02 うそっぱち

閉店時間になり、アフター、帰宅、更衣室でそれぞれに身支度を整えるキャバクラ嬢の中、ナマエも今日ついた客のことをノートにまとめながら先輩たちの話に耳を傾けていた。

「一条さん久々に来たねー」
「あの人超イケメンでお金払いもいいけどさぁ、本指名作らないって噂じゃん」
「そーなん?」

話の中には、今日ナマエがついた客の話題も上がった。一条。本日クローズの1時間ほど前にきた客だ。
暗い店内でサングラスをかけていたのが一条、隣に座っていた黒いスーツが伊地知という名前だった。

「そーそー。大体入るときフリーで、指名しても場内指名らしいよ」
「狙ってた子いたけどみんな結局指名貰えてないよねー」

話によると、一条という男はこの店に不定期にやってきては多額の金を落として帰っていく有名人らしい。
しかも何度通ってもどの嬢を指名することもなく、フリーか場内指名ばかり。名刺を渡しても連絡を貰ったという嬢はいないのだという。
変わった人だな、とナマエはノートにそれらについて記入していく。

「一条さんが指名くれたらめちゃ稼げるんだけどなー」
「アンタ稼いだお金全部ホストに貢いでんじゃん」
「や、担当今月もうちょいでトップなんだもん」

あははは、と嬢たちの笑い声が飛ぶ。
キャバクラで働く女性の動機は様々だ。遊ぶお金が欲しい、昼の本職の稼ぎが少ない、自分が通うホストに使うお金を稼ぎたい。
ナマエの働く動機と言えばそのいずれでもなく、もっと曖昧でぼんやりとしたものだった。

「ゲンジナちゃんウチの店どぉ?」
「えっ…」

不意に先輩の一人に話を振られ、ナマエは思わず言葉を詰まらせた。
どう、と言われても本日初出勤なわけで、何かコメントしようにもどれも薄っぺらくなる気しかしなかった。

「あれ、キャバ未経験じゃないよね?」
「あ、はい。でもこんなに大きなお店は初めてで…」
「そーなんだ。まぁ、ウチの店マネージャーとかしっかりしてる方だと思うし、なんかあったら言いなよ」

そういう先輩は北海道のすすきののキャバクラに勤め、東京では六本木の店に在籍の経験もある、店ではどちらかというと年嵩の女性だ。
その彼女がしっかりしているというならきっとそうなんだろう。ナマエは「はい」と返事をした。


明け方、自宅である二階建ての築60年のアパートの外階段をカンカンと音を立てながら登る。
自宅の扉の前に立ち、鍵を開けようと鞄の中をがさごそと探っていたら内側からくるりとドアノブが回された。

「あら、お帰り」
「ただいま」
「母さんもう出るところだから」
「わかった。いってらっしゃい」

出てきたのは同居している母だった。きっちりと化粧をして身綺麗にしており、これからどこかに出かけるということは明白だった。
じゃあね。と言って今度は母がカンカンと音を立てながらアパートの階段を下っていく。その背を見送り、ナマエは自宅へと入ってがちゃんと扉を閉めた。

「…ねむ」

少し休んで、今度は昼のバイトがある。あまりおなかも空いてないな、と、ナマエは畳の上にごろんと寝転がった。
シミのついた天井を見上げた。犬みたいに見えるシミ、人間の顔に見えるシミ、目のように見える木目。幼いころは、夜な夜な見るそれらが恐ろしかった。恐ろしかったのは、それより恐ろしいものがあると知らなかったからだろう。

「…あした、池袋…いや、今日行こ…」

はぁ、と溜息をつく。先日まで勤めていたガールズバーに忘れ物をしていたようで、それを引き取りに行かなければならないのだ。
今まで水商売の類をしたことがないわけではない。直近はガールズバーだが、少し前は四ツ谷の小さなキャバクラで働いていたこともある。しかし昨日入店したような大きなところは初めてだった。
どさっと鞄がバランスを崩し、中からノートが滑り落ちる。

「…あ、ノート」

勢いでぱっと開いたノートのページには、一条と伊地知のことが書き留められている。
一条さん、下戸、ドリンクはいつもノンアルコール。メロンソーダ。伊地知さん、お酒は飲むっぽい。ただし車で来店。ノンアルコール。オーダーを間違えた。次回から注意。
書き留めた言葉をなぞる。いいお客さんだったけれど、キャバクラとかに慣れてそうな感じはなかったな。と、昨晩のことを振り返った。
そのうちにじんわりと眠気が襲ってきて、ナマエは瞼を下した。


