05 ほんしめい

ナマエはあれから伊地知と連絡を取るようになった。連絡先を交換したわけでなく、来店時の名刺に連絡があったのだ。内容は安否を確認するものだった。

『伊地知です。無事帰り着きましたか?』
『こんばんは。さっき家につきました。今日はありがとうございました』

客との営業メールが並ぶ中、あまりにも普通のやり取りは浮いて見える。伊地知のレスポンスは基本的に早く、文章はいつも短い。他の営業のメールはキャバクラの営業然とした仕事の疲れを気遣ったり少し甘えたりするようなものばかりだ。

『暑い時期なので身体には気を付けて下さいね』
『ありがとうございます。伊地知さんもお仕事頑張ってください』

伊地知はどんな仕事をしているんだろう。スーツのサラリーマン風だったけれど、それにしては喪服みたいな黒さだ。それにあの日コンビニに高校生くらいの男の子と一緒に来ていた。昼下がりの平日でプライベートとは思えない。どこかの学校関係者だろうか。
営業のメールは『待ってますね』だとか『会いたい』だとか来店を促すような文章で括ることが多い。しかしナマエはそういった内容を送ることはなかった。

「ゲンジナちゃん、なんかいいことあった?」
「えっ…!」

キャバクラの控室で先輩にそう尋ねられた。ナマエはおろおろとして、それがかえって事実だと認めているようなものだった。

「えー?オトコー?」
「ち、ちが…そういうんじゃ…ないんですけど…」
「あはは、オトコなんだ?」

いとも簡単に見破られ、ナマエはぐっと押し黙る。そこまで激しい気持ちがあるわけではなかった。ただ何度か助けられ、その優しさに救われた。メールをやり取りするのが楽しくて穏やかで、もっと話していたいと思う。

「まさかホストじゃないでしょーねぇ?」
「ち、違います…たぶん…」
「ゲンジナちゃん騙されやすそーだし漬け込まれやすそーだから気を付けなよ」

先輩がそう言ってひらひら手を振った。ごもっともな話である。事実、ナマエは暴力的な恋人と別れられずにいるし、昨日も逆上して手をあげられたばかりだった。


その日の夜、ナマエは指名も入っておらず待機席で店内の様子を眺めていた。口下手なナマエを指名する客は少ない。特に聞き上手というわけでもなく会話のテクニックも未熟なために中々本指名の客は増えなかった。

「ゲンジナちゃんこの前ヘルプついてくれたとき気が利くって超お客さん喜んでたよ、ありがとね」

待機席の中でアイシャが小声で言った。ナマエの評判そのものが悪いわけではない。気が利いて覚えのいいナマエがヘルプにつくとまずトラブルは起こらないし、客も指名の嬢を待つ間そこそこ快適に過ごすことができる。しかも嬢からしてみれば出しゃばらないナマエに客を取られるようなことはなく、ヘルプの立場として重宝されていた。

「ゲンジナちゃんも今日指名なし?」
「は、はい…アイシャさんも…?」
「うん。今日マーシーさん出張入ったらしくてねぇ」

待機席での私語は推奨されているわけではないが、厳しく禁じられているともない。指名の少ないナマエは待機席で待っているっとことが多く、そのため先輩の嬢たちと話す機会が多かった。入店初日に言われた通り、この店はマネージャーもボーイもしっかりしている。嬢同士も仲良しこよしとはいかないがそこそこに仲が良く、働きやすい環境であるというのは事実だった。
しかしいくら働きやすいとはいっても、基本的には歩合だ。恋人にまたどやされてしまうかもしれないし、なんとか指名を増やさなければ。

「あれって…」

その時だった。ボーイが少しざわつき、一目散にナマエのもとへ歩み寄る。そして酷く興奮した様子で言った。

「ゲンジナちゃん本指名! 一条様から!」
「えっ!」

思わず大きな声が出てしまい、慌ててナマエは口を塞ぐ。確か一条はいつもフリーで誰も本指名を取れないと話を聞いた。接客したのも入店初日の一度きりだし、メールだって貰っていない。どうして私が、と思いながらも、アイシャに「頑張って!」と背中を押されてよろよろと立ち上がった。

「い、行ってきます…」

ベルベットのソファに一条がゆったりと腰かけている。もしかして伊地知もいるのだろうか、と思ったが今日はどうやら一人らしい。ホッとしたような、少し残念なような気もする。一条はナマエに気が付くとひらりと手をあげた。

