潜入はご慎重に
依頼人というのが、違法書類の偽造を生業にしているという犯罪者だった。とある組織に人質同然に「大切なもの」を奪われていて、それを奪い返してほしい、というのが依頼内容だ。たとえ依頼人が犯罪者だろうが五条探偵事務所にはあまり関わりのないことである。もっとも、依頼内容に違法なものが含まれている場合はその限りではないけれど。

「ナマエちゃん、いい?何かあったらコレでコールして」
「コレって…なんです?防犯ブザー?」
「そ。特別製、音の鳴らない防犯ブザー」

音の鳴らない防犯ブザーなんて何の意味があるんだ、と思ったが、その疑問を口にする前に何か受信機のようなものを五条がひらひら振ってみせたから、これは音を鳴らす目的ではなくて受信者に合図を出すためのものだということはすぐに理解できた。可愛らしいパステルイエローのカラーリングに「可愛い色ですね」と言えば「でしょ」と自慢げに返ってくる。いや、こういうものにデザイン性というものがどこまで重要視されるのかは知らないけれど。


ナマエが潜入する先は特殊詐欺グループの事務所のひとつだった。受け子じゃあビルの中への潜入は難しい。ビルの清掃業者を装って、掃除道具を手に作業着を着てビルの中に乗り込む。事前に五条に見せられた動画の通りに見よう見まねでビル掃除の真似事をして、目的のフロアまで近づく。何も今この場でどうにかしてやろうというわけではない。目的はフロアの見取り図と部屋の間取りの確認である。

「あれ、お姉さん見ない顔だね」

ふと、非常階段の近くで声をかけられる。いかにもチンピラ風な、ではなく、スーツを着たサラリーマン風の男であった。しかし丁度目的のフロアから降りてきたところだし、この男が例の特殊詐欺組織の一員であることは充分に可能性がある。

「お疲れ様です。最近こちらのビルの清掃担当になったミスミと言います」
「へぇ、ミスミちゃん?」

ナマエは適当に偽名を名乗りながらにっこりとした笑みを貼り付けた。先週から前任者に変わってこのビルを担当しているというのがナマエの設定である。男は人の良さそうな顔のまま「若いね、アルバイト?」と声をかけてきた。それに適当に相槌を打っていると、男は何かを思い出したように「そういえば」と話を切り出した。

「このフロア、入るのパスがいるんだけどさ、ミスミちゃん、持ってる?」

そんな話は聞いていない。入館許可証が必要になるような小綺麗なビルならまだしも、こんなビルでそんなものあるのか。事前に聞いていなかったからもちろんそんなもの持っていない。

「あー、えっと…すみません、今日忘れちゃって……」

どうにかこの場を切り抜けなければ、と思ってなんとか言い訳を頭の中で考えてそう言うと、男はにやぁ、と口を歪めた。なにか間違えたか。男がナマエに詰め寄り、右手をぐっと掴む。

「あ、あの…?」
「お姉さん、嘘はいけないなぁ」
「え……?」
「元々ねぇんだよ、パスなんて」

謀られた。忘れたと言ってしまったのが良くなかった。申し送りをされていないと言い訳をした方がマシだっただろう。ナマエはすかさず左手でポケットの中のブザーを押した。

「ちょっとお話しようか」
「や、やめてくださいっ!」
「大人しくしてりゃあ悪いようにはしないぜ」

男は掴んだナマエの手を掴んだまま、引きずるようにして上のフロアに引っ張っていく。一番端のドアを乱暴に開け、ナマエをそこに放り込んだ。倉庫のように使っている部屋なのか、両サイドには背の高いスチールラックが置かれ、それには書類やら備品やらの類いが乗っかっていた。

「おい姉ちゃん、お前何もんだ?サツの犬か?それとも別のガサ入れか?」
「わ、私は清掃業者で…!」
「見え透いた嘘ついてんじゃねぇぞ。アァ!?」

男がナマエに向かって凄む。言い訳も聞いてくれないようだし、これは自力で脱出するのは難しい。特製防犯ブザーなるもので五条にアラートを鳴らしているから、助けに来てくれるのを待つほかないだろう。ドクドク心臓が鳴る。助けに来てくれるまでなんとか穏便にやり過ごさなければ。

「お前の飼い主を吐け。女にまで痛ぇ思いさせたくねえんだよ。わかるだろ?」
「ひ…っ……わ、私は何も……」

ナマエはどうにか抵抗しようと試みたが、両手を簡単に捕らえられてパイプ椅子に縛り付けられた。左のポケットに手を入れていたのがばれて、中に入っていた防犯ブザーっぽい代物を取り上げる。不用意に男はボダンを押したが、当然音はならない。

