01 よるのまち

2017年7月某日。東京の夜は煌びやかだ。
所狭しと並んだ飲食店からは煌々と明かりが発せられ、酔っ払いや学生が道を横並びに占拠する。
その繁華街にほど近い大通りを、一台の黒塗りのセダンが走っていた。

「あ、伊地知。僕ちょっと寄り道してくからその辺で下ろして」
「えっ、寄り道ですか?」

セダンを運転する伊地知は、言われてすぐにウインカーを出し、車を路肩に寄せた。
何か約束があるとも聞いていないから、コンビニかどこかだろうか。と伊地知はミラー越しに後部座席の五条を確認する。
五条は六眼を覆い隠していた包帯をくるくると取り去り、ぱさぱさと前髪を払って整えている。

「先帰ってて」
「えっ、もうすぐ終電もなくなりますけど…」
「いいや。タクシーで…や、ちょっと待って」

ミラー越しの五条は「うーん」と考える素振りをして、そうだ、と言わんばかりに後部座席から乗り出し、グイっと運転席の伊地知を覗き込む。

「伊地知も一緒に行く?」
「はい?どこにですか?」

一体どこに連れていくつもりなのか、と単純にそう尋ねると、五条はかたちのいい唇をにいっと笑わせた。

「とってもいいところ」

このとき「ああ、断れば良かった」と思ったわけだが、そもそも伊地知に断るという選択肢は与えられていないので、思ったところで結局のところ詮無いことであった。


五条に言われて近くのコインパーキングに車を止めると、連れてこられたのは繁華街の中でも一等煌びやかに、むしろ昼よりも明るいのではないかというほどのネオンに照らされた場所だった。新宿歌舞伎町。この国で一番の歓楽街である。

「いらっしゃいませ」

客引きや酔っぱらったサラリーマンの波を掻き分け、五条に肩をがっちり掴まれたまま、気おくれする伊地知は引きずられるようにして店に連れ込まれた。
黒のベスト姿のボーイに連れられて入る店内は黒のつるつるとした壁にベロア生地のソファ。それから磨き上げられた丸いテーブルには酒瓶とグラスがいくつも乗っている。

「お待ちしておりました、一条様」

接待飲食店キャバレークラブ。通称キャバクラである。

「久しぶりー。今日フリーで入れる?」
「承知しました」

ボーイは頭を垂れ、奥の席へと五条たちを案内した。依然伊地知は絶句状態である。
あれよあれよと席に通され、ソファに身体が沈み込んだところで伊地知ははたと意識を取り戻した。

「ご、五条さん…!」
「シィー、僕ここじゃ一条で通ってんの」

先ほどのボーイの出迎えは聞き間違えではないらしかった。なんだそのギャグみたいな偽名は。突っ込みたいのは山々だがそうできるはずもなく、伊地知は大人しく「い、一条さん…」と呼びなれない名前を口にする。

「あの、私こういうところはちょっと…」
「いやいや今更何言ってんの。もう女の子ついてくれるってのに帰るとか失礼だよ」
「えぇぇ…」

こういった場所に来たことはある。が、すべて仕事でだ。場所柄なにかと呪いの発生源になることもあるし、事前調査や任務、事後報告などで訪れることはままある。
しかし客の身分で入店するのは初めてで、それはこんなにもいたたまれないものかと伊地知は溜息をついた。
キャバクラ嬢に失礼だと言われてしまうと、帰るのも悪い気がしてしまって、かつ勝手に帰ろうもんならこの上司に何をされるかわかったもんじゃないというのもあいまって、伊地知は大人しく接客されることを選んだ。

「こんばんはぁ、レイナでーす」
「ミナミでーす」

しばらくで現れたのは、ワインレッドとブラックのドレスに身を包んだいかにもなキャバクラ嬢たちだった。
伊地知と五条をそれぞれ挟むように座り、てきぱきとテーブルの準備をしていく。

「一条さんていつになったら本指名してくれるんですかぁ?」
「はは、僕は博愛主義者だからね」
「えー、そろそろレイナ指名してくれても良くない?」

レイナと名乗った女性は五条につき、軽快に話を進めていく。伊地知の隣にはレイナよりもう少しあからさまに場慣れしていそうなミナミという嬢で「何飲みますー?」と語尾を伸ばして尋ねる。

「いえ、あの…今日は車なので…」
「えっ!そーなんですか?じゃあウーロン茶?」
「はい、ではそれで…」

会話ひとつにも慣れないから一苦労だった。仕事柄様々な人間と話すことはよくあるが、プライベートで、しかもこういうところでとなると勝手が違う。
しどろもどろになる伊地知を置き去りに、嬢はボーイを呼んでウーロン茶を用意させていた。

