13 1階C列列21番
呪力の爆発を感じたのは、オルガン坂付近にあるアパレルショップからもっと北に進んだ地点だった。デートだと浮かれてパンプスで来たせいで随分と走りづらい。冥さんはヒールのブーツで戦っているけど、あれは戦いづらくはないんだろうか。
「ミョウジさん!見えました!」
「オッケー、あのビルだね」
見えてきたのは何の変哲もない空きビルで、廃れた小道の隅に建っていた。見るからにおんぼろで、かつて入っていただろう飲食店などのテナントの看板は軒並み割れてしまっている。周囲を確認したが、未だ通行人の目には触れていないようだ。
「伏黒くん、高専に連絡して。私が帳を下ろす」
「わかりました」
伏黒くんがスマホを操作して高専に連絡を入れる。事前調査の有無は把握出来ないけれど、渋谷の街中でこれ以上の呪力の爆発が起こったら被害の数は計り知れない。少なくとも現場に入って帳を下ろし、呪力の飛散を防がなければ。
「闇より出でて闇より黒くその穢れを禊ぎ祓え」
人差し指と中指を立てる。私の言葉でズズズと頭上から帳が下りてゆく。私は廃ビルの中に踏み入った。
気配は地下。どうやらこのビルにはバーかライブハウスかそういうものがあったらしく、一階から地下に続く階段が伸びていた。壁にはもう何と書いてあるのかも分からないチラシの類が貼られっぱなしになっている。
私は呪力を練りながら足を進めた。厄介なのは、帳に割いている呪力の意識もしなければいけないということ。これが破られると表の道に被害が拡大することは必至だ。それだけは避けたい。
「さぁて…渋谷のど真ん中で一体何の呪いかな…」
階段を下っていくと、呪力がぐっと濃く立ち込めた。一体何が隠れているのか。ひたりひたりと寄れば、地面が波打って揺れる。呪力の濃い部分は天井に近いけど、作用するのが下なのか。それとも天井がフェイクで下が本命なのか。呪力量から推測するに二級、もしくはそれよりちょっと強いくらいだろう。用心してかかれば問題ない。
一歩、また一歩と近づく。気配が散漫だ。どこから攻撃が来るかわからない。
ざり、と割れたグラスなどが散乱する床の上を踏み、背後の階段から伏黒くんの声が聞こえて振り返る。
「ミョウジさん、その呪霊…」
「伏黒く…」
「ミョウジさんっ!」
天井付近からザっと呪力が降ってくる。結界だ。帳よりも黒く濃く、私と伏黒くんの間を隔てていく。やらかした。まさかこんな面倒な手を打ってくる呪霊とは思わなかった。未だ実体の見えない呪霊をジッと睨みつける。もうひとつ厄介なのは、この結界の特徴だろう。完全に音も視界もシャットアウトしている。伏黒くんの姿はおろか、声さえも聞こえなくなってしまった。
「…じゃあ、ここからは単独行動ってことかな」
私は気合を入れ直し、伏黒くんがいるだろう階段側に背をむけた。くすくすくす、笑い声に似た音が聞える。これは呪いの声なのか、それとも別の音なのか。
呪いがこのまま攻撃してくる様子はないし、ここは先手を取って一発入れておくか、と、私は右手を握って呪力を込めた。
「よっ…!」
体重と呪力を込めた拳は床にめり込み、しかし床が衝撃に合わせてゴムのように弛んだため威力は打ち消されてしまう。まずい、これは私相性悪そうだな。
もう二度、三度打ち込み、それらは威力の強弱に関わらず弛みに吸収されてしまった。
「まーじか」
こういうタイプのやつに昔遭遇したことがある。あれも確かどこかの歓楽街のビルだった気がする。
あの時も私の術式と相性が悪すぎて命からがら辛うじて祓うことができた。環境条件に左右される私の術式は結構使いどころが面倒くさい。
今度は拳に込めた呪力を雷に変換して、そのままバチンと打ち込んだ。今度は弛まなかったがその代わりに雷はひとつのダメージも与えることなく吸収されていく。
「あーやっぱりかぁ」
これは呪霊の性質にゴムに近いものがある。物理的な物ではないのであくまで呪力によって生成された物ではあるが、いずれにしても私の雷とは相性が悪い。ゴムは電気を通さない。
