12 すきだから

同行する一級術師の七海が任務を終えた直後、南の方から妙な呪力を感じた。等級はそう高くはなさそうだが、住宅街においての発生は非常に好ましくない。もちろん七海もその気配に気がついていたようで、南の方を向いてフゥーっとおおきく息をついた。

「行きましょうか。別の術師を待って被害が出ても問題です」
「わかりました。すぐに車を回します」
「私も行きます」

伊地知は七海の言葉に頷き、近くのコインパーキングに停めていたセダンに乗り込んで二人で呪力の方向へ向けて出発した。
やはり住宅街に放っておくには危険な程度の呪力量である。目的の場所に辿り着くと、そこは公園であった。緊急事態とばかりに路肩に停車させ、伊地知と七海は公園の中に足を踏み入れる。
呪力の出所はトンネル型の遊具であった。住宅街であるため、伊地知は素早く帳を降ろす。その時だった。

「い、いや!なに、なにこれぇ!」

小さく女性の悲鳴が聞える。被害者がいるとか、呪霊の特性はなんだとか、そういうことを考える前に身体が動いた。あれはナマエの声だ。伊地知は駆け出して呪霊の発生源に向かった。

「ミョウジさん…!」
「伊地知君、下がってください」

それを追い越して七海がトンネルの出入り口に立ち、飲み込まれそうになっているナマエの腹のあたりに腕を伸ばすと、そのまま手前にぐっと引き上げる。引き渡されるようにナマエの身体を預かって、七海はそのまま祓除のためにトンネルの中に入った。

「ミョウジさん、お怪我はありませんか」
「は、はい…」

伊地知はうずくまるナマエの肩を抱くかたちで支え、ナマエは目を白黒とさせて混乱しているようだった。無理もない話だ。ナマエは黙ったまま大粒の涙をポロポロと溢す。伊地知は慌てて自分のポケットからハンカチを差し出した。

「え…えっと、その、ミョウジさんよかったらこれを」

七海が入ったトンネルから小さな音が立ち、盛大に土煙が上がる。それと同時に呪力が立ち消えていくのを感じた。
それから間もなくトンネルから窮屈そうに躯体を脱出させた七海がパンパンとスーツについた埃を払う。もちろん怪我などひとつもない。

「伊地知君、完了しました」
「はい。では帳を上げます」

帳を上げると昼の正しい明るさが戻ってきた。

「恐らく子供の呪霊ですね。等級は二級程度というところです。高専についたら報告書を上げますので伊地知君もこのあたりに何か被害が出ていないか調べてください」
「わかりました。戻り次第窓の報告を洗います」

そこまで話し、未だ状況の分かっていないだろうナマエに七海が視線を落としてそばに片膝をついた。伊地知もナマエの様子をそっと確認する。

「アナタもご無事で良かったです」
「あ、あの…助けていただいて…ありがとうございました…」
「いえ、お気になさらず」
「伊地知さんも、ありがとうございます。危ないところを助けていただいて…」
「はは、私は何もしていませんから。ミョウジさん立てそうですか?」
「は、はい…なんとか…」

伊地知はゆっくりと手を引き、ナマエを立ち上がらせた。よろよろ足が震えている。無理もない。彼女は呪いとは無関係の世界に生きる一般人だ。

「伊地知君、お知り合いでしたか」
「…実はメールのお相手の」

思わず声が小さくなる。なんだか自分の秘密を口にしているような気分になって気まずくなった。七海はそれ以上言及することはなく、これが五条相手であればこうはいかなかっただろうということは容易に想像がついた。

「申し遅れました、伊地知君の同僚の七海建人です」
「あ、えっと…ミョウジナマエといいます。あの、伊地知さんには何度か助けていただいて…」

七海はナマエに悪手を求め、ナマエもそれに応じた。それから七海は伊地知に向き直る。

「伊地知君、外傷がなければ彼女を自宅に送り届けて差し上げましょう」
「そうですね、ミョウジさん、ご自宅までお送りーーミョウジさん?」

ナマエの顔がサッと青くなる。呪霊に怯えるにしては少しタイミングがおかしいように感じた。ナマエが震え、かちかちと歯が鳴る音がする。
それから恐る恐るといった様子で口を開いた。