数時間で目を覚まし、ナマエは身支度を整えると池袋に向かった。
在籍期間はそう長くはなかったが、そのガールズバーはあまりいい店とは言えなかった。ナマエはバックヤードの一角に置かれた紙袋を引き取り、マネージャーへの挨拶もそこそこに店を後にする。
あのガールズバーは女性同士の仲が驚くほど悪く、入店二日でハズレを引いたことを悟るレベルだった。
駅の西口に向かって歩いていると、正面から「お姉さん」と声をかけられた。

「お姉さんお姉さん可愛いね」

ナンパのような切り口だが、そうでないだろうということは場所柄予想はついた。何のかまではわからないが、キャッチに決まっている。

「今簡単なお仕事紹介してんの。現金払いでバイト代出ちゃうんだけど興味ない?」

じろ、と声の主の男を睨む。こういうのは取り合わないのが鉄則だ、と黙って隣をすり抜けようとすると、ナマエと同じ方向に男が動いて進路を妨害された。

「いやいやシカトはナシっしょー」

最悪だ、道が細いせいで無理やり通ろうとしても物理的にできない。ナマエが反対隣りをすり抜けようとすれば案の定男は同じようにして妨害する。

「簡単なお仕事なんだって。ちょっとカメラの前でセクシーなポーズとるだけ!服も脱がないしもちろん本番もナシ!」

本番なんて言葉が出てくる時点で何の「仕事」なのかはもう明白だった。素人もののアダルトビデオ撮影に決まっている。
池袋に限らないことだが、歓楽街をふらついている若い女性に声をかけるのは常套手段である。もちろん、成人している女性が自分の意志で出演しようというなら個人の自由だが、時おり度を越したしつこい勧誘があるのも事実だった。

「興味ない。どいて」
「そー言わずにさ、ね?」

それにしても今日のはしつこい。最終的には強行突破しかないか。と思って一歩を踏み出すと、後ろから腕をグッと掴まれた。
誤算だ。どうやら相手は一人ではなかったらしい。

「いいじゃん、お姉さん可愛いし、時給弾むよ」
「ちょっ…離してよ!」

歓楽街だからか、昼間の人通りは少ない。大声を出しても表通りの通行人にまで聞こえ、その上通報してくれるかなんて随分と怪しい。

「ガールズバーで働いてるってことはさぁ、お金欲しいんじゃないの?その辺のバイトより良い時給払うからさぁ」
「なんで知って…」

口ぶりから察するに、男たちは気まぐれに道行く女性に声をかけているわけではないらしい。実際にはもう辞めているが、ナマエがガールズバーで働いていたことを知っているのであれば、恐らくこの周辺のそういった仕事をしている女性をピックアップして声をかけているのだ。

「離してよ…!」

ナマエの頭の中に「強姦」の文字が過ぎった。
ただのAV勧誘にしては荒っぽい。もしかして声をかけて乗ってこなければその場で慰み者にするつもりなのか。
掴まれた腕を振り払おうにも男の力は強く、びくともしない。声をあげて助けを呼ばなければ。誰か、助けを。

「ぁ…」

声を上げたいのに、喉の奥で絡まって何ひとつ出てこない。
掴まれていた腕が引かれ、体勢を崩す。いよいよ連れ去られてしまうと心臓が跳ね上がったそのとき。

「女性に乱暴とは感心しませんね」

ナマエの腕を掴んでいた男の背後から声がして、その男の手首を捻りあげる。男は「痛ぇ!」と声を上げて、その拍子にナマエの腕が解放された。
そこに立っていたのは、昨晩店に来た男、伊地知であった。

「てめぇ、何しやがる!」

ナマエの進路を塞いでいたほうの男がそう噛みついたが、伊地知は涼しい顔のままだった。そのまま掴んだ男の手首を更に捻りあげ、男が悲鳴を上げる。

「警察に通報します。身の潔白を証明したいなら然るべきところでどうぞ」

伊地知がそう言うと、男たちは噛みつく勢いを途端に失い小さくなった。この強引な勧誘方法からみるに、まともな商売をしているわけではないのだろう。
拘束されていないほうの男が「行くぞ」と言い、引く様子を見極めてから伊地知が掴んでいた男の手首を放す。
数回ちらちらとこちらの様子を窺いながら、男たちは足早に西の方へと走り去って行った。

