07 あたしんち

ナマエの家は母子家庭だった。
父親の顔は見たことがない。母から聞いた話によると、その昔母が働いていた高級クラブの太客だったらしい。妙な男で、嘘か本当かわからないが除霊を生業としていたのだという。
羽振りはよく、高級クラブに週に何度も通った。当時キャバクラを上がって入店したばかりの母のことを大層可愛がり、次第に外で会う事が増え、恋愛関係に発展したらしい。
それがある日ぱたりと消息が途絶え、母には幾許かの金と腹の中の子供だけが遺された。金は男の知り合いだという黒づくめの男が「あなたに渡してほしいと頼まれていた」と言って通帳ごと手渡され、それを受け取って母は愛する人の死を悟った。

「だいたいね、カタギじゃない気はしてたのよ」
「ヤクザ?」
「ヤクザだったらまだ得体が知れるわ。もっとこう…裏の世界の…私たちが会っちゃいけないような人だったと思う」

酔うと母はいつもその話をした。幼いナマエには到底全容を理解することなど出来ず、わからないままに相槌を打った。

「ナマエが高校行けたのも、あのひとのお金なのよ」

これは母の口癖だった。実際、母子家庭でそこそこの貧乏な暮らしはしていても学費には困らなかったし、電気やガスなどのライフラインが止まることもなかった。愛し合った人間は結婚するものだとおとぎ話で読んだことがある。それなりの金を遺してくれたのなら、どうして父と母は結婚しなかったんだろう。

「お母さん、なんでお父さんとお母さんは結婚しなかったの?」
「それはね、住む世界が違ったからよ」
「外国のひとだった?」
「ふふ、日本人。だけど外国なんかよりもっともっと遠い世界で生きていたひとだったと思うわ」

外国よりももっともっと遠い場所というのはどんなところなんだろうか。ナマエには見当もつかなかった。
そのうち、母は別の男と交際を始めた。その男はナマエのことを酷く鬱陶しがり、事あるごとに暴力を振るった。結局その男は別の女を作って出ていき、安心したのも束の間、次の男も似たような暴力男だった。どうやらこの血筋には男運というものがつくづくないらしいと、高校生の頃にはよくわかるようになった。自分も似たような男と付き合うようになったからだ。
幸いにも今の相手はそこそこマトモなようだ。稼ぎは少ないが裏社会との繋がりのないカタギで暴力も振るわない。ただ相手の持ち家で一緒に暮らしてほしいと言われており、しばらくでナマエの母はこのアパートを出ていくことになっていた。

「あら、ナマエおかえりなさい」
「ただいま。お母さんは今出るとこ?」
「うん、あと30分くらいでね」

ナマエの母は美しかった。元の顔が目鼻立ちのはっきりした美人ということもあったし、化粧が巧いということもあった。
妙な男と交際をするたびに憎くも思えたが、今となってはただそこそこに人並みの幸せを手に入れてほしいと思う。

「いつだっけ、ここ引き払うの」
「来月よ。ナマエ大丈夫なの?ナマエの家賃くらいならなんとか援助できるわよ?」
「平気だよ。私ももう子供じゃないんだし」

母がこのアパートを出るとき、ここを引き払うという話になっている。行く当てはまだ決めていないが、ここまでじぶんを育ててくれた母にこれ以上世話になりたくないというのが本音で、ダブルワークをして金を貯めている理由だった。

「あんたもいいひと見つけなさいよ」
「あはは、そうだね」
「ケイくんは?あの子爽やかで可愛らしいわよねぇ」

そのセリフに、ぞくっと寒気がした。二年交際して足繁く自宅に通っているのだから、母にも当然のようにケイの存在は知れていた。しかしとてもじゃないが実情を話すことは出来なくて、母の中でケイは「明るく爽やかでいい子」のままなのだ。


恋人の家に行くという母を見送り、ナマエはケイの家へ向かった。定期的に家事をしに行かないと烈火のごとく怒り狂うのだ。
始めは「甘えたの仕方ないひと」だと思って尽くしてきたが、そんな化けの皮がはがれてからは当然のようにナマエを家政婦扱いしている。
小綺麗なマンションの一室を合鍵で開け、フローリングの床を進む。仕事の忙しさでここに来ることが出来ていなかったから、いつもより散乱しているゴミが多い。それを拾いながらワンルームに続くドアを開ければ、部屋の中でケイがビールを飲んでいた。