「あ、あの…いえは…こ、困ります…その…あの…」

ナマエが手を唇に添え、伊地知はそこに浮き上がる真新しい痣をじっと見つめた。それから視線を首元に向ける。そこにもうっすらと力を掛けられたような痕がある。
五条から聞いた、掴まれたような痣の話。それから首を締められたような痕の話。自分を顧みない彼女の態度。

「…七海さん、一度彼女を高専に連れて行っても構いませんか」
「…伊地知君がそう判断したのなら、私は反対しませんよ」

彼女は被害者とはいえ重大な怪我をしているほどではない。秘匿の観点からすれば規程違反になる可能性もある。しかしそれを押しても彼女をひとりにするのは得策ではないと思えた。
ナマエが庇うように手を当て、伊地知はそれをみとめてかた肩に手を置き、視線を合わせるようにして話を始める。

「ミョウジさん、一度私たちの職場についてきて下さいませんか。先程の心霊現象について、少し伺いたいんですが…」
「え、は、はい…大丈夫です…」

伊地知の提案に、ナマエはホッと胸を撫で下ろしたようだった。はやり何か帰れない理由があると見える。「では行きましょうか」とナマエを促し、公園の近くに停めているセダンに向かう。
普段は後部座席に乗る七海がナマエを気遣って助手席に乗り込んだ。エンジンをかけてゆっくりと走り出せば、ナマエがゆっくりと舟をこぎ始める。

「ミョウジさん、寝ていてくださって結構ですよ。ついたら声をかけますから」
「そ、そんなわけには…」

そうは返ってきたものの、数分後にバックミラーを確認するとすっかり寝落ちてしまったようだった。

「伊地知君、彼女は全く見えない側の人間のようですね」
「はい。一般の方で普段はコンビニとその…飲食店というかサービス業というか、そういうところで勤務されている普通の女性ですよ」
「では、あの大量の痣や痕はそういった戦闘や厄介ごとで出来ているわけではないと…」

伊地知は「十中八九は」と七海の問いかけを肯定した。七海もナマエの身体に残る傷跡を見破っていた。当たり前だ。仕事柄観察はしてしまうだろうし、彼女の身体は服を着ている状態でもわかるほどの有り様だった。


それから寝落ちたナマエを医務室に運び、念のためにと家入に診察を依頼した。任せたまま今度は自分の仕事を片付けるべく事務室に向かって、本来の任務と飛び入りで祓除した公園の呪霊についての資料と報告書を作成する。
内線で家入から健康状態に異常はない旨を聞き、そろそろ起きることろかと書類をまとめてから医務室に向かった。引き戸をコンコンとノックして「失礼します」と断ってから開く。
室内にはナマエと五条と家入がいて、ナマエの顔色は随分マシになっているように思えた。

「ミョウジさん、目が覚めましたか」
「伊地知さん、すみません。ご面倒をおかけして…」
「いえ、突然のことで驚かれたでしょうから、当然です」

ナマエのそばまで歩み寄り、様子を確認する。痛々しい痣は残されたままだが、家入の言う通り何か呪霊の影響などはなさそうに思えた。

「家入さんの診察も問題なければ折りを見てお送りしますが、ご自宅でない方がいいですか?」
「その…家には帰れなくて、今日はネットカフェか何かに泊まるので大丈夫です」

伊地知はその話にぐっと眉を顰める。今どきそういう話は少なくないとは思うけれど、女性がひとりでネットカフェに泊まるなんて推奨できるわけがない。ましてや自分が気にかけている相手ならなおさら。
伊地知がその意見に反対をしようとすると、先に口を開いたのは五条だった。

「女の子一人でネカフェは危ないでしょー」
「あはは、大丈夫です。今までも何回か泊まったことありますし…」
「イヤイヤ、今までが良かったからってこれからも大丈夫とは限らないよ?」

