10 ゆめごこち

洗濯機で乾燥まで済ませた服に袖を通し、とたとたとリビングに向かうと、バターと小麦のいい香りがしてきた。中を覗けば伊地知が朝食を用意している。

「おはようございます、昨晩は眠れましたか」
「おはようございます。はい。おかげさまで…」

本当は夜型の生活に慣れているのと緊張と日中の出来事への恐怖でそこまで眠れたわけではなかったが、ナマエは伊地知に心配させまいとそう言った。伊地知は少し間を取った後に「それはよかったです」と相槌を打ってナマエに洗面所で顔を洗ってくるように言った。
あの間はバレたかもしれないな、と考えながら洗面所に向かい、ぱちゃぱちゃと顔を洗う。もう一度リビングに戻って、用意二人でローテーブルを囲んだ。テーブルにはトーストとサラダとヨーグルトが乗っている。

「これからの話ですが、少なくともあと数日間はこの家を使った方がいいのではないかと考えていたんです」
「そんな…悪いですよ。今日は友達にでも声かけてみます」

ナマエはそう断ったが、実際に頼れる友人がいるわけではない。しかしこれ以上伊地知の厚意に甘えるのは気が引けたし、万が一伊地知を巻き込むようなことになってしまったらもっと申し訳ない。
伊地知は黙ってナマエを見て、一度手を止めて口を開いた。

「嘘、ですよね」
「え?」
「本当は、頼る先がないんじゃないですか」

言い当てられてしまったナマエは思わずぽろりとフォークを取り落とし、慌てて拾う。

「ミョウジさんが何か考えがあってのことならもちろん私に口出しすることはできませんけど、単純に私に遠慮しているだけならそれは無用です」
「…でも、私なんか匿っても伊地知さんにメリットがないです」
「それは、損得で考えていませんから」

ナマエは伊地知の顔をそろりと見る。

「あえて損得の話をするならミョウジさんを見守っていられるんだから充分得ですよ」

伊地知はナマエに気を遣わせないためにそう言って少し笑い、ナマエはその優しさにむず痒さと心地よさを感じて押し黙った。
結局明日まではケイから逃れるために伊地知の元で厄介になり、その後は実家に戻るという話で決まった。いつもならろくに朝食を食べられないくせに、朝ごはんに出されたトーストとサラダとヨーグルトはぺろりと平らげてしまった。


昼前になり、コンビニのアルバイトの出勤時間が迫る。恐ろしいことに今朝五条から「今日の送迎は要らないから夕方までオフ」という連絡を受けた伊地知はナマエに勤務先のコンビニまで送ることを申し出た。また恐縮するナマエに「少し日用品も買い足したかったので」と付け加え、二人で車に乗り込んだ。都心にあるコンビニは用品の買い物に行くついでなどではないのは明らかだが、ナマエは伊地知が甘えさせてくれることが嬉しかった。
車内では取り留めのない会話が続き、ぽつぽつと交わされるそれらが心地よく感じた。この人が、私の恋人だったらどんなに素敵だろう。分不相応なことを考えてしまった、とナマエはハッと運転席から視線を逸らした。

「そのままお店に向かいますよね?お店の方は閉店時間何時くらいなんですか?」
「夜中の2時です。お店の車でいつもそこそこの場所に送ってもらうので、後は適当に時間潰して始発で伊地知さんのマンションにお邪魔しようかと…」
「1時くらいまでは仕事ですが、2時なら迎えに行けますよ」
「えっ!」
「あ、でもああいう嬢の方って迎えの車に男が乗ってるって良くないんですかね」

すみません、そういうところがわからなくて。と伊地知が続けた。
夜中の2時と言うと、ほとんどの社会人が眠っているか、そうでなくても家でくつろいでいるような時間である。しかも伊地知は夜中の1時までは仕事だと言った。何か夜勤の発生する現場作業者ではないように思えるが、一体何の仕事をしているのか。

「少し離れた場所に車を回しますから、お仕事終わったら連絡ください」
「あ、はい…」

ナマエは驚いている間に思わずそう口走り、迎えの約束が成立してしまった。手間をかけさせてしまうのは申し訳なくもあったが、伊地知とうごせる時間が増えるのは嬉しいことだった。

「あの、伊地知さんすみません、そういえば私スマホなくて…」

恋人に壊されてしまったので…と補足する。ケイに取り上げられたあとスマホがどうなっているかはわからないが、察するに無事で返ってくることはないだろう。
伊地知はポケットから白い本体に透明のカバーが付けられているだけのスマホを取り出し、ナマエに持たせる。

