stop and smell the roses
ナマエが補助監督を庇って怪我をした、と聞いたのは出張先でのことだった。怪我と言っても呪術師には良くある程度の怪我であり、家入の反転術式の対応も早かったため傷痕も残っていない程度だという。何よりナマエ本人の通話でそれを聞いたから、心配して何もかも投げて駆け付けるような事態ではないことは明白だった。

「まぁ、とはいってもだよね」

そう何もかも投げて駆け付けるような事態でないにしても、可愛い彼女が怪我をしたというのならば、駆け付けない道理はない。さすがに仕事をリスケすることはしなかったけれど、入っていた予定をすべて巻きで終わらせて高専に急いだ。
さて、ナマエはどこにいるのか。三年になって二年の頃よりも現場が多くなった彼女のスケジュールはまだよく把握できていない。きょろきょろと彼女を探していると、小さい背中を遠くに見つける。駆け寄って名前を呼ぼうとして、夏油より先に他の男がナマエの名前を呼んだ。

「ミョウジさん!あの、昨日の傷の具合は…」
「あ、お疲れ様です。大丈夫ですよ。もう反転で治してもらったので…」

ナマエに声をかけていたのは見たことのない補助監督の男のようだった。ナマエが庇った補助監督なのか否かはわからないが、そのことで話をしていることは間違いないようだ。問題はナマエのことを見つめる視線に宿っている熱だった。絶対あいつナマエに気があるだろ、と思うにあまりある熱心さで会話を続けている。尤も、それには夏油自身のバイアスが少なからずかかっているところはあるのだろうけれども。

「あの、ミョウジさん、お詫びと言ってはなんですが今度──」
「ナマエ」

男が最後まで言い切る前に割り込んだ。どこかに誘おうなんて冗談じゃない。夏油に名前を呼ばれたナマエは振り返ってパァっと顔を明るくした。驚いている補助監督の男を放っておいたまま、およそただの先輩後輩関係とは思えないだろう距離感まで近づく。

「こちらの方は?」
「あっ、京都から赴任された補助監督の方です」
「そうなんですか。初めまして、夏油傑です」

夏油の名前を聞いて補助監督の男の口角が痙攣するのがわかった。フリーになったとはいえ、未だ高専からの扱いは特級術師である。日本に三人しかいない特級術師の存在を補助監督が知らないわけがない。そういえば高専に所属しない一級相当の実力を持った呪術師のことを特別一級術師と呼ぶが、自分の場合は特別特級術師になるのだろうか。いやそれはややこしいからないかな。と、しょうもないことに思考を飛ばした。

「いつもナマエがお世話になってます」
「あ、いえ…特級術師殿にお会いできて光栄です!あの、自分は仕事に戻りますので…」

男はそう言って尻尾を巻いて逃げ出した。賢明な判断だったと言える。まぁナマエには少し格好悪いところを見せてしまったかな、と多少のバツの悪さのようなものを覚えるが、背に腹は代えられない。

「ナマエ、身体の具合はどうだい?」
「ピンピンしてます!本当にかすり傷でしたから」
「怪我したの、左腕だっけ」

夏油はナマエの左腕をそっと持ち上げ制服の袖口を軽くまくる。前腕を怪我したらしく、ナマエは手首と肘のちょうど真ん中のあたりを指さして「ここです」と言った。電話で聞いていた通り、きれいさっぱり傷痕まで消えているようだ。
夏油はそのまま傷ついただろうところに顔を近づけ、唇を寄せる。小さくリップ音が鳴って、ナマエが焦ったように「傑先輩ッ!」と咎めて名前を呼ぶ。

「ナマエ、明日授業も任務もないって言ってたよね」
「え?あ、はい…」
「じゃあ、今晩うちに来ない?最近ゆっくり会えてなかっただろう?」

今晩、という誘い方をしてどういう意味を孕んでいるのか想像出来ないほど彼女もお子様ではない。まぁ、むしろそういうふうに育てていると言っても過言ではないのだけれど。ナマエは少し躊躇うような間を置いてから「お、お泊りセット用意してきます…」と蚊の鳴くような声で答えた。


ナマエを待つ間、自分の用事をあれこれと済ませ、この先の任務の斡旋についての折衝をする。折衝相手が元担任教師であるのは非常にラクだった。今はまだ独立間もないし、高専からの依頼をメインにこなしているけれど、いずれはもっと他からも仕事を受けて高専に依存しない体勢を整えたい。