ちゃらんぽらんな五条にしては尤もな意見である。伊地知は流石にこれは賛成だぞと思いながら小さくうなずくと続いたのはとんでもない提案だった。

「泊まるとこないなら、伊地知の部屋に泊めたければ?」
「はっ!?」
「えっ」
「だって心霊現象にあったばっかで心細いか弱い女の子だよ?伊地知はそんな子をどんな男がいるとも知れないネカフェに送り込んで良いわけ?」

それはそうだ。呪霊云々の話の前に安全面を考慮すればネットカフェなんて賛成できるはずがなく、つい先ほどもそれを考えていたところだった。しかしそれが伊地知の部屋に泊めるとなれば話は随分変わってくる。どうにか穏便に断ろうとしていたら、家入の「私も今回ばかりは五条に賛成だな。伊地知なら安心だろう、私が保証するよ」という援護射撃により、なし崩し的にナマエを伊地知の部屋へ泊めることになったのだった。


自宅へ向かうまでの道中、伊地知はナマエに「帰れない理由」を尋ねた。てっきり家庭内暴力の類だと思っていたが、相手はナマエの恋人なのだという。そして暴力を振るわれていることを母に知られて心配をかけたくないと自宅に帰るのを拒んでいるというのだ。
恋人に縋って謝られると許してしまう。ナマエはそれがDVだとよくわかっていたが、もう恐怖から逃げ出せなくなっているようだった。
ナマエは力なく笑ったが、伊地知はすこしも笑えなかった。彼女はこんなにも暴力を受け、傷つき、そして逃げられないでいる。自分に一体何ができるだろう。

「辛いことを話してくださってありがとうございます。話を聞かせていただいたからには、可能な限りミョウジさんをサポートします」
「え、そんな…悪いですよ…」
「私がしたいんです」

彼女の手助けをしたい。それがどういう感情からくるものなのか、もう認めなくてはならないだろうと、心の中でもう一人の自分が言った。
マンションにつくと、連れ立って最低限の日用品と食材を購入しに向かった。二人で台所に立つのはかなりくすぐったく思えたが、ナマエの手際の良さは見ていて驚かされるものがあった。
それから二人で食卓を囲み、ナマエを先に風呂に入れた。自分ではない誰かが自分の部屋のシャワーを使っているなんてのはもう覚えもないくらい昔のことで、漏れ聞こえる水の音に年甲斐もなく緊張した。

「シャワー、先にいただきました」
「いえ。では私も入ってきますので、適当に寛いでいてくださいね」

そう声をかけてから風呂の扉をあけると、当然ながら先ほどまでナマエが使っていたためにじんわりと熱が残っている。それにカッと顔が熱くなるのを感じ、伊地知は自分の頬をパンっと両手叩いた。
緊張したままだったが、風呂が終わるころには多少それも緩和され、伊地知は寝巻にしているTシャツとハーフパンツを履いてキッチンに寄ってからリビングに向かう。

「ミョウジさんも飲みますか」
「えっ、あ、はい」

ビールの缶を差し出すと、ナマエは少し驚いた顔をしていて、あまり酒は得意じゃなさそうだと五条が言っていたことを思い出した。「あ、すみません、お酒苦手なんでしたっけ」と缶を引っ込めようとすれば「い、いえ、いただきます!」と制止されてビールはナマエの手の中に納まった。
術師の送迎も仕事に含まれるから、飲酒ができる機会は意外と少ない。久しぶりのビールだなと思いながら、伊地知はナマエと乾杯をした。


ソファで寝るのは幸か不幸か得意科目である。家に帰れないときは良くて高専の仮眠室で、最悪車の中や事務室の簡易応接のソファに身を縮めて寝転がることもしばしばだ。
だからタオルケットを腹にかけただけの状態でもしっかりと眠れる自信が伊地知にはあった。
眠りの中で不意に、太ももの上に重さを感じて身じろぎをする。一体なんだ、と思って緩慢な動作でまばたきをすると、暗闇の中に浮かび上がった影にサッと頭が覚醒した。太ももの上に乗っていたのは自分のベッドに寝かせていたはずのナマエだったのだ。

「ちょ…ミョウジさん…!?何してるんですか!?」

ナマエは黙ったまま伊地知の腹にかかっていたタオルケットを取り去り、ハーフパンツのズボンのゴムに手をかける。ナマエがこの先何をするつもりでいるのかなんてことは明白で、伊地知は咄嗟にナマエの手を掴んで止めた。