「…お前、今までどこ行ってたんだよ」
「ど、どこって…お店から家に帰ってそれから来たんだけど…」
「ちげぇよ、なんでこのところ来なかったんだっつってんの」
「そ、それは仕事が忙しくて…」

正直にそう言えば、ケイは飲んでいたビールの缶を勢いよくナマエに投げつけた。中身が少し残っていて、ビールがナマエの胸のあたりをべちゃりと濡らす。

「お前さぁ、俺に隠してることあんだろ」
「え…か、隠してることなんてない…けど…」
「じゃあスマホ出せ」

横暴な態度でケイは手のひらをナマエに向かって差し出す。ナマエは自分のスマホをおずおずと乗せた。本当に隠していることなんてない。この男に隠しごとが見つかった時のことを思うと恐ろしくて出来なかった。
だからケイの暴力だって誰にも言ったことがないし、どうせ今更仕方のないことだと諦めていた。
ケイは黙々とナマエのスマホをチェックして、メッセージアプリやメールボックス、アドレス帳に通話履歴、果ては写真のフォルダまでをくまなく確認していく。それがひと通り終わると、ケイは「仕事用の」と言ってキャバクラの営業で使っているスマホを差し出すように言った。

「早くしろ」
「う、うん…」

脳裏に過ぎったのは伊地知とのやり取りだった。
浮気をしているわけではないが、やり取りが他の客と比べて特殊なのは確かだ。動揺を悟られないように慎重に仕事用のスマホを手渡した。
ケイは私用スマホと同様にくまなくチェックをしていく。仕事用なのだから、無数の男性客とのやり取りがあるのは不自然ではない。その中の伊地知とのやり取りだけに着目されてしまわないようにナマエは固唾を飲んだ。

「…お前さ、この伊地知って何?」
「な、なにって…お客さんだよ…」
「客に本名教えんの?お前」
「そ…それは…」

ケイという男はこういう男だ。目ざとく見つけていたぶって、ごめんなさいとナマエが泣くのを待っている。
ごめんなさいという言葉はこの男のせいで随分と価値のないものになった。

「なぁ、お前この男とデキてんだろ」
「ち、ちが…!」
「違うならなんで名前教えてんだよ!」

がん、と大きな音がして、ケイがゴミ箱を強く蹴ったことがわかった。ナマエは肩をびくりと振るわせて唇を噛みしめる。

「どうせお前みたいな女は穴としか思われてないわけ。その伊地知とか言う男もキャバでチョロそうだからお前に声かけてきただけだろ」

違う。そんなことはない。喉元まで出かかって何とか食い止める。初めて伊地知がナマエを助けたとき、伊地知はずっとナマエだと気が付いていなかった。コンビニで声をかけられたときも源氏名を呼ばないでくれと言えばすぐにわかってくれた。痴漢に遭ったときも震えるナマエに寄り添ってくれた。
だからといって伊地知が何か見返りを求めてくることない。伊地知が身体目当てでナマエに接触してきているだなんてそんなはずはなかった。

「お前もさぁ、いい加減学べよ。俺以外のとこ行ってもどーせこっ酷くフラれんだからさ、ごちゃごちゃ抵抗してねぇで俺の言うことだけ聞いとけ」
「…そ、そんなの…」
「伊地知って男も同じだぜ。どうせヤリ目で一回ヤッたら捨てられるに決まってンだよ」

伊地知さんは、そんな人じゃない。
ナマエの喉の奥につっかえてた様々な感情の澱が一気に吹き出した。どうしてあの優しいひとのことを、この男にこんな風に言われなければならないんだろうか。
いつも自分の考えだけでナマエの話は聞かない。すべて決めつけて自分の都合のいいように解釈する。ナマエがどうせ反抗できやしないと高を括って、自分の奴隷のように扱う。

「い、伊地知さんは…そんなひとじゃない、から…」
「ア?」
「伊地知さんは!凄く優しくて何度も助けてくれたの!何にも知らないのに悪く言わないで…!」

吐き出したナマエの言葉に、ケイは青筋を立てて拳を握った。身体が硬直する。怖い、嫌だ。

「テメェ!誰があの日拾ってやったと思ってんだよ!」

がしゃん。何かが割れる音がした。ケイが他の女からプレゼントされたという高級なガラス細工付きのワイングラスだった。
恐る恐るケイを見上げれば、血走った目でナマエを見下ろしている。逃げなければ。直感的にそう思った。
ナマエは勢いよく踵を返し、玄関に向かって走った。すぐに背後からケイの怒号が飛び、真後ろまで手が伸びる。寸でのところでそれをかわして裸足のまま部屋を飛び出した。