「こ、こんばんは」
「久しぶりー。ドリンクメロンソーダね。ゲンジナちゃんも好きなの飲みなよ」

一条はにこにこと笑ってナマエが席に着く前からそうドリンクの注文をした。ナマエはそのまま近くのボーイにメロンソーダを持ってくるように伝える。
入店初日のときは色々と考えすぎてそこまで気が回らなかったが、確かに先輩の嬢たちが言う通り驚くほどの美形である。

「ご指名ありがとうございます」
「そのわりにあんまり嬉しそうに見えないけど?」
「そんなことは…ただ一条さんって本指名しないって他の人から聞いてたのでびっくりしただけです」

会話のリズムは序盤から崩された。こういうものは基本的に嬢が名綱を握って客に気持ちよく話させるのがセオリーだが、ナマエはそれが苦手だったし一条が手綱を握らせてくれる様子もない。

「ゲンジナちゃんって売上悪いでしょ」
「えっ…そ…そうですけど…」
「だよねぇ、だって話すの超下手くそだもんね」

そう言って一条が笑った。失礼な客というものはいなくはないが、テーブルに着いた途端こんなことをのたまうのは流石に珍しくて面食らった。悪意があるとかではなくて単純にデリカシーの類が欠如しているように思える。

「伊地知が連絡取ってるみたいだったからさぁ、どんな子かなって思ってもうちょっと話したかったんだよね」

その言葉にナマエは目を見開いて一条を見た。うす暗い店内でもサングラスを外さない一条の、その隙間からちらりと目の覚めるような青が覗く。探られているのだということはすぐに分かった。

「あいつ私用のスマホなんて滅多に触らないのにさぁー、空き時間の度にチラチラ見てんだよね。そんで誰と連絡取ってんだろって思ったら僕の知らない女の子の名前で、だけどアドレスは君に貰った名刺とおんなじだった」

一条はそう言って以前渡した名刺をひらりと見せる。知らない女の子の名前というのは恐らく伊地知が登録をミョウジナマエという本名でしているからだろう。そうだとして、わざわざ一条にそれを詮索されるいわれはない。

「ああ、勘違いしないでね、別に責めてるとかそんなんじゃないの。ただあの伊地知が連絡とってるなんて珍しいなぁって。あいつ店に来たの?」
「えっと…ここにはお見えになってませんけど…」
「ふぅん。キャバ嬢に金も積まずにオトそうなんてあいつもなかなかやるなぁ」

そんな言い方って酷いじゃないか、とナマエは頭に血が上るのを感じた。確かに店にはあまり通わずになんとか嬢と繋がろうとしたり安い酒を入れてアフターだけをゴリ押ししてあわよくばホテルに連れ込むなんていう姑息て汚い客もいるが、伊地知は断じてそうではない。
客へ言い返すのはどう考えても良くはないと分かっていたが、笑って受け流すことも出来ずにナマエはくちを開いた。

「い、伊地知さんはそんな方じゃ…ありません…」
「ふぅん?」
「いままで二回も危ないところを助けて貰いました。いくら知り合いだからってそんな言い方…」

ナマエはぐっと手を握った。ああ、やってしまった、とは思ったものの、どうせあのまま黙っていることなど到底できなかった。嬢を変えるように言われてマネージャーに態度が悪いとクレームを入れられてしまったらどうしよう。一度くらいでクビになることはないだろうが、売り上げも取れない上に上客の一条に対してそんな物言いをしたとなれば風当たりが強くなるのは目に見えている。
ぐっと目を閉じて罵倒される覚悟を決めていると、聞こえてきたのは一条の笑い声だった。

「ははっ、ごめんごめん、あいつがイイ奴だってことは僕も知ってるよ」

先ほどまでの軽薄な態度はそのままで、だけど棘のようなものがなくなっていた。にこにこと笑ったままの顔も先ほどより随分柔らかいもののように思える。
どうしてこんなことを言ってきたんだろう、と首をかしげると一条は笑みを深めて言った。