「すみません、差し出がましいかと思ったんですが、どう見ても合意とは思えなかったので…」
「いえ、助かりました。伊地知さん、ありがとうございます」

そう言うと、伊地知は驚いたように少し目を丸くする。何かおかしなことを言ってしまっただろうか、と少し思ったが、礼を言っただけなのだからそんなことはないはずだ。
妙な沈黙が流れ、少しの間のあと伊地知がハッと何かに気が付いたような表情に変わった。

「あれ…もしかしてゲンジナさんですか?」
「あ、はい」
「お店の時と随分雰囲気が違ったもので気づきませんでした」

言われてみると、今はプライぺートでカジュアルな恰好をしているし、化粧だってそこそこ。夜の仕事をするときには暗い中でも映えるように少し、いや、だいぶ濃く化粧をしている。ドレスで華やかな恰好でその上髪もセットしているから別人に見えても不思議はなかった。

「えっと、その…」

伊地知だとわかったからつい普通に名前を呼んでしまったが、嬢ともわからないような姿格好で呼ぶべきではなかったかもしれない。いや、しかし接客を昨晩したというのに気づいてないと思わせるのもどうなのか。
そうしてナマエが一人で問答していると、伊地知は別段気にした様子はなく言葉を続けた。

「怖かったでしょう。駅まで送ります」

ぐっと、息が詰まるのを感じた。
あの状況を見て救った人間なら、きっと誰しも同じような言葉をかけるだろう。伊地知が特別な訳ではない。しかしナマエの耳にその言葉が届くころ、それは特別な響きを持って鼓膜を揺らした。

「物証がないので捜査は難しいでしょうが、ちょうど今から警察に行くところだったので二人組のことは話しておきますね」
「い、伊地知さん警察の、関係者なんですか?」
「いえ、ただ仕事で少し一般の方よりは足を運びますので」

ゲンジナさんの名前は伏せておきますから。と言われ、ナマエは「はい」と頷いた。どうせ源氏名なのだから言われたところでどうと言うこともないのだけれど、その細かい気遣いが無性に痒かった。

「では私はこれで」

伊地知はナマエを改札口まで送り届け、ナマエはペコリと頭を下げてから改札を通過する。
がたんごとん、ちょうど電車が到着したタイミングだったから、頭上で大きく音が鳴った。「ありがとうございました」と言ったけれど、その音のせいで聞こえているかは怪しかった。


ナマエは電車に乗り、自宅のボロアパートとは違う小綺麗なマンションに足を運んでいた。
がちゃん、合鍵を使って鍵を開ける。自宅とは違うフローリングの冷たさを感じながらぺたぺたと進む。ワンルームに続くドアを開けると、壁際のベッドでビールの缶を傾ける男がいた。

「遅ぇ。どこ行ってたんだよ」
「ごめん、ケイくん。お店に忘れ物取りに行ってて…」
「お前マジのろまだよな」

男、ケイはビールを飲み干し、べきっと側面に力を込めて缶を潰す。ナマエは差し出されたそれを受け取って分別もロクにされていないゴミ袋に入れた。

「メシ。早く作れよ」
「うん、ちょっと待っててね」

このケイという男との付き合いは、もう二年になろうとしていた。
出逢った頃こそ甲斐甲斐しくナマエの世話を焼いたり理解を示すような態度を取っていたが、今は見る影もない。
ナマエを呼びつけては身の回りの世話をさせ、気に入らなければ怒鳴りつける。物が飛んでくることもしょっちゅうだった。
そうだ、男はこういう生き物なんだ。ナマエは脱ぎ捨てられた洗濯ものを拾いながらぼうっと考える。

「お前、トロいクセに歌舞伎町でキャバとか出来んの?」

背後からけらけらと小馬鹿にする声が聞こえる。正直なところ、こっちのほうが慣れているし心地が良かった。
損得勘定のない親切も下心のない思いやりも愛も、ナマエには気持ちが悪かった。そんなものはこの世に存在しないと思っているからだ。
あの伊地知という男もきっと、絶対、そうに決まっている。

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