13 さようなら

駆け付けた警察には伊地知が事情を簡単に説明した。ナマエが詳細に語ることがなくても伊地知は状況から判断してほぼ正確に事態を伝えることができた。
被害届の件について尋ねられ、ナマエは首を横に振った。それには伊地知が苦い顔をしたけれど、今は正直この場を早く離れたいという気持ちの方が強かった。

「帰宅して少し休んでから考えましょうか」
「…はい」

伊地知が自分を気遣ってそう言ってくれているということは充分に理解していて、ナマエは提案に素直に頷いた。それから伊地知の乗ってきた車の助手席に座り、緩やかに車が発進する。

「掴まれていたところ、痛くありませんか」
「…大丈夫です。伊地知さんが来てくれたおかげで殴られずに済みました」

精一杯へらりと笑って見せたけれど、口は歪にしか動かなかった。伊地知が来ていなければどうなっていたんだろうと思うとゾっとする。
伊地知はあまり問いただすような言葉をかけることなく、ナマエが話せるようになるのを待っているようだった。
ナマエは二、三度深呼吸をし、それから小さく口を開く。

「彼、暴力団の使い走りみたいなことしてるみたいんなんですけど、お店にそれが分かっちゃって、無用のトラブルを避けたいからってクビになっちゃいました」
「そう…でしたか」
「いままでもお店まで来た事なかったんで、プライド高いひとだから。それでどうせお店には来ないだろうと思ってたんですけど、今回はよっぽど気に入らなかったのか店まで来て暴れて」

事の顛末を説明しながら、ナマエはこの先のどうするべきかと考えた。この状態で家に戻ればケイが待ち失せているかもしれない。店にまで来たくらいだ。なりふり構わず自宅まで来ていてもおかしくない。
ささやかな空調の音だけがして、そのあと伊地知がゆっくりと口を開く。

「明日はスマホ買いに行きましょうか。昼間なら少し時間が取れますから、私も一緒に行きますよ」
「え…」

まるで普通のことを言われて、ナマエは面食らった。警察沙汰すれすれの、こんなに面倒なことに巻き込まれているというのに伊地知はそれでもナマエに手助けを続けるつもりらしい。伊地知はなんてことない顔をしていて「あ、でもコンビニのバイトがあるともしかして時間合いませんかね」と言葉を続ける。

「あ…明日はシフト休みなので…だいじょうぶ、だと…」
「そうですか。私の時間に合わせてもらって申し訳ないです」

伊地知がゆるりと目元を緩める。このひとはどれだけ他人に優しくすれば気が済むんだろうか。これが生来のものなのか培われたものなのかは想像が出来なかった。

「…伊地知さん、優しいですね」
「そうですか?」
「優しいです。こんなに優しくしてくれる人、私初めて出逢いました」

きっと今までなら胸の奥につっかえて簡単には出てこなかっただろう言葉がぽろりとこぼれた。

「でもそれはーー」

伊地知が何か言おうとしたところで、遮るようにナマエが預かっている私用スマホが鳴った。画面を確認して伊地知に着信の相手を報告しようとすると、ディスプレイに表示されていたのは「五条悟」の文字だった。

「あの、伊地知さん、お電話五条さんからみたいなんですが…」

ディスプレイを見せると、伊地知はちらりと横目で見ながら「五条さん?」と復唱する。丁度その時伊地知の業務用のスマホも鳴って、伊地知は車を路肩に寄せて停めた。

「五条さんは今私用スマホをミョウジさんに渡していると知っていてかけてきていますから、一度出ていただいてもいいですか?私の業務用の方は別件で鳴っているようなので…もしも私に用事のようでしたらすぐに折り返すと伝えてください」
「わかりました」

ナマエの応答を聞いたあと、伊地知は業務用の着信に応答しながら車を出て行った。ナマエも五条の着信に出なければと通話開始の緑をタップする。

「はい、ミョウジです」
『あ、ゲンジナちゃん、出た出た。伊地知が焦って出て行ったからさー、何かあったのかと思って』
「えっ、と…ちょっとトラブルが…」

相手はディスプレイの表示通り五条で、やはりナマエ宛てだったらしい。時刻は深夜二時。口ぶりから察するに五条も随分な時間まで仕事をしているらしい。あまりそうは見えないが、研究職か何かだろうかと考える。先日「私の職場」として連れていかれた場所もどうやら一般的な企業ではなさそうだった。