「あー、君らも好きなの飲んで。今日僕お金使いたい気分だから」
「いただきまーす」
「一条さんなんかいいことあったの?」

一条って本当に誰だ、と聞きなれない上司の安易な偽名をノイズに感じつつ、確かにこんなとことに連れてこられたのは初めてだ、と伊地知は聞き耳を立てる。
五条は運ばれてきたメロンソーダに口をつけてから言った。

「ちょっとこいつ息抜きさせてやろうと思ってさー。僕の後輩。よろしくね」

あろうことか、五条はお鉢を伊地知に回した。このひと絶対に私が焦るのを見て楽しむ気に違いない、と、うすうす感じていた疑念が確信に変わった。

「お名前はぁ、なんていうんですか?」
「えっ、あ、伊地知と言います…」
「いじちさんだからぁ、イジッチだ」
「超可愛くない?」

嬢のペースで話が進んでいく。キャッキャと伊地知を接客し始めた二人の向こうで五条が楽しそうに笑っていた。彼女たちには非はないが、一刻も早くここから帰りたい。

「イジッチこういうお店初めて?」
「そ、そうですね…まぁ…」

仕事で足を運んだことがあると説明するのは面倒になりかねないと伊地知は曖昧にそう答える。ウーロン茶の氷が溶けてバランスを崩し、カランと音が鳴った。
キャバクラ嬢というものは接客のプロである。いくら伊地知がしどろもどろになろうと、強引すぎない手段であれやこれやと話題を振った。
そのうちにボーイがすっと席に寄り、二人の嬢に「そろそろお時間です」と告げる。

「えー、もう時間?」
「超あっという間だったぁ」

二人は口々にそう言い、テキパキと名刺を取り出すと、レイナは五条に、ミナミは伊地知にそれぞれ差し出す。

「一条さん、イジッチ、楽しんでってね」
「今日超楽しかった、今度はミナミのこと指名してね」

二人はひらりと手を振って控室に引っ込んでいく。その様子を伊地知は唖然と言った様子で見つめていた。

「ど?結構楽しいでしょ?」
「いえ、あの、何が何だか…」

慣れないキャバクラ嬢との会話に疲労困憊といった風を隠せない伊地知を見て五条が愉快そうに笑う。
メロンソーダとウーロン茶というファミレスかと見紛うドリンクのラインナップとは裏腹に、店内は煌びやかで、あちこちで鈴の鳴るような女性の笑い声が聞こえる。

「ごじょ…一条さん、あの、普段からこういうところこられてるんですか?」
「うーん時々ね」

五条の送迎の類はプライベートまで何かと面倒を見させられることが多いが、キャバクラに送迎をしたことはなかった。なんだかんだと補助監督として働き始めて6年目になるが、この男について知らないことというのはたくさんあるらしい。

「はい、伊地知次の女の子来るからウーロン茶飲み干して」
「えっ」
「そういうもんなんだよ、ほら」

五条に言われ、ほとんど減っていなかったウーロン茶のグラスを急いで空ける。別にそんなルールもマナーもあるわけでないと知るのは後日のことである。


フリー、いわゆる特定の嬢を指名しないで入店すると、約20分ごとに交代で様々な嬢がテーブルにつく。初めて入った店などでは誰を指名、ともいかないのでこのフリーの機会にお気に入りの嬢を見つけてもらおうというシステムである。
五条の場合はそういうわけではなく、特定の指名をする気がないといった風であった。
このシステムでは、1セット60分の間に概ね3回違う嬢がテーブルにつくことになる。好みを探るためというのが一番の目的なので、ボーイはそれぞれタイプの違う嬢をセッティングすることが多い。
詰まるところ、伊地知についた二人目の嬢が驚くほどタイプが合わず、20分という短い時間で随分と消耗してしまった。

「やば、伊地知キャバ来てする顔じゃないんだけど、ウケる」

驚くほど合わない嬢が退席したあと、五条がまるでお笑い番組を見るかの如くそれはそれは楽しそうに笑った。ああ、私の回復と反比例してこの人が回復している。と、伊地知は分かりきったこと脳内で言語化した。

「ほらほら、ウーロン茶空けて。次の子来るよ」
「いや、私そんなウーロン茶ばっかり飲めませんよ…」

言いながら、伊地知はウーロン茶のグラスを空けた。ここまでくるとほとんど自棄クソである。

「こんばんは、ゲンジナです」

こん、とウーロン茶のグラスをテーブルに置いたタイミングで、二人の席に嬢が現れた。ドレスこそ派手だが、あまりガンガンと話すタイプではなさそうだ。伊地知は人知れず胸を撫で下ろした。

「あの、すみません。すぐアイシャさん来るのでドリンクお二人分私がお作りします」

ゲンジナと名乗ったその嬢は伊地知の隣に腰掛ける。アイシャというのはおそらくもう一人つくだろう嬢の名前だ。

「何飲まれます?」
「僕メロンソーダ。伊地知は?」
「あ、私はその、ウーロン茶で…」

半ばグロッキーになりはじめた伊地知を五条が初めて気遣った。ゲンジナは「わかりました」と言ってボーイを呼びドリンクを準備するよう伝える。
慣れていないというわけではないが、ゲンジナは今までのキャバクラ嬢達とは少し毛色が違うように思える。ウーロン茶でタプタプにされた腹を抱えながら伊地知は思わずゲンジナを盗み見た。
しばらくでボーイがドリンクを運んできて、五条は「他の女の子つけなくていいや」とボーイに言いつけた。

