04 しんじたい

男は女のことを得だというが、実際はそうでもない。
これはナマエの持論だが、女は力が弱いから下に見られるし、抵抗しないから何でもしていいと思っている。弱いから殴れば言いなりになると思っていて、頑張ったって「女のくせに」となじられる。

「お前はいいよなぁ、女だからさぁ」
「…どうして?」
「キャバのオッサンに貢がれ放題だろ。飯食いに行ったら女はタダで食えんだからありがたいと思えよ」

ナマエは恋人という椅子に座り込むこの男に、あははは、と乾いた笑いを返すことしかできなかった。どうせ反論したら殴られると知っているからだ。
ナマエはよっぽどのことがない限り自分の食事代は自分で支払うし、誰かに奢って欲しいと言ったことも、それを頼りに食事に誘ったこともない。夜の仕事をしている間は同伴で客が代金を払うこともあるが、それくらいのものだ。

「どうせまたキャバでプレゼントとか貰ってきたんだろ、質に入れて金にして来いよ」
「…そんなの貰ってないって」

ナマエはキャバクラ嬢として働く才能がないらしい。曰く、話がつまらないのだそうだ。これはキャバクラ嬢としては結構致命的な欠点で、ナマエは四ツ谷の店で働いていたときも人気は下から数えた方が早かった。

「ンなこと言って俺のこと騙そうしてもそうはいかねぇからな。俺だってホストやってたんだからそんくらいわかるっつーの」

ケイはぎろりとナマエを睨んだ。
この男は池袋のホストクラブで働いていたことがあった。そのうちに身の丈に合わない生活を求め、闇カジノで借金を背負い、今は暴力団の使い走りのようなものをしている。それがケイという男の概ねの顛末だった。

「ほんとに…ないんだよ…わ、私キャバ向いてないし…」

ナマエがそう言うと、ケイは品定めするような視線を投げてからナマエを鼻で笑った。

「まぁお前トロいし、俺がいなきゃ何も出来ねぇんだもんな」

ナマエは小さく「うん」と頷いた。
ケイは元々、高校の先輩の知り合いとして面識があった。付き合いが始まったのはナマエが母親と大喧嘩をして家を出たとき。ネットカフェに泊まろうにも財布もなく、困り果てていたところにケイが声をかけた。

『俺が仮眠取るだけの部屋があんだけど、そこ貸してあげるよ』

ケイは自分の仮眠に使うという部屋を貸し、その上幾らかの金を出してナマエの衣食を援助した。頼る場所のなかったナマエにとってはこの男が神様のようにさえ見えた。
それから相談に乗ってもらったり、食事をすることで距離が縮まり、付き合うようになった。

『ケイくん、お母さんと仲直りできたからもう部屋出ていくね、ありがとう』

行き合うようになって一年。ケイの態度が初めて豹変したのは、そのときだった。
ナマエの言葉にケイは唸るようにして『はぁ?』と凄み、ナマエの髪を引っ張って床に引き倒した。

『お前、出てくとか勝手に何言っちゃってんの?』
『け、ケイくん…い、痛い…』
『口答えすんな。お前は俺がいなきゃなんも出来ねーの。住む場所ねぇっつったときに部屋貸したのは俺。服買ってやったのも飯食わしてやったのも俺!』

こめかみを床に打ち付け、衝撃で頭が回らなかった。どうして今自分は怒鳴られているんだろう。ナマエは考えたが、答えを導き出す前にまた床に頭を打ち付けられ、思考はどんどん散漫になった。

『ご、ごめんなさ…!別れるって言ってるわけじゃ…!』

ない、と続けようとしたところで、髪を引っ張り上げる手がぴたりと止まった。恐る恐るケイを見ると、泣きそうな顔で「ごめんな」と言った。

『ごめん、ナマエごめん…俺こんなことするつもりじゃ…』
『ケイくん…』
『許してくれ、怖かったんだ、お前がどっかにいっちまうと思ったら俺…』
『…大丈夫だよ、私はどこにも行かないよ』

ケイの暴力は、この日を境に断続的に繰り返され、最後に決まって懺悔した。ナマエは懺悔されるたびにどうしてだかこの男を許し、そのうちに献身的だった態度まで慢性的に横柄なものに変わった。

「お前、今月の稼ぎ少なくね?」
「ガールズバーやめちゃったから…あの、でも言えばキャバの分日払いとかしてもらえるかもしれないし…」
「俺がどんだけ金に困ってるかってお前知ってるよな。彼女としてなんも協力できなくて申し訳ないとか思わねぇの?」

そもそもその借金にナマエは無関係だし、何も協力していないと言う訳ではない。現にこうして夜の稼ぎの殆どをこの男に渡している。
けれどもう一年近くこうして日常的に暴力を受けているナマエにとっては何が正常な判断なのかがわからなくなっていた。

「ごめんね、あの、お店に日払いできるか聞いてみるから…」

こんな生活をいつまで続けるんだろう、と、思考の片隅で考えた。それも植え付けられた罪悪感と恐怖によってすぐに塗りつぶされしまった。


ナマエはその日、珍しく一日どの仕事も入っていなかった。とはいえ、やらなければならないことはたくさんあった。
ここぞとばかりに日用品の買い出しに勤しんだり、店に出るためのドレスを購入したりと出費は嵩む。移動で電車に乗ると、夕方のラッシュにぶつかってしまい車内に鮨詰めにされた。

「んんっ…」
「す、すいませ…」

そこそこの荷物を持っていたために乗客らはジロジロと迷惑そうにナマエを見た。ああ失敗したなとは思ったものの、もうどうすることもできない。ナマエはなるべく小さくなってごとごとと進む電車に揺られた。