「ミョウジさん!」
「あの、ごめんなさい、その、私お返しできるものがこれくらいしかなくて…」

ナマエが下に落とした視線を左右に彷徨わせ、申し訳なさそうに唇を噛む。その表情に、伊地知は「一体どんな生活を送ってきたらこんな発想になるんだ」と唖然とした。
自分を顧みない彼女の言動はこんな行動を取らせるほどに浸透している。どうして彼女がそんなふうにならなければいけないんだと伊地知は行き場のない感情を彷徨わせた。

「私は見返りを求めてあなたをサポートしているわけではありません。こんなことしなくてもいいんです」

伊地知は上体を起こし、太ももに跨っていたナマエを退かせると向き合うようにソファの上に正座する。自分を大切にして欲しい。あなただから、なおさら。それどうやったら彼女に正しく伝えることができるだろう。

「ミョウジさんは、もっと自分を大切にしてください。あなた自身をこうして消費する必要はありません。こういうことはちゃんと好きな相手にだけすればいいんですよ」
「でも…」
「大丈夫です。私はあなたが何も差し出さなくてもできる限りのことはしますから」

伊地知がじっとナマエを見つめ、ナマエも落としていた視線を徐々に上げた。そのうちにパチリと視線がかち合い、伊地知は眉を下げて笑う。
きっと、彼女は正しい愛し方も、愛され方も知らないのだと思う。自分だっていつも正しくいる自信などは毛頭ないが、彼女には正しい愛され方を知って欲しいと思う。
小さくナマエが伊地知の名前を呼び、また小さくすみませんと謝った。

「こういう時は、ありがとう、でいいと思いますよ」
「…はい。ありがとうございます」
「どういたしまして」

叶うならばその正しい愛され方を教える人間が、自分であればいいと思ってしまうくらいに、伊地知はもうナマエへの感情に言い訳が出来なくなっていた。


ごくごく正直な気持ちを言えば、流されてしまいたかったという気持ちがなかったとは言い難かった。伊地知は男であって、彼女は伊地知が守りたいと思うほどの女性である。本能の部分で言えば悪魔は囁いたけれど、大切にしたいからこそ順番を無茶苦茶にして、手段のような形で関係を持つのは避けたかった。
ナマエにほとんど使わない私用スマホを応急処置で持たせたら五条が面白がって任務中に電話をしていて、変なことを言っていないか気が気じゃない。
伊地知は深夜1時にその日の仕事を終え、ナマエを迎えに行くべく伊地知は業務用のスマホからナマエに預けている使用スマホにメールを送った。

『伊地知です。こちらは先程終わりましたので今から向かいます。ミョウジさんも仕事が終わったら連絡を下さい』

数分ののちに『今日は早めに上がったのでさっき店を出ました』という返信を受け取り、それを見てなんだか根拠もなく胸騒ぎがした。他の従業員がいるところであれば滅多なことはないと思うが、酔っ払いばかりのあの街で女性がひとりふらふらと歩いているのが安全とは言い難い。

『わかりました。なるべく早くそちらに向かいますので、明るいところで待っていてください』

伊地知はそう返信を入れ、抜け道を使って歌舞伎町に急ぐ。通常の所要時間よりは随分と短い時間で歌舞伎町に辿り着き、コインパーキングへ車を止めるとナマエの店のほうへと走った。
駅とは反対側に人だかりが出来ていて、その先から「女のくせにバカにしやがって!」という男の怒号が聞えた。心臓がひゅっと冷えていく。
伊地知は外野をかき分け、喚き散らす男の向こう側にナマエの姿を見つけた。

「ミョウジさんから離れなさい!」

私の体くらいどうってことない。そう言った感情の抜け落ちた顔は、未だに伊地知の胸に深く突き刺さっている。
何かが起きてしまうならその前に、最低でも最悪の事態になる前に、可能であれば自分の手で、何とか彼女を掬い上げたい。
彼女を暗闇から助け出したい。彼女のことが、好きだから。

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