「えっ、フリーなのにいいんですか?」
「僕この店初めてじゃないしさー、指名したい子探してるってわけでもないんだよね」
「そうなんですね」

ゲンジナは少しだけ驚いた様子で、それを見るに五条、もとい「一条さん」を知らないらしい。

「メロンソーダとウーロンハイです」

ボーイがテーブルにドリンクを乗せる。メロンソーダを五条の前に、ウーロンハイは伊地知の前だ。
そこで伊地知が「あれ」とドリンクを見下ろす。五条がオーダーしたのはウーロンハイでなくウーロン茶だ。普段ならまぁいいかと飲むところだが、あいにく今日は運転があるからそうもいかない。

「すみません、ウーロン茶でお願いしたと思うんですが、あの、車で来ているのでアルコールはちょっと…」
「えっ、あ、すみません…!」

ゲンジナはウーロンハイのグラスと伊地知の顔を交互に見て「どうしよう」と言った具合に焦りを滲ませた。

「ごめんなさい、あの、自分でドリンク代払うんで、私飲みますね」

そう言って、ゲンジナは覚悟を決めたような顔をしてからグラスを手に取ると一気にウーロンハイを飲んでいく。およそキャバクラで嬢がやるような飲み方ではないそれを五条と伊地知は呆気に取られて見つめる。
ごくごくごくと聞こえてきそうな嚥下でウーロンハイが飲み込まれていき、カランと氷を鳴らしながらグラスがテーブルに戻された。

「はは、良い飲みっぷりだねー。別に気にしないから僕にドリンク代つけといて」

五条がへらりと笑うと、ゲンジナはしゅんと小さくなってもう一度「すみません」と謝った。
ゲンジナは近くのボーイを呼び寄せ、ウーロン茶をあらためて運んでくるように伝える。

「君あんまこの店で見たことないね。新人?」
「はい、今日初出勤で」
「へぇ、そうなんだ。別にドリンク1杯くらい気にしないで」

ありがとうございます、とゲンジナは五条と伊地知の方を見て少しだけ恥ずかしげに口角を上げた。羞恥からか酒のせいか、少しだけ頬が赤い。
伊地知はその何とも言えない表情にどこか惹きつけられて、目が離せなくなってしまった。


他の嬢の時はそうでもなかったのに、ゲンジナには五条からよく話しかけた。
ゲンジナはそれに相槌を打ち、そのやりとりが今までの二組の時に比べあまりに普通で、まるでただのお喋りのように聞こえる。
それは恐らく他の嬢達に比べてゲンジナの会話のテクニックが未熟なせいだった。

「一条様、そろそろお時間ですがどうされますか?」

ボーイが五条の近くに膝をつき、小さくそう告げる。
五条はちらりと腕時計を確認した。

「延長したいのは山々なんだけどねぇ、明日早いから今日は辞めとくよ」

五条がそう言うと、ボーイが「かしこまりました」と言って一礼して下がる。ようやくこのベロア生地のソファから解放されるらしい。
「僕ちょっとお手洗い」と言って五条が席を立ち、テーブルに伊地知とゲンジナだけが残された。

「あの、伊地知さん、ドリンクのオーダー間違えてしまってすみませんでした」
「いえ、間違いくらい誰しもあることですから気にしないでください」

思いのほか最初のオーダーミスを引きずっているらしいゲンジナが改めて伊地知に言った。ドリンク代を払うのは結局五条だろうし、まぁ別に自分であったとしても一杯くらいの代金でとやかく言うつもりはない。
そういうミスを普段しない子なのか、それともこの業界自体に慣れていないのか、考えても仕方のないことを伊地知は考えながら五条を待った。
しばらくで戻ってきた五条が会計を済ませると、見送りは最後にテーブルについていたゲンジナが行うらしく歩く二人の後ろをコツコツとついてくる。

「一条さん、伊地知さん、これ名刺です。今日作ったばっかりだから、よかったら持って帰ってください」

店を出るところでそう声をかけられ、二人は名刺を受け取った。黒い紙に金色で店名が印字され、ゲンジナの文字は白。
「またお待ちしてます」の常套句に送られながら、五条と伊地知はコインパーキングに向かって歩き出した。

「伊地知、ハマっちゃった?」
「…しばらくウーロン茶は見たくないです…」

今日だけで3枚の名刺が増えてしまった。こういう名刺の処遇はどうするべきなのか、伊地知は水分で満たされた胃をさすりながら五条の隣で考えていた。

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