、表で待っているようにと言いいつけられたのだ。
先生と鶴見中尉殿の秘密のお話は珍しいことでもないので、今日は長引くんだろうか、と私は暇潰しの方法をあれこれと頭の中で算段する。

「あれ、こんなところに女の子がいるよ、洋平」
「本当だ。なんでこんなところに女の子がいるんだろうね、浩平」

突然背後からおんなじ声がふたつ聞こえて、私はびくりと飛び上がった。
ぎこちない動きで声の方向を見ると、これまた同じ顔がじっとこちらを見つめている。

「あ、あの…こんにちは…えっと、小樽の軍病院の看護婦をしています、ミョウジといいます…」

私はぺこりと頭を下げ、自分が不審者ではないと弁明する。私の言葉を聞いて二人は「軍病院?」「看護婦?」と顔を見合わせながらひそひそと言う。

「ここで何してるの?」
「先生が鶴見中尉殿にご用事とのことでここで待っているんです」

正直に私がそう答えると、二人はこちらを同時にじっと見つめた。本当に顔がそっくりな双子だ。
二人は少し時間があったのか、そのまま私と一緒に先生を待ってくれるようだった。双子の兵隊さんはそれぞれ浩平、洋平と名乗り、そのうちの浩平さんが懐から何かを取り出した。

「みかん食べる?」
「え?」

差し出されたのはみかんで、北海道で珍しい、と思っていたら静岡の実家から送ってもらったのだと言っていた。私は「ありがとうございます」とお礼を言ってから、久しぶりに食べるみかんに胸を躍らせて、皮を剥いてひとふさをパクッと口に入れた。

「甘い…」
「そうだろ?俺たちんとこのみかんはめちゃくちゃ美味いんだぜ、なぁ洋平」
「ああ、浩平」

二人の息はぴったりでまるで一人の人間のようにさえ見えた。私がもうひとふさを口に放り込むとき、今度は洋平さんがみかんを懐から取り出して皮のままぱっくりと二つに割る。そして片方を浩平さんに渡した。
私はそれを見て私がもらったこれが二つっきりのみかんのうちの一つだと悟った。

「あっ、ごめんなさい。これ、私がひとつ頂いちゃったから…」
「別にいいよ。俺は洋平と半分こするから」

浩平さんも洋平さんも気にした風はないけれど、私はきっと二人の楽しみだっただろうみかんを取ってしまったような形になって申し訳なくなった。
でも食べてしまったものは仕方がないし、みかんを元に戻すことはできない。

「…じゃあ、今度お礼にお団子買ってきます」
「ほんと?」

浩平さんが嬉しそうにそう声をあげて、へらっとを緩めた。「団子楽しみだな、洋平」と洋平さんにも言って、洋平さんもそれに応えた。
くりくりとした目が印象的なその顔と、嬉しそうに笑う顔が胸にきゅんっと痛みを走らせた。
その日から、私は何かと理由をつけて27聯隊の兵営にお邪魔するようになった。そのうちに兵隊さんとも顔見知りにどんどんなっていって、いつの間にか鶴見中尉殿にも看護のご指名を受けるくらいの仲になっていた。


ざぶざぶと手拭いを水に浸す。血の汚れは擦るより石鹸で浮かせて取る方がよく取れる。

「あ、ミョウジさん」

昼間、治療に使った手拭いを洗って干そうとしていると宇佐美さんが顔を出した。私は洗濯の手を止めて「こんにちは」と挨拶をする。
月島さんが別の任務を言いつけられてここを離れてしまってからは宇佐美さんがよく浩平さんの面倒を見てくれていた。

「二階堂の様子どう?」
「昨日は少しだけ自分でご飯食べてくれましたよ」
「はー、甘ったれてんなぁ」

そう厳しいことを言いつつもこれは彼なりの優しさだと私は思っていて、返すような言葉もないから曖昧に笑った。
宇佐美さんが「それ後干すだけ?」と聞いてきたので、私がそれを肯定すると私の手から取り去って物干し竿にパンパンと皺を伸ばしながら干していく。