前は同じようなパターンで連打すればある程度ダメージを与えることができたしな、と雷をまとわせた拳でラッシュをかけてみたものの、残念ながら少しの反応もない。
かくなる上は先にこの結界を破って伏黒くんに応援を頼むか、それとも術式なしのガチンコバトルを挑むか。
選択は前者だ。外の帳を守りながら分の悪い戦いを挑むくらいなら正直に頼れる先は頼ったほうが賢明である。
そう判断して踵を返そうとして、奥から子供のすすり泣く声が聞えてきた。
「うっ、うっ…うっ…」
「だ、誰かいるの…?」
呼びかけた声に嗚咽だけが返ってくる。罠か、それとも本当に取り残された一般人か。どちらかわからないが、どちらか確かめなければ引くことは出来ない。
私はつま先を奥へ向け、慎重な足取りで進んだ。暗くて良く見えない。床は歩くたび波打ち、踏ん張るのも難しい。
慎重に奥へ進むと、足の折れた椅子のそばに子供がうずくまっていた。
「大丈夫!?怪我はない!?」
そう言ってそばまで寄ると、不自然な動きでぎぎぎぎと子供が顔を上げる。まずい、と思ったときにはもう遅くて、にゅるりと伸びた腕が凡そ子供ではない力で私の足を掴んだ。
多分死体を使ってる。そう直感した。死体が腐敗してない理由をここで図ることは出来ないが、落ち窪んだ目と痩せこけた頬に生気は感じられず、しかし呪いの一部というには纏う呪力が弱すぎる。
引き千切る勢いで腕を足を動かしても、恐らく呪霊に強化されているためそれも叶わない。
「…くそ」
背後で呪霊の気配が濃くなった。どうやら作用するのが床とかそういう問題ではなく、この空間そのものが呪霊の腹の中のような物だったらしい。腕のような触手のようなものが私の頭に向かって天井から振り降ろされ、足をつかまれているせいでろくに避けることも出来ずに肩へ諸に食らった。鈍い痛みが走り、それから攻撃は続けざまに二度三度と加えられる。
「ぃ…ッ!!」
そのうちの一発が耳に向かって叩きつけられた。鼓膜が破れそうなほどの衝撃に声が漏れる。
ーーこうなると、正直結構詰みだ。呪霊の強さは一級に少し足りないくらいだろうが、私の術式との相性の悪さを考えれば圧倒的にこちらが不利。反撃が出来ない。
多分呪力で斬るような系統の攻撃が効くだろうとは思うけど、生憎私は獲物を持って戦闘するタイプではない。そして術式も全く通用しないときた。
残る最も有効な手立ては、この結界を破って伏黒くんの玉犬に頼ること。外から結界を破るには相当の呪力で押す必要があるし、だったら私が中から破ったほうがまだ早い。
私は首だけで振り向き呪霊を視認すると、パンパンと二回柏手を打つように手を叩いた。
「これでリーチだよ。お前の内側から呪力爆発させてやる」
もう一度手を叩こうとしたところで、ゴゴゴゴゴ、と水の押し流されるような音が聞えてきた。一体どこでと耳を澄ませるまでもなく、結界の外側から内側に向かって大きな圧力がかかったのが分かる。
力はミシミシと結界を圧迫し、やがていくつもの亀裂を生じさせてバキンと大きな音を立てて崩れさせた。
「ミョウジさん…!」
伏黒くんの声が聞える。私の足を掴んでいた子供の死体はもろとも水の勢いで押され、解放された足で階段に向かって走った。声はするのに伏黒くんの姿はなく、代わりにそこにいたのは大きな象のようなもので、これは恐らく伏黒くんの式神だろうと予想された。
「生きてますか!」
「なんとか!」
驚いた。伏黒くん、あの結界を外からの呪力で押し壊したんだ。この狭い通路を利用して急流を生み出し、より圧力をかけたんだろう。
自分に合った戦術を心得ている。私よりよっぽど強いんじゃないか。
象の式神を影に溶かすと、伏黒くんの姿がようやく見える。結界をまた張られてしまう前にこの空間を抜け出さなければと急ぐ。
あと二歩で伏黒くんのところに辿り着ける、という距離だった。
「ーーッ!」
背後から先ほどまでより強い呪力が襲い掛かる。窮鼠猫を噛むという言葉があるが、何もそれはこの世のものに限ったことではない。追い詰められた呪いが最後の最後に等級以上の能力を発揮するなんてことはそう珍しいことじゃなかった。