『トラブル?ゲンジナちゃんも巻き込まれ体質だねぇ』
「あ、いえ、この前のああいうのじゃなくて…その、いろいろあってお店クビになっちゃって」
『まじ?』
「はい、今日付けでスッパリと」
『えー、せっかくこれからゲンジナちゃん本指名しようかなぁって思ってたのになぁ』

本気か嘘かもわからない五条の言葉にナマエは「は…はぁ」と相槌を打つ。

『あ、じゃあゲンジナちゃんじゃなくてナマエちゃんだね』
「まぁ、お店での源氏名だったので」
『クビになったってこの先どうすんの?ダブルワークするくらいお金稼ぎたいんでしょ?』

会話のキャッチボールが多少一方的というか、ボールが投げられっぱなしのような気がしてならない。伊地知が振り回されているような様子をはたから見て感じていたが、こういうところがそれに繋がるのだろうか。そんなことを考えながら受け答えをしていたせいで口がすべった。

「…新しい仕事探しますよ…家も住めなくなるし…」
『家?』

聞き返され、そこでハッと要らないことまで口走っていたことに気が付く。しかも五条はそれを目ざとく、もとい耳ざとく見つけ、ナマエに「どういうこと?」と尋ねた。

「えっと…その、母が再婚して家を出ていくので、今のアパートはそれと同時に引き払う話になっていて…」
『へぇ、ナマエちゃんはついて行かないんだ?』
「はい。子供でもありませんし」
『なるほどね、それでお金が必要だったってワケか』

ひとつ口を滑らせたところからするすると暴かれていく。キャバクラで稼いだ金は殆どケイに渡しているからというのが一番大きな理由ではあったが、そんなところまで五条に説明する必要はないと会えて口を噤んだ。

『僕が超いい方法考えてあげるよ』
「えっ…」
『じゃあまた連絡するから。あ、新しいスマホ買ったら伊地知に僕の連絡先聞いといてね』

じゃあ。と五条は一方的に通話を終了する。悪人ではないと思うが、随分と自由奔放な男であると思った。
超いい方法というのがどういうものであるのか気にならないわけではないけれど、あまりいい予感はしない。

「すみません、お待たせしました」
「あ、おかえりなさい」

ちょうど伊地知が通話を終えて戻ってきて「五条さん、何でした?」と内容を尋ねられたので「伊地知さんが焦って来てくださったから心配してくれたみたいです」と、必要最低限のことだけを伝えた。


翌日、話していた通りケータイショップに向かって新しいスマホを契約した。身分証の類は持っていたのでそれだけは救いだ。それから一番に伊地知の連絡先を登録して、今度はメッセージアプリのIDも交換した。
まっさらになった気分だった。そこに一番初めに刻まれる名前が伊地知だと思うとくすぐったくて嬉しかった。

「メッセージアプリのほうがよく使いますか?」
「そうですね、五条さんが使うので…でもミョウジさんの連絡はメールでもどっちでもすぐに確認しますよ」

臆面もなくそう言って、これが天然なのだから少し、いや、かなりタチが悪い。きっと勘違いをしている女が他にもいるに違いないと思った。

「その、昨日の話では今日実家に帰るということにしてましたが…」

伊地知が少し口ごもるように言った。
昨日の朝の話では、今日までをケイから逃れるために伊地知の部屋で世話になり、その後は実家に戻るという話になっていたが状況が変わった。抑えの効かなくなったケイがナマエの実家に現れる可能性だって充分にある。

「…やっぱり実家に戻ります」
「ミョウジさん…」
「それで、母にちゃんと彼のことを話します。いままで迷惑かけたくなくて黙ってましたけど、ちゃんと話さずにいるの、良くないなって思ったので」

自分だけが我慢すればいいと思っていた。そうすれば誰にも迷惑が掛からない。母親に心配をかけることもない。そう思っていた自分に、まっすぐ手を差し伸べてくれる人が現れた。

「あの、伊地知さん、私が母と話すあいだ、一緒にいてもらってもいいですか…?」
「ええ、もちろん」

今なら話せなかったことも、しっかり話せる気がする。伊地知がそばにいてくれたらなおさら。
人を頼ることは恐ろしかったけれど、恐ろしいことでは決してないと、いまなら分かる。


ナマエが自宅の住所を伊地知に伝え、伊地知はカーナビに行き先設定をすると車を走らせた。道中は他愛もない、例えばこの前現れたコンビニの客の少し変わった話などをして、伊地知はナマエを緊張させてしまわないように丁寧に話を聞いた。
一時間も走らないうちに目的地へ辿り着き、伊地知とナマエはアパートに向かって歩いた。入り口近くの掲示板に『老朽化による取り壊しのお知らせ』が掲示されている。

