何者でもない
「夏油くん、これなに?」
「ああ。呪具っていうんだ。予め呪力が込められていて、これに更に呪力流して使ったり、呪力の無い人間もこれを使えば呪いを祓うことができる」
「へぇ。私にも使える?」
「うーん、そもそも武器が扱えるかって問題がなぁ」

指さした鉈を、夏油くんは丁寧に説明した。武器庫と呼ばれているそこは薄暗く、壁一面に刀やら鉈やらの武器がかけられている。
先生にお遣わされ、この部屋によくわかんない矢じりみたいなのを置いてくるように言われたのだが、私はここへ入るのは初めてだった。

「わぁ、すご。このナイフとかめっちゃ綺麗だね」
「ああ、勝手に動くから触ると危ないよ」

えっ!と大声をあげて飛びのくと、夏油くんはおなかを抱えるみたいにして笑い始めた。どうやら私はからかわれたらしい。

「はは、さすがにひとりでに動く呪具なんて高専にはないさ」
「高専には無いってことはどっかにはあるってこと?」
「私は聞いたことがないけれど、多分あると思うよ」

ふうん。変なの。思わずそう言えば、夏油くんは「それがこの世界さ」と返した。
この世界には、私の知らないことが多すぎる。


気が付いたら知らん山奥でした。なんて、ドラマみたいなことがあってたまるか。
とはいえ、実際私は目を覚ましたらまったく見覚えのない山奥に寝転がっていた。確か昨日は学校で模試の結果が発表されて、理系の、とくに数学の点数が死ぬほどヤバくて自棄酒ならぬ自棄アイスをしたんだ。
それでアイスの食べ過ぎでおなかが痛くなって、夕飯も食べれなくて、うんうん唸りながらベッドに入った。
そうか、これは夢なのか。随分とリアルな夢もあったもんだ。
そこまで考えて、ようやく私はあたりにけたたましいサイレンのようなものが鳴り響いていることに気が付いた。

「うっるさ…」

目覚まし時計の何倍ものやかましさだ。思わず耳を塞いで、すると目の前が一瞬にして影になった。
え、と思う間に私の体は植物のツタののようなもので括りあげられ、空中で足がぷらぷらと揺れる。

「オマエ、高専の結界内に入るとか、いい度胸してんな」

首には自由があったから、わけもわからぬまま声のほうを見る。
そこに立っていたのは、クラスの誰より背の高い、白髪の男の子だった。学ランっぽいけど見たことない服を着ていて、まん丸のサングラスをしている。
誰?と思ってそのまま見ていたら、後ろからもうひとりが姿を現した。

「呪詛師にしては随分と杜撰な潜入だね」

黒い長い髪をお団子にまとめた、切れ長の目の男の子。制服は白い子と似てるど、ズボンがボンタンだった。
あとそれから。

「変な前髪」

ぽつんとこぼれた声に、白い子がおなかを抱えて笑った。やば、この状況で言ったら駄目すぎる。しかしもう遅い。
なんかツタがさっきよりぐぐぐっと締まった気がする。あ、これ、落ちる。

「あ、おい傑、コイツ気ぃ失ったぞ」
「げ、やば」


次に目が覚めると、今度は見事な座敷牢に拘束されていた。こんなの時代劇でしか見たことない。
木製の格子にはなんか黒いシミがついてて気味が悪い。あと全体的に埃っぽい。それからじめじめしていて隅っこのほうはカビている。

「目が覚めたか」

低い声がして、その方を見遣れば坊主頭に剃りこみの、めちゃくちゃいかついおじさんが暗がりに座っていた。一定のリズムで手元を動かしていて、目が慣れてきたと思って凝視したらキモカワ系のぬいぐるみを作っていた。

「高専は君を侵入者の呪詛師として拘束している。しかし、悟の六眼で見る限り、君にはまったく術式もなければ呪力も漏出するばかりで呪術が扱える様子もない」
「はぁ…」
「単刀直入に聞く。君は何者だ?」

じっとおじさんがこちらを見る。話は半分どころか三分の一もわからなかった。何者?何者って…。

「桜南高校二年のミョウジナマエです…」

私が学校名と氏名を名乗ると、座敷牢に間抜けで妙な間が生まれた。だって何者かと聞かれても私は公立高校に通うただの高校生で、親はサラリーマンで、とくに何者でもないからだ。


おじさんはそのまま一度出て行って、結局私はその二時間後に座敷牢から出されることになった。
要監視というのはそのままのようで、さっきとは違うおじさんとそのおじさんよりもう少し若い男のひとが私の両脇を固めていた。
ホジョカントクというひとたちで、二人とも葬儀屋みたいな真っ黒のスーツを着ていた。