呪霊の触手のような物が伸びる。伏黒くんの目が見開かれたのがスローモーションで見える。私はパン、と最後の手を打ち、自分の身体に術式を施した。
「ミョウジさん…!?」
バチバチバチ、全身に雷を纏わせたままその触手に飛びつき、帯電した呪霊は怯んだように動きを止めた。
「っアァ…く…ぅ…ふ、しぐろくん…ぎょく、けん…!」
痛い。熱い。自分の身体が自分の物ではないみたいだ。奥歯を噛みしめても痛みと熱をやり過ごすことはできない。痙攣したように体中の筋肉は言うことを聞かず、飛びついた姿勢のまま硬直する。
伏黒くんが玉犬を呼び出す声がして、その数瞬後にはドッと渾が飛びつき、呪霊の触手を食い千切ると、そのままの勢いで本体だろう奥へと駆ける。唸るような鳴き声のあとに呪霊の気配が弱まり、霧散していくのを感じた。
「ミョウジさん!」
痛い、熱い、苦しい。術式を解いて、私はそのまま地面に突っ伏した。
脳みそまで焼けそう。ぐらぐらする。駆け寄ってきた伏黒くんに抱き起こされびりびりと痺れたままの自分の指先を見下ろした。稲妻のような葉脈のような痣が浮き出ている。
「ふ、しぐろく…あり、がと…」
なんとか声にして、手を伸ばそうとすればその手を伏黒くんが先に捕まえた。
触れられるだけでずきずきと痛みが走ったけど、それでも握ってくれてることが嬉しくて出来得る限りの力で握り返す。
「ミョウジさん!しっかりしてください!もうすぐ補助監督の車が来ます!」
連絡してくれたとき補助監督の手配までしてくれたんだ。いや、本当に優秀だなぁ。
伏黒くん、これからどんどん強くなる。術式や血筋だけでなく、一緒に戦って、それをひしひしと感じた。
「ふし、ぐろくん…好きだよ」
ひりひりとする顔の筋肉を無理やりに動かす。
泣かないで、大丈夫。君は、強い。
ぼうっとする意識はまるで水の中を漂ってるみたいな気分だった。といっても、特別水が好きなわけでもない私は、嬉しくも何ともなかった。まぁ術式の効果が上がるって意味では好きだけど。
そんなしょうもないことを考えていたら、向こう側から声が聞えてきた。水の中なのに川がある。その川の向こうに誰かが立っていて、私は泳いでいるとも歩いているともつかない動作で近づいていく。
「ミョウジ」
人影は私を呼んで、私はじっと目を凝らす。そこにいたのは死んだはずの同期だった。
私は近づこうと川に向かって足を踏み出し、同期は「来るな」と鋭い声で遮る。
「なんで?」
「なんでって、お前ここがどこかわかってるだろ」
それは、もちろんわかってる。ここはあの世だ。まさかこんな風になっているとは思わなかったが、死んだはずの同期が川の向こうにいるのならそういうことなのだろう。
「あそこで切り札使う必要あったか?」
「だって使わなきゃ伏黒くん怪我してたよ」
「そりゃそうかもしれないけど、使ったからお前はこんなことになってんだ。他の手だってあったんじゃねぇの」
「うそ。死んでまでお説教されるの?」
私が緊張感もなく笑うと、同期は大きな溜息をついた。
当然だけどあいつは17歳の姿のままで、私だけが大人になってしまっている。この川を越えたら、私も17歳に戻れるんだろうか。戻りたいのかそうでないのかは、自分でも分からないけれど。
「もう、私の番なんでしょ?」
「まだだ」
同期がストップとでもいうかのように私へむけて手のひらを見せる。ここまで来て今更まだってどういうことだ。同期はそのまま人差し指で私の遥か後ろを指した。
「お前はまだ、こっちに来ちゃダメだろ」
そう言われ、え、と思っていると、ぐっと後ろから引力を感じた。踏ん張る足場もないからずるずると引きずられて、どんどん同期の姿が遠くなっていく。抗えない力は強まって、やがて後ろから光を感じた。
温かくて柔らかくて、お日様みたいな光。
「ミョウジさん」
緩慢な動作でまばたきをする。伏黒くんが泣きそうな声で私の名前を呼んでいた。
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