「あーあー、可哀想に。こんなもんにまで見放されちまって……」

男が防犯ブザーをカランカランと入口の方に放り投げ、隣の部屋まで他のメンバーを呼びに行ったようだ。縛り付けられた腕を力任せに動かしてみたが、ナマエの力ではビクともしなかった。
数十秒で男が仲間を引き連れて戻ってくる。人数は四人。その中にはスタンガンのようなものを持っている男もいた。

「お姉ちゃん、さぁ、知ってること話してもらおうか」
「私は本当になにも……」
「何にも知らない女がわざわさ清掃業者のフリして乗り込んでくるわけねぇだろうが」

先頭にいた男が棚を叩き、その拍子に書類がバラバラと落ちていく。恐ろしさでガチガチと歯が鳴ってしまいそうなのをどうにか堪えた。あのアラートを鳴らしているのだ、大丈夫、きっとすぐに五条が助けに来てくれる。

「お姉ちゃんさぁ。女だからってカンベンしてもらえると思ってんの?」
「不法侵入だよ、不法侵入。こりゃあ警察に連絡入れねぇとなぁ」

どうせ警察に連絡なんて出来ないくせに、こけ脅しもいいところだ。男たちはこちらを囲んで見下ろしている。恐怖もあるが、助からないという気はしていなかった。いま無傷でここを切り抜けるためには大人しくしていることが賢明だろう。はやくきて、五条さん。と心の中で祈るように呟き。両目をぎゅっとつむる。その時だった。ドアの向こうから「すいませぇーん」と間延びした男の声が聞こえてくる。

「あ、なんだ?今日誰か来る予定あったか?」
「い、いやなにも…」
「ちょっとお前見てこい」

恐らく一番下っ端だろう男が指示をされて扉の方に向かう。それより先にガンッという衝撃音とともに扉が開かれた。長い足が扉を蹴破っていて、そこには全くに似合わない作業着を着た五条が立っていた。よかった、あのアラートを感知して五条が助けに来てくれた。
一瞬驚いて動きを止めたゴロツキたちが五条のほうへ身体ごと振り向いて構える。

「なんだテメェ!」
「どうもー、五条クリーニングサービスでぇーす」
「アァ!?ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ!!」

ドアの一番近くにいた下っ端らしき男が五条に掴みかかったが、五条は少しも動じた様子はない。男の手首を上から掴むと、そのまま殆ど予備動作もなく男の体が宙に浮く。そのままリノリウムの床に叩きつけられ、残りの三人の間に動揺が広がったのが伝わってきた。五条はへらりと口元を笑わせながら一歩前に歩み出る。

「すみませんねぇ、うちの社員が何か粗相でもしちゃいましたか?」
「なめてんじゃねぇ…!」

男たちは、正体は分からずとも自分たちに害をなす侵入者だ、と判断して五条に対して臨戦態勢を取った。この人数相手に、と前なら思ったかもしれないが、今は五条の強さを十二分に理解しているから、焦るような気持ちはなかった。
スキンヘッドの男が棚の上に乗っかっていたペンチのようなものを手にして五条に振りかぶる。それを少しも怖じることなく受け止め、反対の手で顎に掌手をお見舞いする。脳をきれいに揺らされ、スキンヘッドの男はそのまま二、三歩よろけると、転んで棚にもたれかかったまま動かなくなった。

「さて、次はどっちから来る?」

スタンガンを持った男が飛び掛かり、その腕をひっくり返すようにして掴む。五条に向けられていたはずのスタンガンが反転して男の首筋を直撃し、ビリビリと電流が走って痙攣した。普通のスタンガンの威力じゃない。改造されたものだろうということは容易に想像がついた。

「くそ……!」

残った最後の一人がスーツのポケットからナイフを取り出した。もはや破れかぶれというところなのだろう。ナマエは思わず「五条さん!」と声を上げ、五条は一瞬ナマエに視線をくれると、不敵に微笑んでみせた。

「ナイフ一本でどうにかなるほど弱くないよ」
「なッ……!!」
「通信教育で空手マスターしてるから」

ナイフを持つ手首を下から手刀で叩き、男の手を離れてにわかに飛び上がったナイフをキャッチすると、それを男に向けながら足払いで体勢を崩させた。あっけなく床に転ぶ男に馬乗りになると、頬をかするくらいのギリギリのところにナイフを突き立てる。男が情けなく「ひぃっ……」と声を出した。彼にかかればほんの数十秒で死屍累々だ。