「おい!てめぇ!待て!」

足を緩めてはならないと全速力でエレベーターホールへ向かい、階下に向かってエレベーターを出発させる。それには乗らず、すぐそばの階段を上に向かって走った。
息をひそめて様子を伺っていると、追いかけてきたケイがエレベーターの表示を見て舌打ちをし、そのまま階下に階段を降りていく。どたどたという足音が去るのを待って、ナマエは一度息をついた。
時間はあまりない。少しの間なら階下へ逃げたと見せかけて時間を稼ぐことが出来るが、そんなものは高が知れている。

「ど…どこか…でも家は…」

自宅に帰れば母がいる。こんなトラブルだなんて知られて心配をかけたくない。幸い鞄も降ろす前に詰められたから、スマホは取られたままだが現金なら少しはある。数日間は滞在せざるを得ないことを鑑みて、ネットカフェに寝泊りするのが無難かもしれない。

「…行かなきゃ…」

ナマエはふらふら立ち上がり、各階の様子を確認しながら階段を降りた。エントランスまで辿り着き、ナマエは裏口からこっそりとマンションを出る。駅の方面へ向かうのは危険だ。普段使っていない方角へ逃げる方がまだマシだろう。
北側の細い道に入り、訳もわからないまま住宅街を走り、裸足のままのナマエにすれ違う人々が奇妙なものでも見るような視線を投げた。

しばらく走ったところで、古びた公園が目に入りナマエはそのうちのトンネル型の遊具に滑り込む。そこでやっと息をついた。はぁはぁと荒い呼吸を繰り返し周囲の様子を伺う。昼間だというのに人影はなく、車の音さえ聞こえてこない。
ここはどこだろうか。知らないまま北へ北へと走ってきてしまった。とはいえ、まだ明るいし、しばらく時間を置いてから出て行って駅でも探せばいい。今の時間を凌ぐのが先決だ。

『ぉカァァ…ん…』
「え?」

遊具の奥から声が聞こえた。奥といってもそう深いわけではない。向こう側に抜ける穴が空いていて、ここを通り抜けられる作りになっている。

「え、え、うそ…穴が…ない」

はずなのに、遊具の向こう側には穴が空いていない。それどころか、コンクリートで隔てられているような雰囲気はなく、行き止まりというよりもそこから闇に繋がっているような冷たさと気味の悪さを感じる。夏だというのにひんやりと涼しい風が、穴のない奥から吹いて来た。

『ぉカァァさん…ぉカァァさん…』

声はずるずると唸る小ささから、段々と大きなものに変わっていく。トンネルいっぱいに反響してあらゆる方向からナマエに襲いかかる。
初めはなんと言っているのかわからなかったそれが、段々と理解できるようになってきた。この声は「お母さん」と言っている。

「な、なに…これ…」

ナマエは腰を抜かしたまま足を必死にばたつかせて後ずさる。もうすぐトンネルの出口だ、というとき、奥から吹く風が一層強くなり、それから急速に吸い込む方向へ風向きを変えた。
その風の力は凄まじく、例えるならば船のスクリューのような抗いようのないものだった。
ナマエはこの風に逆らわなければ奥底へ吸い込まれると直感し、震える足で懸命に地面を蹴る。一体ここでなにが起こっているというんだ、そう考えるだけの余裕さえなかった。

「い、いや!なに、なにこれぇ!」

風はどんどんと強くなる。スカートが引っ張られ、手首に嵌めていた髪ゴムが吸い込まれる。穴の奥からは「ぉカァァさん」と母を呼ぶ声が絶え間なく発せられた。
どうして自分がこんな目に遭うのだろう。暴力を振るう恋人の家から逃げ出して、やっと逃げられたと思ったら今度はこんな場所で訳のわからない怪奇現象に巻き込まれている。

「な…なんで…」

私だったの。

「ミョウジさん…!」

もう駄目だ、と思った瞬間、男の声が聞こえた。諦めてしまう寸前のことだった。

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