ボーナスステージ
家入硝子はリアリストである。スピリチュアルなものは信じないし、根性論も嫌いだ。けれど彼女自身には常識では説明がつかないような妙な記憶があった。いわゆる前世の記憶と呼ばれるようなもので、成長するに従って明瞭になるそれは、超常的な理由でもないと説明出来なくなっていた。

「硝子、レポートの進捗どお?」
「カツカツ」

待ち合わせのカフェで、店の中のチラチラと伺うような視線をものともせずに歩み寄る男がひとり。前世の記憶という妙なものは更に妙なものを引き寄せるのか、その記憶の中の登場人物と再会することになった。この男の名前は五条悟。前世では現代最強の呪術師なんていうとんでもない肩書を持っていた男だ。

「そっちの進捗は?」
「あー、前の情報は結局ハズレ。全然知らない女の子だった」
「そ。じゃあまた情報収集から始めるか」

五条は家入の前に座り、紙カップに入った飲み物に口をつける。中身は聞いていないけれど、どうせショコラなんちゃらとかキャラメルなんちゃらだとかの甘いものに決まっている。昔は無下限呪術のために脳を使うから糖分を摂るようにしていたはずだけれど、味覚だけが死んで生まれ変わっても引き継がれているようだ。

「夏油は?」
「もうすぐ来るって」

生まれ変わったこの世界は、多分同じ線上にはない世界だ。呪術の存在はこれっぽっちも確認できず、家入にも五条にも、これから来るもうひとりの旧友、夏油にも呪力というものは存在しない。前世では散々呪力に縛られて生きてきたのに、きれいさっぱりなくなってしまうというのも妙な心地だった。
五条と他愛もない話をすること数分、五条の隣の席がガタンと引かれる。もうひとりの待ち人の到着である。

「お待たせ」
「傑、遅かったじゃん」
「電車遅れててさ」

長い黒髪をハーフアップにした彼は、五条よりも薄い唇を紙カップにくっつける。この男こそ、三人の中で誰よりも呪いというものに雁字搦めになって苦しんだ男だ。特級という冠はなくなったが、そんなものない方が自由に暮らせるのは間違いない。

「どこまで話してた?」
「こないだ言ってたファミレスのバイトの子は当てが外れたって話」

夏油の問いに対して家入が端的に答える。一見すると女性を品定めする下品な会話のようにも聞こえるが、そういうものではなかった。三人は生まれ変わってずっと、人探しをしている。

「あのさ、ナマエっぽい女の子、渋谷のガールズバーで見かけたって、声かけてた知り合いが言っててさ…」

夏油が少し言いづらそうに切り出す。突然降って湧いた候補地は探している人物のイメージとあまりにかけ離れている。私もまさかとは思ったよ、と夏油が付け加えた。しかしイメージといってもそれは自分たちの知る「前世」のものでしかない。そこで彼女を見つけることが出来るのなら、賭けてみるほかないだろう。


探しびとであるミョウジナマエとは、前世で四人いた同級生のひとりだった。補助監督志望として入学した非術師の家系の人間で、いつもニコニコと笑みを絶やさない愛想のいい少女だった。彼女のそばにいるのは心地が良くて、自然と人が集まってきていた。家入も、そしてほかの二人も、引き寄せられるように同じ時間を過ごした。とくに、当時非常に穿った考えかたをして弱者を極端に嫌っていた五条さえも懐いていたのだから、ナマエという少女には人を問答無用に惹きつけてしまう才能のようなものがあったのかもしれない。

「ナマエ、今週の土曜ヒマ?リップ買いにいかない?」
「うん、いいよ。硝子ちゃん新しいの買うの?」
「違う違う。ナマエのやつ」
「えっ、私の?」

高専二年の秋、そんな話をしていた。彼女はあまり化粧っ気はなくて、色付きのリップを恐る恐るつけているという具合だった。だから彼女に似合うリップをプレゼントしたかったのだ。

「それからさ、パフェ食べいこーよ。渋谷のさ、苺たっぷりのとこ」
「え、でも硝子ちゃん甘いのそんなに好きじゃないでしょう?」
「ナマエが好きだからいーの」

こっちはきっとナマエと二人で出かけたら文句を言うに違いない男二人への最大限の配慮だった。同性だから、家入は五条や夏油に比べてナマエと過ごす時間が長い。それをずるいずるいとわめきたてるのがいつもの図だった。


けれど、新しいリップを選びに行くことも、渋谷で苺のたっぷり乗ったパフェを食べることも叶わなかった。
補助監督は、最前線で呪霊の祓除や呪詛師との戦闘を行わない。あくまで帳を含めた後方支援が主な任務である。だからといって、危険がないわけではない。非術師の何倍も危険で、時には命を落とすことさえある。命を落とすことさえ。
その日、ナマエは呆気なく死んだ。逃げ遅れた非術師の子供を庇おうとして呪霊の攻撃を受けた。守ろうとした子供もほどなくして呪霊に襲われ、誰も救われないまま高専が子供の母親の怒りをすべて被ることになった。

「……ホジョカンってさ、死なないわけじゃ、ないよね」
「……そりゃあ、そうだろ。現場、出るんだし」

家入がぽつんとこぼした言葉に五条が心ここにあらずといった調子で答えた。そんなことは知っていた。周知の事実であり、だけど高々17歳の少年少女に理解させるにはあまりに残酷なことだった。
家入と五条は寮の近くにある10段ほどの階段でうずくまっていた。家で受けた呪術の訓練でも、死体の解剖でも殆ど泣かなかった家入はこのとき薄く涙をこぼした。