「私の私用のスマホです。今日は連絡用にそれを持って行って下さい」
「えっ!そんな流石に…!」
「私用の方は滅多に連絡はありませんから問題ないですよ。仕事の連絡は業務用で事足りますから」

そう言いながら信号待ちで伊地知はナマエからスマホを抜き取りパスワード設定を解除してもう一度ナマエの手の中に戻す。ホーム画面の壁紙は恐らく伊地知が撮ったであろう野良猫の写真だった。


コンビニまで送り届けられたナマエは他人のスマホがポケットに入っているという状況にソワソワとしながら業務にあたった。大した連絡はないと言われてももし大事な着信があったらどうすればいいんだろうか。

「あら、ミョウジさん何かいいことでもあった?」
「えっ、あ、そいういわけでは…」

パートのおばさんに言われて、初めて自分が浮き足立っていると気がついた。恥ずかしい。ナマエは無駄に咳払いをして改めて業務に集中することにした。
結局、本当に伊地知のスマホはダイレクトメールのひとつも届かなかった。ナマエは意味もなくホーム画面の野良猫を眺め、伊地知さんは猫が好きなんだな、と新しい発見にどこか心の隅が温かくなるように感じた。
コンビニで退勤の準備を済ませ、キャバクラに向かうまでのささやかな時間調整をする。バックヤードの狭いスペースでまた野良猫を眺めていたら、不意に画面が切り替わって着信が入ってきた。ディズプレイには「五条悟」と書いてある。
これはどうするべきかと思っていると、バックヤードの物音に驚いて思わず指が通話のボタンに触れてしまった。

『もっしもーし。あれ?聞こえてる?』

どうしよう、出るつもりなんかなかったのに。スマホの向こう側から男の声が聞こえる。この人物と伊地知の関係はわからないが、スマホを拾っただとか持ち主は席を外しているところだとか嘘をつくべきか、本当のことを話すべきか。ナマエは恐る恐るスマホに耳を近づけた。

「も、もしもし…」
『あれ、女の子?伊地知は?』
「えっと、あの、その…」

もういっそ終話ボタンを押してしまっていた方が良かったのではないかとナマエがしどろもどろになっていたら、電話口で盛大に笑われた。

『あははは!そんな焦んなくても伊地知から聞いてるってば!』
「え……あ」

そうだ、五条悟。店には一条の名前で通っていたから昨日本名を聞いていたはずなのに咄嗟に出てこなかった。
ひとしきり笑った五条は息を整えて「面白いことになってるらしいから電話しちゃった」と悪びれる様子もなく言う。

『私用スマホ渡されるとかさー、連絡用だっつっても突拍子なさすぎない?』
「いや、その、私もびっくりしました…」
『あいつ時々こうやって天然かますんだよねぇ』

電話の向こう側では何かがぶつかるような物音が聞こえる。解体現場のような、何か大きなものが壊される時の音に似ていた。どこか屋外を移動でもしてるんだろうか。

『昨日どうだった?』
「どうって言われましても…」
『ほら、年頃の男女がひとつ屋根の下よ?なんか起こったっておかしくないでしょ?』
「五条さんの期待されてるようなことは何にもなかったですけど」

確かに起こってもおかしくはなかったが、見事に伊地知によって止められたため、健全な夜を過ごすに留まっている。それを聞いた五条は『マジで?あいつチキンすぎんだろ』とケラケラ笑った。
なるほど、このちょっかいをかけたくてわざわざナマエが所持していると知りながら伊地知の私用スマホに連絡を寄越したようだ。
そのうちに五条の向こうの物音が止み、電話口のもっと向こうから『お疲れ様です』という声が聞こえた。伊地知の声だ。

『え、五条さんまさか電話しながら…?』
『ああ、こんなクソ雑魚余裕だし』
『はぁ…』
『それよりこの電話の相手当ててみ』

電話の向こうで会話が続けられる。伊地知はいま五条と一緒にいるらしかった。
一体どんな仕事をしているのかと勘繰らないわけではないが、わかったところでどうしようもない。

『ヒント1、相手は女の子です』
『家入さんですか?』
『硝子が女の子ってタマかよ。ヒント2、彼女はいまからお仕事です』
『え、まさか…』
『ヒント3、繋がってるのは伊地知の私用スマホです』
『ちょ、何電話してるんですか…!』