「わ、悪いですよこんな…」
「別にこんなの兵営じゃ毎日やってるし」

宇佐美さんはそれから私と並んで洗い上がった手拭いを干してくれて、全て干し終わる頃には手拭が魚の群れのようにパタパタとはためいた。

「多分、もうすぐ僕と二階堂で登別に行くことになるから」
「登別ですか?二階堂さんの湯治に?」
「まぁそんなとこ」

登別といえば北海道で一番の温泉地であり、陸軍の保養所にもなっている。あそこの温泉はよく効くというし、少しでも浩平さんの傷が良くなればいい。
浩平さん、大丈夫かな。今も自分でご飯食べられないくらいなのに、ここを離れれば私もお世話をできなくなってしまう。でも結局いずれは自分で出来るようにならなければ困ることで、ひとつのいい機会で。とそこまでぐるぐる考えていたら、宇佐美さんが口を開いた。

「君も行くでしょ?」
「えっ…」
「僕一人で二階堂のお守りなんて御免だよ」

宇佐美さんがそう言っているということは、きっと鶴見中尉殿からのお許しが出ているか、お願いすれば出るということなのだろう。
それは願ってもない話で、許されるのなら私も登別に行きたいと宇佐美さんにこくこく何度も首を縦に振った。

「日程決まったらまた連絡する。鶴見中尉殿と病院には僕が話しておくから」

よかった、まだ浩平さんのそばにいられる。
宇佐美さんは「君も物好きだよね」と私のことを笑った。


この病院にお世話になる間は私は病院で住み込みをさせてもらっていて、夜の巡回当番も率先して行っていた。
網走監獄で負傷した兵士は浩平さんだけではない。浩平さんには黙っているように鶴見中尉殿から言いつけられているけれど、ここには先日まで彼の仇である杉元さんも入院していた。

「…よし、東側は問題なしだね」

暗い病院の中をオイルランプを持って進む。ぎいぎいと床が鳴る。
浩平さんの病室に差し掛かった時、中から「ううう」とうめき声が聞こえてきた。私は慌てて扉を開け、浩平さんの寝台に駆け寄る。

「浩平さん…!」
「うう…ううぅ…」

そっとオイルランプの灯りで浩平さんを照らすと、眉間に皺を寄せて酷く苦しそうな顔をしていた。私は机の上にランプを置いて、浩平さんの手首から脈拍を確認した。

「浩平さん、どうかしましたか、どこか痛いですか?」

私がそう尋ねると、浩平さんは苦しそうに首を振る。見たところ傷口から出血をしているわけでもなくて、外傷でないなら何か別の病かと額に手を当てる。少し温かいように思えたけれども、熱があるというほどでもなかった。

「浩平さん」
「わかんないッ!右手が痛いッ!」

もう一度名前を呼ぶと、唸るようにそう言った。
彼にはもう右手はない。それでも痛いと感じるのは、そこにあった頃のことを脳が記憶していて、いつまで経っても右手がそこにあり続けると勘違いをし続けるのだという。恐ろしい話だ。

「大丈夫、大丈夫ですよ、すぐに痛くなくなりますから」

私は必死にそう声をかけ、布団の中に蹲る浩平さんの背中をさすった。私には何にもできない。私は彼の失ったものの代わりには決してなれない。

「ナマエちゃんはいなくならない?」

懇願はまるで親を探す子供のように聞こえた。
このひとは一体どれだけ失っていくんだろう。耳と、足と、手と、かけがえのない半身と。
私は浩平さんがいつも話しかけるヘッドギアーの耳にそっと触れて、揺れる浩平さんの瞳をじっと見つめる。

「はい。私も洋平さんも、ずっと浩平さんのそばにいますよ」

いつかあなたが洋平さんにもう一度会えるまで、私はきっと、あなたを支え続ける。失ったものの代わりにはなれないけれど、私はあなたの足になって、手になって、寄りかかれる人間になれたらいいと思う。

「幻じゃない?」
「はい、ここにいます」

幻なんかじゃない。私がここにいるのも、あなたがここで生きているのも。
オイルランプの炎が薄明るく私たちを照らした。私にも浩平さんにも、ちゃんと影があった。


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