「傑先輩、お待たせしました。…傑先輩?」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事」
「お疲れですか?最近すっごく任務詰まってるみたいですもんね。五条先輩が言ってました」

ナマエが準備をして戻ってきたことにも気が付いていなかったみたいだ。せっかくナマエと一緒の時間を過ごせるのだし、ここからは仕事のことは考えないようにしよう。ナマエの着替えなどが詰まっているだろうボストンバッグを取り上げると、早速自宅マンションへ向かう。ナマエがあれこれと近況報告をしてくれた。高専での生活が懐かしくないわけではないから、こうして話を聞いていると少し名残り惜しいような気持ちにもなった。

「そういえばナマエ、あの補助監督と仲良いの?」
「あのって…京都から赴任してきた方ですか?別にそんなに仲がいいとかじゃないですけど…」

尋ねた動機は単なる嫉妬心なのだけれど、それに気が付いていないらしいナマエはきょとんと首をかしげている。「あの補助監督、絶対ナマエに気があるから注意しといて」と言えば、案の定ナマエは「まさかぁ」と言って笑っていた。そういう鈍いところも可愛いのだが、だからどうしても心配になるのだ。離れて生活をすることのデメリットがこんなところに出てくるとは思わなかった。

「無防備なナマエにはお仕置きが必要かな?」
「えっ…!」
「はは、冗談だよ」

まぁ半分は、冗談ではないのだけれど。自分の目の届かないところで彼女が怪我をしたり、他の男に好意を持たれていたりすることを目の当たりにして、心の余裕というものが多少なくなってしまっているのを自分でも感じる。
マンションに着くと、それなりに夕食を作って食べて、先にナマエを風呂に入れた。まぁ言わずもがな今日は彼女のことを抱くつもりなのだけれど、昼間に点いた嫉妬の炎がまだ強めにメラメラと燃えている。ちょっと冷静にならないと彼女を手ひどく抱いてしまいそうで、自分を落ち着けるために大きく深呼吸をした。

「はぁ……余裕なさすぎだろ」

ナマエと付き合うことになってからしばらく経つが、彼女が自分の手からすり抜けてしまうんじゃないかという不安のようなものがずっとグルグル渦巻いている。寮に住んでいたころと違って会えない時間が長くなったから、それも不安を増長しているひとつかもしれない。

「傑先輩、お風呂ありがとうございました」
「…ああ、早かったね」
「え?そうですか?長風呂しちゃったかなって思ってたんですけど…」

そう言われてナマエ越しに時計を確認すると、確かに早いという程の時間じゃなかった。自分に向き合うのに必死すぎて時間の感覚がおかしくなっていたらしい。どうかしたのか、と言わんばかりのナマエの視線に気がつかないフリをして、これ以上格好悪いところは見せられないと頭を冷やすのも兼ねて風呂場に向かった。
ナマエが使ったばかりの風呂場はまだもくもくと湯気が立ち込めている。それに下半身がしっかり反応してしまう程度には、本能も剥き出しのままである。まぁどうにか歩ける程度には身体の熱を鎮め、リビングに戻るとナマエがソファの上に寝転がり、パジャマのショートパンツから無防備に足を伸ばして寛いでいた。
これから何をするかなんて知っていてこの無防備さなんだから、気を許されていることに喜ぶべきなのか嘆くべきなのかわからない。

「ナマエ」
「あっ、傑せんぱ…っ…えぇ!?」
「無防備すぎ」
「だ、だって傑先輩の家だから……」
「それでもだよ。そんなに私のことを煽りたいのかい?」

ソファに寝そべる彼女の腰のあたりにのしっと跨る。自分の言っていることは概ね言いがかりだという自覚はあるけれど、まぁそれというよりは戯れのようなものに近いだろう。ナマエのパジャマの裾から手を伸ばす。温まっていつもより柔らかくなった肌は普段以上に手のひらに吸いついてくるように感じた。すりすりと脇腹を撫で、くすぐったそうにナマエが身をよじる。