「君が悪い女だったら伊地知可哀想じゃん?だからそれを確かめたくてカマかけちゃった。ゴメンネ」

わかったようなわからないような、そんなことを言われてナマエは曖昧に「はぁ」と相槌を打つ。丁度ボーイがメロンソーダを運んで来て、一条の前に置いた。

「ゲンジナちゃんもなんか飲みなよ。乾杯出来ないし」
「じゃ、じゃあ水割りを…」

ナマエは促され、セット料金に含まれる水割りをかちゃかちゃと作る。売り上げ増えないよ?と一条が笑った。

「はーい、かんぱーい」

かちんと小さくグラスが鳴って、一条はビールを飲むかの如くメロンソーダをごくごく飲んだ。そう言えばこのひと下戸だって先輩が言っていたなとその飲みっぷりを見て思いだす。

「一条さん、珍しいですよね」
「ん?何が?」
「下戸だった聞きました。なのにキャバクラに来て高いお酒たくさん入れてくれるって」

一条はふらっと現れては自分はソフトドリンクで嬢に高い酒をおろす。しかも酔わせてアフターに誘うなんて下心もないようで、本当にただ単に金を使いに来ているだけのように見えると噂だった。

「あー、僕そこそこのお金持ちなんだけどさぁ、忙しすぎて使うヒマがないのね。で、時々パーッと使いたいなーと思うんだけど家も車もそんなにあったっていい加減邪魔なわけよ」
「は、はぁ…」
「でも、普通の買い物するったって金額はたかが知れてるでしょ?だから短時間で一番金使うのに効率がいいからキャバ来てパーッと使ってんの」

わかるようでわからない。やはり相当の金持ちらしいが、金持ちの考えることは庶民にはわからないものだ。一条は別に嬢に会いに来ているわけでもなければ話を聞いてもらいたいわけでもない。酒を飲むわけでもないし、何か他の下心があるということもない。ここにくるのは金を使いたいからという、分かりやすそうで全く理解できない理由だった。

「…一条さん、変ですね」
「変?」
「あっ!違うんです、すみません!ちょっと個性的っていうかそんなこと言うお客さんに会ったことなかったんでその…!」

思わず漏れてしまった言葉をどうにか取り返そうと弁明する。わたわたと焦る様子が面白かったのか、一条が愉快そうに笑った。

「やっぱいいね、ゲンジナちゃん」
「す…すみません…」
「お酒あんま飲まない?なら一番高いの一本入れよっか」

一条はそう言って、放っておくとそのままになってしまいそうだったからナマエは思わず反射的に止める。

「なんで?売り上げになるでしょ?ダブルワークするくらいお金稼ぎたいんじゃないの?」
「えっ…」

それはそうだ。夜の仕事での稼ぎのほとんどは恋人に持っていかれてしまっているから、自分の生活費はコンビニのバイトでまかなっている。

「い、伊地知さんに聞いたんですか…?」
「違うけど」

じゃあどうしてだ、と首をひねる。この店にはコンビニのバイトをしているという話はしたことがないし、もちろん一条にもそんなことは言っていない。
首を捻るナマエに一条が「やっぱ気づいてなかった?」と言って、ポケットから包帯を取り出し、ひらりと一重巻くようにしてみせる。

「あっ…もしかして…」

ナマエはそこで先日遭遇した包帯目隠しのスイーツ爆買いの客のことを思い出した。
コンビニではすっかりヴィジュアル系のバンドマンと噂されている客の正体はこの男だったらしい。

「いやあ、伊地知にも春が来たねぇ」
「は、春って…伊地知さんはそういうつもりじゃないと思いますけど…」
「あ、伊地知はってことは君はそういうつもりなの?」
「べ…別にそういうわけでは…」

ない、というと限りなく嘘になる。実際他愛もないやり取りが楽しいと思っているし、出来れば会って話をしたいとも思っている。散々だった自分の今までにきちんとした優しさをくれた人だ。明確にどんな感情があるとはまだ言えないが、魅力的な人だと思っていることは確かだった。

「…伊地知さんには言わないでください…」
「もっちろん。そっちの方が絶対楽しいでしょ?」

まるで女子高生がファミレスで話すような話をキャバクラでしているのがなんとも奇妙で、だけど誰も二人には気を止めなかった。誰も干渉せずみんなが夢を見るための場所。ここはそういうところだ。
そこから五条はメニューの端から端までの甘いものをオーダーし、最後に飲みもしないくせに店で一番高いシャンパンを入れた。

「ゲンジナちゃんのこと気に入ったし、僕応援しちゃう」
「ありがとう…ございます…?」

それは嬢としての売り上げを応援してくれるのか、それとも伊地知との関係の話なのか。いまいちわからないままナマエは礼を言い、本日何度目になるかもわからない乾杯をした。

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