「どうする?警察呼んじゃう?」
「よっ!呼びません!すみませんでした…!」
「あー、そう。ごめん、もう呼んじゃってるんだよねぇ」

窓の外からサイレンが聞こえてきた。いや、連中が犯罪者なのは間違いないし被害者なのはこちらなのだけれど、この状況だけを見れば確実に五条が加害者である。面倒なことにならないんだろうか。

「今警察来るから、もうちょっと眠っててね」

五条はそう言うと、立ち上がりざまに男の頭を蹴り飛ばして気絶させた。見ているこちらが痛くなってしまいそうだ。
彼はそのままナマエのもとに歩み寄り、後ろ手に縛られているロープをちょうど手に持っているナイフでザクザク切った。

「ごめんね、助けに来るの遅くなっちゃって。あーあー、手首傷になっちゃうよ」
「大丈夫です。五条さんが来てくれるって信じてましたから」
「あらまー、可愛いこと言っちゃって」

五条がナマエの頬をむにっと摘まんだ。ちょっと予想していた以上の事態になっているのは否めないが、五条の強さに関してはかつて本職のヤクザを圧倒したようなところも見たこともあるほどだ。解放されたナマエの両手を優しく掴むと、少し赤くなっている手首の部分にそっと口づけをした。

「ご、五条さん…」
「綺麗な肌が赤くなってる。消毒しないと」

そんなことを言いながら赤く線になっているそこを舌先でぺろりと舐めた。こんなところで何をするんだ。羞恥心とか焦りとかが込み上げて、身体がカッと熱くなる。いや、本当にこんなところで何してるんだ。警察が来るって言っているのに。というかもう足音がすぐそばまで聞こえてきている。

「ちょ…五条さん!警察の方来るって…!」
「あーそうそう。パスがうんたらかんたら言ってた時から通報しといたんだよね」
「え!?なんで知って…」
「だってあの特製防犯ブザー盗聴機能付きだから」

そんな機能がついていたのか。未だ床に転がされたままになっているパステルイエローの塊を見つめる。ちょうどその視界の中に革靴が入り込んできた。そうだ、警察、警察が来てるんだった。ナマエは五条に掴まれていた手を引っ込めて咄嗟に離れてからこの状況で何からどう言い訳をしようかと思って顔を上げると、大きなため息が同時に聞こえてきた。

「え、あ、あれ…七海さん…?」
「フーッ…五条さん、ここまでしてくれとは言っていないんですが…」
「だって、うちの可愛いナマエちゃんが椅子に縛られてたんだよ?しかも武器とか出されて襲い掛かられて、僕チョー怖かったぁ」

五条の呼んだ警察とは七海のことだったようだ。後ろからひょっこりと灰原も顔を出す。そうか見知った人間だったから現場をこんな有様にしていても余裕だったんだ。七海が後ろの捜査員に「容疑者グループの確保を」と命じると、あれよあれよというまに床に転がっていた男たちが拘束されていく。

「そもそも、特殊詐欺は二課の領分です。私たちの領分じゃないんですよ」
「何言ってんの。市民を守るのが警察の仕事でしょ?二課とか一課とか今はいいじゃん」
「本当にアナタって人は……」

七海と五条が言い争いをしている間にひょこひょこと灰原がこちらに寄ってきた。「ナマエちゃん、怪我はない?」とこちらに気を遣ってくれてナマエはそれに「はい。無事です」と答えた。五条に両手を握られているところを見られたのは恥ずかしいが、相手が見知った人間なのだからまだマシだと思うべきだろう。

「あ、ちょっと灰原、勝手にナマエちゃんと話すの禁止!」
「あっ!そうでした!!」
「五条さん、束縛の強い男は愛想つかされますよ」

素直な灰原のあとから七海がここぞとばかりに嫌味を飛ばしてくる。管轄外の犯罪に電話一本で指名されて飛んできたんだから、小言のひとつも言いたくなるだろう。そもそも、刑事を指名して緊急手配なんてさせられるものかは知らないが、あらゆる面において規格外の五条に対し、そんな疑問を抱くだけ無駄なことだ。

「さてナマエちゃん。現場検証始まっちゃう前に依頼の品取りに行こっか」
「えっ、そんなことして大丈夫なんですか!?」
「大丈夫大丈夫。エリート刑事の七海建人くんにお任せだよ」

勝手にひとに融通させるつもりだ。七海が「せめて聞こえないところで言ってくれませんか」と心底迷惑そうな声で言った。なんだか計画とは随分変わってしまったが、とりあえず依頼そのものは遂行できそうである。終わりよければすべてよし、なんて言葉が頭に浮かんでくるのは、自分が着実に五条の影響を受けているからだろう。

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