「悟、どうだ」

連れていかれた教室のような場所で、今度は座敷牢のおじさんとさっき会った白い男の子と、前髪の男の子が私を検分した。

「やっぱコイツなんの術式もねぇし呪力もれっぱだしパンピーっしょ」
「ただの一般人というなら、高専の結界内に入れたことが不自然だろう?」
「そりゃそうだけどさぁ、コイツが呪詛師だったら幼稚園児でも呪詛師になれるぜ?」

ジュツシキ、ジュリョク、コーセン、ケッカイ、ジュソシ。
知らない単語ばかりで会話が進められて全く意味はわからなかったが、この白い子がどうやら私を馬鹿にしているらしいことだけはわかった。

「あの…喋っていいですか」

私がそう言うと、おじさんが「ああ」と発言を許可する。ちなみにこのおじさんは男の子たちの先生らしい。こんないかつい先生柔道部の顧問にもいなかった。

「私、どうやってここに来たかがわからなくて、ですね…家で寝てて、起きたらさっきの森?みたいなとこで目が覚めて…何が何やらよくわからないんですけど…」

ここ、どこですか?最後にそう尋ねると、三人とも驚いた顔をして、それから私を見極めるみたいにじぃっと観察した。
控えめに言って、こんな怖いひとたちに品定めされるような視線を向けられることは結構恐怖なはずだったんだけど、座敷牢を経験したすぐ後だからなのか不思議とそこまで怖くはなかった。

「…嘘は、言ってないみたいだね」
「確かに」

前髪の子がそう言って、白い子も同意する。そのあと奥でおじさんも頷いた。
そりゃ、嘘は言ってないけど、信じてもらえたことにとりあえず私は胸を撫でおろした。
それから前髪の子はおじさんに向き直って、私の処遇について話し始める。

「これだけの呪力を漏出した状態でいたら何が起きるかわかりませんし、基礎程度を高専で教えるのはどうですか」
「パンピーの面倒みんのは御免だぜ?」
「いや、基礎を教えるなら私たちより補助監督や教員のほうが適任だろう」

おじさんに向かってかけた言葉に白い子が先に応えて、前髪の子が更に返答する。それからいくつか同じようなやり取りの後、考えるような素振りをしていたいおじさんが口を開いた。

「…いや、傑、お前に任せたい」
「は?」

おじさんがそう言って、前髪の子は目を丸くする。
三人は私と少し離れたところに集まるようにして、何事かをこちょこちょ話し合っている。途中で白い子がゲラゲラ笑っていた。
しばらくして、大きな溜息をついた前髪の子が私に歩み寄り、椅子の前でひざを折った。

「私は夏油傑。こっちのサングラスは五条悟。よろしくね」

握手のつもりだろう動きで差し出された手に、そろりと自分の手を重ねる。
柔らかい力で握られて、握手とはこんなにも恐る恐るするものだっただろうかとぼうっと考えた。

「よ、よろしくお願い、します」

こうして何が何だかわからないまま、私はここで身柄を確保されることになった。
前髪…じゃない、夏油くんはにこにこ人の良さそうな笑顔を浮かべていたが、さっき起き抜けに締め上げられたばかりの私は、曖昧に笑うことしかできなかった。


翌日、私は夏油くんの静かな口調で行われる説明に耳を傾けた。
呪力、という人間の負の感情をエネルギーとしたものが存在し、時にそれらの負の感情はかたちを成して呪霊と呼ばれる存在になる。
それらは人間に危害を加えるため、彼ら呪術師、というものが呪霊を祓って均衡をはかっている。
突拍子もない話だが、目の前でその呪霊とやらを呪力をもって排除する瞬間を見せられたら、とりあえず今のところ信じるしかないらしかった。

「ミョウジさんはこの呪力というものが凡そ一般人の比じゃない。呪力量だけで言えば私よりも多いと思うよ。だけど、いま君のその呪力は何の制御もなくあふれたままの状態なんだ」
「水出しっぱなしってこと?」
「そうだね。だから今から君は蛇口の水量を調節したり、水を溜める桶を作るような、そういう訓練をすることになる」

慣れない専門用語ばかりで目を回した私に、夏油くんは他のものへ例えてわかりやすく説明してくれた。
私は高専の中庭に連れてこられていて、少し離れた校舎の壁に五条くんがもたれかかって見学している。

「出しっぱなしだと何か問題があるの?」
「うーん、一言で言えばトラブルの元になる。君ほどの量なら呪力を餌にするタイプの呪霊には垂涎もののごちそうだ」
「えっ、食べられたりする?」
「そうだね、まぁ、平たく言えば」

それは御免だ。目を覚ましてから感じていたこの温度のない水みたいなものは、ごちそうに成り得るらしい。

「まず、呪力を流す練習をしてみようか」

夏油くんと向き合って、指示通りに足を肩幅に開く。夏油くんの言う通り、呪力は私のおなかのあたりから規則性もなく周囲にとめどなく広がり続けていた。

「腹筋に力を込めて、臍のあたりから湧き出てくるのを感じてごらん」
「は、はい…」

おなかに力を込める…込める…。
ろくに腹筋も出来ない私には中々の難題だ。

「焦らなくていい。ゆっくり、集中して」

おなかを意識すると、夏油くんの言うとおり、おへそのあたりから何かが湧き出てくる感じがした。おお、これが呪力?