「んっ…すぐるせんぱい…くすぐったい…」
「ナマエが触り心地いいのが悪い」
「ふふ、なんですかそれ」

じゃれるように脇腹をくすぐり、ナマエは足を小さくパタパタと動かした。甘いシャンプーの香りが漂い、まるで果実のように感じるそれをかじるように首筋を甘噛みした。

「あっ…んっ……それっ……」
「ナマエ、甘い」
「んぅ……んっ……なんかそれ…ぞわぞわ、しますっ…アッ、だめ…」
「おや、意外なイイところ発見かな」

首を甘噛みされるのをお気に召したのか、ナマエの身体が小さく痙攣する。自分だけでいい。彼女のこんなに甘い姿を見られるのは。そもそも今だってそうなのだし、彼女が別に他の誰にそれを許す訳でもない。分かっているのに勝手に不安のようなものが肥大化して、自分を飲み込んで焦らせる。

「傑先輩…今日、なんか…違う…?」
「え…?」

顔も見えないはずなのに何を感じ取ったのか、ナマエが不意にそんなことを言った。自分の頭の中身を見透かされたような気まずさを覚え夏油が閉口すると、ナマエがもぞもぞと身じろぎをして身体を反転させて、下から夏油を見上げるように体勢を変える。

「…何か、おかしかった?」
「ええっと、そういうのじゃないんですけど…なんていうんだろ…いつもより、ちょっとだけ…強引?」

図星をしっかり突かれて、自分の思考がそんなにも鼓動の端々まで出てしまっていたのかと呆れた。ナマエを独占したくて自分のものにしたくて、というのは本心だけれど、彼女に不便を強いたり怖がらせたりしたいわけじゃない。「ごめん」と小さく謝ると、少し焦った様子で「あっ!嫌とかじゃないんですけど!」と返ってくる。

「何かあったのなら…その、私に出来ることがあったらお手伝いしたいなって思って」

ナマエのこの真っ直ぐさが好きだ。寄り添おうと努力してくれる彼女にいままで何度救われただろう。夏油はナマエの髪を掬い上げ、するすると指の間を滑らせてから指先で彼女の顎を撫でる。自分が悶々と考えているせいで彼女を不安にさせたくない。吐き出してしまうのはかっこ悪いけれど、言わずに彼女をもっと不安にさせてしまうほうが格好悪い。そう結論を出して、夏油は小さく息を吐いた後に口を開いた。

「…今日、補助監督が君に声をかけてたろ。あれを見てたら、ちょっと苛々したっていうか…ナマエは私のものなのにって、幼稚な考えが頭に浮かんでしまってね」
「えっ、あっ、ごめんなさい」
「いや、謝ることじゃないんだ。人助けは素晴らしいことだと思うし、ナマエの人柄に触れれば惹かれてしまう男がいるのは当然だと思うし…なんていうのかな、寮出て一緒にいられる時間が少なくなって…焦ってるっていうか…」

長々と吐き出したそれは予定よりも情けなかった。思わずため息を漏らす夏油とは対照的にナマエはくすくす笑っている。

「ふふ、傑先輩、そんなこと考えてくれてたんですね。言ってくれればいいのに」
「…ナマエには、かっこ悪いところなんて見せたくないんだよ」
「え?なんでです?」
「君が好きになってくれたのは、余裕があって大人な夏油先輩だろ?」

いつも好きな子の前ではかっこつけていたいんだ。君が好きになってくれた夏油傑でいたい。私のことだけを見て、私にずっと夢中でいてほしい。なんて、それこそすべて言ってしまうのは格好悪いのだけれど。
ナマエの白い手がそろりと伸びてきて、夏油の首筋にゆったり触れた。無意識なのかそうでないのか、ナマエの思わせぶりとも取れる指先の動きで背筋に軽い電流が走る。

「余裕があって大人な傑先輩のこと好きになりましたけど、今はもっと可愛い先輩もかっこ悪い先輩も見たいです。私はそのまんまの傑先輩が好き」

甘い瞳がじっと夏油を見上げた。何だかナマエが一枚上手のように感じられるのが悔しくて、首筋に触れていたナマエの手を捕まえると、指先に口づけをしてグッと顔を近づける。

「…じゃ、これからはナマエにもっと私がしたことしても良いってことかな?」
「えっ!アッ…!それとこれとは話がちがッ…!」

ナマエの言い分をキスで飲み込んで、そのままソファに縫い留めた。本当はもっともっと情けなくてかっこ悪いところばっかりなんだと今は流石にまだ曝け出せない。やっぱりあと少しだけ余裕があって大人な夏油先輩でいたいのだ。甘いキスが溶けそうだ。ナマエもどうか、そう思ってくれていれば良い。

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