「え、アパート取り壊されちゃうんですか?」
「あ、はい。少し先ですけど…なので来月引き払おうって話はしてたんです」

住民にはもうずっと前に知らされていたことだった。それもあって、母親の再婚に合わせて引き払う方向で調整していたのだ。
外階段をカンカンと音を立てながら登る。何からどうやって説明しようかと考えを巡らせていた。
二階の見慣れた自宅の扉の前に立ち、ナマエはかちゃんと玄関の鍵を開く。

「ただいま…お母さん、いる?」
「あらおかえり。帰ってこないし連絡もつかないから心配したわよ。ケイくんのところにいたの?」

居間から気配がして、母がひょこりと顔を出した。ナマエがひとりでないことに気が付き目を丸くする。

「えっと…そちらの方は…?」
「突然お邪魔します。都内の私立専門学校で事務員をしている伊地知と申します」

ナマエが話をする前に、伊地知がそう言ってぺこりと頭を下げた。伊地知が学校の事務員であると、そこで初めて知った。ナマエの母親は要領を得ない様子で「ナマエの母です…」と言葉を返す。

「あのね、お母さん。実は話があって、その…伊地知さんには助けてもらったから一緒に来てってお願いしたの」
「助けてもらってって…なにかあったの…?」

母はそう言いながら玄関先では何だから、と二人に部屋へ上がるよう促した。ナマエはちらりと横目で伊地知を見ると、伊地知は目を合わせて小さくうなずいた。
居間の小さなちゃぶ台を囲み、ナマエの母が三人分の緑茶を用意する。どこから話したものか、と、沈黙が続き、口を開いたのはナマエの母親だった。

「ナマエ、なにか、危ない目にあったの…?」
「あの…実は…」

ナマエは自分の手が震えていることに気が付いた。母に自分の言葉で自分の心を話すのは、これが初めてだった。ナマエの震える手を、伊地知が「大丈夫だ」とばかりにそっと握る。

「実は、私ずっとケイくんに暴力振るわれてたの…それで、あの、キャバの給料も殆どケイくんの借金に使われちゃってて…ケイくんと喧嘩して、お店まで来て大暴れされて、伊地知さんが助けてくれて…」

ナマエは空いた方の手でそっと自分のTシャツをめくり、母へ腹部に残るひどい痣を見せた。それを見て母の目はカッと見開かれ、わなわなと唇が震えた。それから腹部以外の場所も注視し、痣がそこだけに留まらないことを悟ったようだった。

「それで…」
「なんでこんなになるまで言ってくれなかったの…!」

きんっとした声が木造のアパートに響く。ナマエが「あの…」と言葉を吐き出そうとして、母はそれを手で制止した。

「ごめんなさい、違うわよね。母さんが言えなくしちゃってたのよね…」

我慢を覚えたのはいつからだっただろう。気が付いたらこうなっていた。自分が耐えれば、それが一番いいのだと思っていた。
母親は腰を上げてナマエにそろそろと歩み寄ると、小さく俯く身体をぎゅっと抱きしめた。母にこんなふうにされたのはいつ振りだろう。考えてもいつだったかも記憶がない。母は忙しいひとだった。

「気づいてあげられなくて、ごめんね」
「…ううん。わたしこそ、ごめんね」

もっと早く相談出来ていたらよかったのか、もっとナマエが自己犠牲を選ばなければよかったのか、正解はわからなかった。
ナマエの母はしばらくでナマエを解放し、伊地知へと向き直る。

「すみません、娘を助けていただいて…何てお礼を言ったらいいのか…」

そう言い、頭を深々と下げる。伊地知は慌てて「頭を上げてください!」と制止したが、ナマエの母は辞めずに頭をふるふると横に振る。

「きっと、一度だけじゃないんでしょう。この子がこうやって自分の話が出来るくらいまで向き合って下さったんですよね」

その通りだった。固く閉ざしていた扉を開こうと思わせてくれたのは何度も与えられる伊地知の優しさだった。ナマエの母親が「ありがとうございます」とまた深々と伊地知に頭を下げる。

「お母さん、私もう、大丈夫だよ」

さようならと、今なら昨日までの自分にちゃんとそう言ってあげられる気がする。だから今日から、前を向いて生きていける。

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