「いいね、上手く巡ってる」

夏油くんはそれから呪力の流し方というのをひとつひとつ丁寧に解説し、実践してみせ、私をよく褒めてくれた。
単純なもので、訳のわからないところで訳のわからないことをさせられているというのに、優しくしてもらえたから不安みたいなものは感じなかった。

「夏油くん、先生とか向いてそうだね」
「そうかい?わかりやすかったなら良かったよ」

夏油くんの訓練は彼の時間の許すタイミングで毎日少しずつ行われた。
奇妙なことに、私はこの状況をわずか数日で受け入れていた。
家に帰る方法はあとからきっと見つかるだろうと楽天的になれる程度には。


一か月が経過した。与えられた寮の隣の部屋の硝子ちゃんは美人で優しい。「硝子ちゃん優しいね」とこの前言ったら、五条くんが死ぬほど引いた顔をしていた。
五条くんは素顔が常人離れしたイケメンだった。心臓に悪いので、お風呂上りにサングラスかけてないときとかはなるべく直視しないようにしている。
そして夏油君は。

「ナマエ、こっちにおいで。このプリン悟には内緒ね」
「ありがと」
「困ったことはないかい?」
「うーん、困ったことしかなくて何に困ってるのかよくわからない…」

夏油くんは、ずっと私に親切。五条くんにまだ距離を取られていた時からずっと親身になって私に訓練をつけてくれていて、どうしてそこまでしてくれるのか、と尋ねたら「困ってるひとを見過ごすのは好きじゃないんだ」とあまりに人間としてお手本みたいな言葉が返ってきて眩しかった。

「でも、呪力は結構留められるようになってるね」
「あ、うん。それはちょっとコツ掴めてきたかも」

毎日、夏油くんがいない時間も自主的に練習するようになった。他にやることがないからというのもあるのだけど。
要監視は継続されているので、私は高専の中でも決められた場所にしか出てはいけないことになっている。

「本当に、ナマエの呪力の量はここじゃないどこかから来たなんて、信じられないくらいだ」

夏油くんはしみじみとそう言った。
私はこの世界の住人ではない、らしい。国の関わる機関だという呪術高専の調査をもってしても、私の在籍する桜南高校は見つからなかったし、私の戸籍も存在しなかった。
ただ医師の診断によると私はどこも異常のないれっきとした人間で、犯罪心理学のエキスパートにも私の与太話にも聞こえる「いつの間にかここにいた」ということは嘘ではないと認められた。
つまるところ現在私は、何らかの外的要因によりこの世界に飛ばされた異世界の人間、または心の底から自分を異世界の人間だと思っている精神異常者ということになっている。

「ねぇ夏油くん、術式ってなくても呪術師になれるの?」
「なれるけど…ナマエが術師になるのはお勧めしないかな」

私はこの先もおそらく高専の監視下に置かれる。素性の知れない異常な呪力量の人間を捨ておくのは都合が悪いらしい。
それはそれとして、夏油くんや硝子ちゃんは私を普通の同級生みたいに扱ってくれた。五条くんは…まぁ、まだ壁があるけど。

「私、向いてない?」
「向いてないだろうね」

スパっと夏油くんが言いきった。もう少しオブラートに包んでくれてもいいと思う。

「でも、私ここでそれ以外に出来ることってなくない?」
「補助監督はどうだい。まぁ危険も勿論伴うけれど、術師よりはよっぽど適性があると思うよ」
「補助監督かぁ」

当たり前に、ここで生きていく話をする。私はどうやらこの場所で、何者かになっていくらしい。
家族にも友達にも会いたい。定期考査もあるし、録りためたドラマも見たい。
どうにか帰る方法を探しながら、帰れるころには帰りたくないなんて思っちゃうのかな、と隣を見上げる。

「ん?どうかしたかい?」
「…べつに」

だって夏油くんの隣が、想像以上に心地いいのだ。

「いつになったら帰れんのかなぁ」
「帰れなくても、ここにだって居場所は作れるだろう?」
「…笑えなんだけど」

私が拗ねたようにそう言うと、夏油くんは「ごめんごめん」とうわべだけの言葉で謝罪した。別にそれが嫌な気がする訳ではないけれど。
私は与えられたプリンにプラスチックのスプーンを潜り込ませ、ぱくりとひとくち放り込む。

「このプリン美味しいね」
「だろう?」

早く帰りたいはずなのに、夏油くんと一緒にいたい。夏油くんのこと、もっと知りたい。
あーあ。ここで何者かになれるのか。何者でもない、この私が。

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