乗車して数駅分進んだとき、不意に臀部に違和感を覚えた。揺れに合わせて何かがぶつかっているのかと思ったが、それにしてはタイミングがおかしくて、ナマエが何も言わないままでいると動きはエスカレートした。
ひたりと手のひらと思わしきものが臀部を下から上へ撫で、下着のラインをなぞるように動く。痴漢だと思っても、声を出すことができなかった。降りるまで我慢すればいい、このくらい平気、大丈夫、大丈夫。ナマエは何度もそう言い聞かせ、ぎゅっと目を瞑った。
それから2駅ほど進み、不意に臀部をまさぐっていた手が離れていった。それと同時に、真後ろからヒッと息を飲むような声が聞こえる。

「次の駅で降りてください」

近くで言われたそのセリフは、ナマエに向けられたものではなかった。もしかして、と聞き覚えのある声に振り返ると、痴漢の手を捻りあげていたのは伊地知であった。

「お、俺は別に…!」
「私見てました!この人ずっとこの子のこと痴漢してました!」

すぐそばにいたOLらしき女性がワッと声をあげる。不安げに押し黙るナマエの表情を見れば冤罪でないことなどは明らかで、乗客はひそひそと男を指さす。
この状況に抵抗することもできなくなり、男は反論をやめて俯いた。

「ミョウジさん、怖かったでしょう」

伊地知はそう言って、ナマエは伊地知の掴み上げた男の手を見つめた。男が逃げ出そうとしていないからなのかそうではないかはわからないが、ピクリとも動かない。池袋で助けられた時もそうだった。一見非力に見える伊地知は、どうやらそうではないらしい。

次の駅について、ナマエと伊地知、それから痴漢の男と証言者としてOLが降車した。OLは「助けてあげられなくてごめんね」とナマエに言い、ナマエは「いえ」と小さく返した。
まさかそんなことを思ってくれている人間がいるだなんて想像もしていなくて、どう答えたらいいものか全くわからなかった。
OLが駅員を呼びに行き、慌てて駆けつけた駅員とともに4人は駅員室に移動する。

「ナマエさん、荷物持ちましょうか?」
「あ、大丈夫です。重くはないので…」

伊地知にそう気遣われ、ますますナマエは所在をなくす。こういう時にどう振舞っていいのかわからない。
それから十分程度で警察が到着し、OLと伊地知の目撃証言を突きつけられた男は罪を認めるに至った。

手続きの諸々を待つ間、ナマエは犯人とは別の部屋へ案内された。証言者のOLは帰ったが、伊地知はナマエのもとに残っていた。少し外したと思えば、伊地知は近くの自動販売機に行っていたらしく、手にカフェオレの缶を持って戻ってきた。

「どうぞ。このところずっと暑いですから」
「そんな…悪いです…」
「私は甘いカフェオレの飲まないので、飲んでいただけると助かります」

そんな言い方で差し出されてしまえば、受け取るしかなかった。ナマエは「ありがとうございます」と礼を言ってカフェオレを受け取る。ひんやりと冷えて気持ちがよかった。

「…被害届出さなくていいんですか?」
「あ、はい…痴漢くらいでそんな大袈裟ですし…」
「痴漢くらい、ではありませんよ」

伊地知の声がピリッと聞こえた。ナマエに対しては優しい声音ばかりだったから、心臓がどくっと鳴った。伊地知はナマエが唇を引き結んだのを察して「怖がらせるつもりはないんです」と弁明してから続ける。

「痴漢という言葉が定着していますが、正しくは迷惑行為防止条例違反、又は強制猥褻罪です。恐怖で被害を訴えられない女性を狙う悪質な犯罪です」
「それは…そうかもしれませんけど…」

痴漢は迷惑防止条例違反、または強制猥褻罪。万引きは窃盗、いじめは暴行、強要、恐喝など、日本語として軽くみられがちな言葉でオブラートに包まれて定着しているそれらは、紐解けば法で裁かれるべきれっきとした罪である。とはいえ、そのオブラートに包まれた言葉に慣れているナマエにとってはあまりピンとこなかった。

「…私の体くらいどうってことないっていうか…」

ぽつん、と落ちた言葉だった。
どうせ普段から恋人に殴られ、ガールズバーでもキャバクラでも散々セクハラまがいに触られる身体だ。レイプ被害に遭うというなら話は別だが、触られるくらい今更、というのが正直なところだった。

「ミョウジさん、もっと自分を大事にしてください」

伊地知の言葉が柔らかい棘のような確かさでナマエの心臓を突き刺した。伊地知の言うことは正しい。まるで教師のような正しさだ。どこにも隙がなく、常識で、正論で、少しの間違いもない。間違いのないものは恐ろしかった。

「…なんでそんなこと言うんですか、伊地知さん私のこと何も知りませんよね」

やってしまった、とナマエは視線を咄嗟に下げた。いくらなんでもこんな言い方は失礼だ。伊地知がただの親切心で言っていることなんて一目瞭然なのに。

「確かに私はミョウジさんのことは何も知りませんが、それが誰かを助けない理由にはなりません」

伊地知の声にそろりと顔を上げると、伊地知は少しも気分を害した様子はなくナマエを柔らかな眼差しで見つめていた。
ナマエは思わず息を呑んで、その少し下がった目尻を見つめた。

「伊地知、さん…」
「はい」

思わずこぼれ出た声に、伊地知の穏やかな声が帰ってくる。
伊地知は自分を救ってくれるのだろうか。どうしようもない泥沼でしか生きることのできない自分を、救う神になってくれるのだろうか。

「ありがとう…ございます」

出来ることならばもう一度、神様を信じてみたい。

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