なんだか二人のやりとりが目に浮かぶようでナマエは少し笑いをこぼした。あまり詳しくはないが、伊地知が五条に振り回されるのはいつものことなのだろう。
そこからも電話口でやいのやいのと言う声が聞こえ、最終的に五条の「じゃあまたね」と言う言葉で通話が終了した。
終了した直後に業務用と登録されている連絡先から『ミョウジさん、お仕事の邪魔をしてすみません』とメールが入る。伊地知だろう。
届いたメールの通知をタップするとメールアプリが立ち上がり、業務用、のすぐ下にミョウジナマエと登録されているやり取りがあった。その下の知らない名前の人物とのやり取りはもう三ヶ月近く前で、あのまめな連絡は自分とだけ取り合ってくれていたのだと思うとくすぐったくなった。


コンビニから店に向かい、こんなこともあろうかとと用意していたドレスを自分のロッカーから取り出すと嬢たち御用達のヘアサロンに向かった。節約のために気合を入れる日以外はなるべく自分でメイクもヘアセットもしているが、道具も一切持っていないのだから今日ばかりは仕方ない。
顔なじみというほどでもない店員にメイクとヘアセットを施してもらう。トップ争いをする先輩たちと同じくらい華やかにはなれたが、その分高くついてしまった。
開店前に店に入り、お客様ノートを取り出しておさらいする。大して指名のない状態だからこそ今ある稼ぎを減らすわけにはいかない。
そこそこで人が集まり始め、ナマエは自分のマネジメントをしているボーイを見つけると「すみません」と話しかけた。

「ゲンジナちゃんおはよう。今日気合い入ってるねー」
「あはは。ちょっといろいろあって…あの、スマホ壊れちゃって、明日には買いに行く予定なんですけど、少しの間連絡が取れないから報告しておこうと思って…」
「え、マジ?営業用の?」
「いえ、プライベートのも営業用のも両方です」

ナマエがそう言うと、ボーイは「災難だったねー」と軽く労わるように声をかける。正直なところDV彼氏と喧嘩してスマホを壊されただとか、喧嘩をしてマトモに使えなくなっただとか、諍いの末に水没させられたとか、理由は様々あるがスマホが壊れる程度のことは日常茶飯事だ。ボーイも深く聞くことはなく「新しく買ったらまた教えてね」とだけ言って自分の仕事に戻っていった。

そうこうしている間に開店時間になる。
同伴の予定もなく出勤しているナマエはカウンターでドリンクを作る仕事から始まった。人気のキャストたちが次々と同伴で出勤し、ベロアのボックス席が埋まっていく。ボーイの聞いていたオーダーを聞きながらカウンターの中でせっせとドリンクを作ること一時間。そろそろ待機席に移動して、と言われて店の中心部にある待機席に移動した。

「ゲンジナちゃん気合い入ってるじゃん。今日本指名あるの?」
「あ、いえ、ちょっとたまたまというか…」
「へぇ、そうなの?カワイイよ」

待機席で話を振ってきたのはアイシャであった。ナマエが普段ヘアメイクを自分でやっているということを知っているがゆえにボーイのように「気合いが入っている」と声をかけてきた。メイク道具を取りに戻れないからと仕方なくサロンに行っただけなのだが、褒められるのは純粋に嬉しいものがあった。

「…ありがとうございます」
「素直でよろしい」

それに今日は、仕事が終われば伊地知が迎えに来てくれる。そしてまた伊地知の部屋に泊まって、夢みたいに穏やかな時間を過ごすことが出来る。
今夜は指名が入るだろうか。サロン代もいつもよりかかってしまっているし、出来れば少しでも稼ぎたいところだ。
そう考えたところで急に指名客が増えるわけでもなく、いつも通りにフリーの客についたりヘルプに回ったりとそこそこに忙しなく働いていた。
あっという間に閉店まで残り一時間ほどになり、にわかに出入り口が騒がしくなる。こういう場所だし騒ぐ人間がいないわけではない。とはいえ、度が過ぎれば店を守るために控えている黒服が対処するのでそこまでの不安はない。
今日は一体何の騒ぎだろうか、と出入り口を眺めていたら、激しい調子で男が叫んだ。

「ナマエを出せ…!」

ナマエはびくりと肩を震わせた。まさかここまで来ると思っていなかった。
あれはケイの声だ。

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