「夏油は?」
「傑はぐちゃぐちゃ。あいつ非術師の家系だし…春先のこともあるからなんか思いつめてる」
「…そっか」

家入は深く知らされていないけれど、二人は春先に極秘の重要な任務に就き、二人ともが瀕死の重症を負った。五条は反転術式の才能にその際目覚めたようだったが、夏油は家入の治療がなければ非常に危なかった。

「どうして…ナマエだったんだろ」
「んなの知らねぇよ。命に順番なんか…ねぇんだから」

見つめる先の煙突か白い煙が上がっている。上半身だけになったナマエが狭い部屋の中で骨にされている煙だった。


生まれ変わって自分に前世の記憶があると気が付いたとき、真っ先に探そうと思ったのはナマエのことだった。幸い世の中は情報化社会で、子供でもそれなりにいろんな情報を集めることが出来た。もっと情報を集めるために大学で上京して、医学部を志望したのも前世と似たような道を辿ることでナマエともう一度会えないかと思ったからだ。
その中でナマエより先に再会したのが五条と夏油だった。連中は高校で再会していて、顔を合わせるなり殴り合いの喧嘩をしたそうだが、それきり結局、昔のように親友と呼べる間柄に収まったらしい。男の友情というものはよくわからない。

「とにかく、そのガールズバー行って確かめるしかないっしょ」

家入がそう言うと、五条は「そーだな」と同意する。再会してからというもの、五条と夏油と情報共有をしながらナマエを探していた。この二人に会えたのだからきっとナマエにも会えるに決まっている。根拠もないそんな言葉を慰めにしていた。
ではそのガールズバーにどうやって様子を見に行こうか、と相談をし始めた矢先、難色を示し始めたのは夏油だった。

「だけどさ…ナマエって私たちと再会すること…望んでるかな」
「はぁ?傑何言ってんだよ今更」
「最近考えてたんだ。私たちはそれなりに自分の生き方に納得して死んだ。でもあの子は違う。突然糸が切れるように亡くなったんだよ。戦えない彼女からしたら最後は怖いものだっただろうと思う。思い出したくない記憶…ってことも、あり得るだろう?」

それは確かに一理ある。呪術師としての生き方と死に方に覚悟をしていた自分たちと違ってナマエは不意の事故のようなもので死んだのだ。ナマエにとって良い記憶だったかどうかはわからないし、それにそもそも記憶がないかもしれないということもある。それなら顔を合わせて思い出させることになるのも酷なことなのかもしれない。

「んなの本人に聞かなきゃわかんなくない?」
「悟…きみね…」

流れた沈黙の中の淀みをばっさりと切り捨てた。それはその通りだが、不用意に接触するのはいかがなものかという話をしているのだ。

「そのガールズバーにナマエがいるとして、会って、嫌がられりゃ二度と会わないようにすればいい。記憶ないんなら様子見。それでいいでしょ」
「それは…そうだけどさ……」
「なんだよ、ビビッてんの?ナマエに嫌われるかもって」

にいっと五条が笑う。生まれ変わっても性格の悪さだとか、自分に自信満々なところだとか、そういうものは変わらないようだ。煽り耐性が相変わらずゼロの夏油が五条の挑発に案の定乗って、結局示された難色はすぐに撤回されることになった。


善は急げと翌日夕方、三人そろって渋谷の繁華街に繰り出した。前世から引き続く二人の顔の良さのためにスカウトやら逆ナンやらが絶えない。都度それに捕まるのが面倒になって「ちょっと私先行くわ」と二人を置いてガールズバーに向かった。それにしてもナマエがガールズバーで働いているなんてちょっと信じられない。キャバクラとは違うけど、ガールズバーだって充分夜の店である。彼女は夜の世界とは無縁の性格だった。

「…ここかぁ」

見上げた看板にはしっかりガールズバーの文字が書いてある。看板の見た目から察するにどうやらスーツをコンセプトにした店のようだ。過激な衣装ではなかったことに訳もわからずひっそりと胸を撫で下ろす。まだ夕方で営業時間にはなっていないからか、店の電気はついていない。従業員は中にいるだろうか、と視線を向けたその時だった。

「あの、ごめんなさい。まだ営業時間までもう少しあって…」
「ナマエ…」
「え?あれ?あっ…硝子ちゃん…?」

店のユニフォームらしきパンツスーツを着て表に作業をしに出てきたのは、懐かしい顔だった。間違えるはずがない。ナマエだ。ナマエも家入の顔を見て驚いているようで「どうしてここに…」だとか「覚えててくれたの?」だとかと言いながら家入の両手を握った。

「ずっと探してた。ナマエにまた会いたくて、私ずっと探してたんだ」
「私もだよ。硝子ちゃんたちに会いたくて色々調べてたんだから」

家入は掴まれていた手をやんわり振りほどくと、ぎゅうっと彼女を抱きしめた。ナマエも家入の背中に手を回した。何年振りの再会かなんて計算できないくらいの関係だった。会えてよかった。そう胸の中で唱えたつもりが口に出てしまっていたようで、ナマエの柔らかい声で「私も」と返ってきた。

「ねぇ、なんでガールズバーで働いてんの?ナマエ、絶対向いてる方じゃないでしょ?」

ひとしきりの感動の再会を終えた後、最大の疑問点であるこの店のことを尋ねた。ここの制服を来ているのだから、働いているというのはデマでもなんでもないのだろう。もちろん職場選びなんて自由だけれど、あまりにも似合わない職を選んでいるのは気になって仕方がない。

「えっと、お金が必要で…」
「金?」
「そう…こういうところ、お給料がいいから…」

もごもごと少し言い辛そうにする様子にピクリと眉が動いた。奨学金やなんかは学生が一般的に背負うものではあるけれど、それだってガールズバーでバイトしてまで返そうなんてものじゃない。何か金銭トラブルに巻き込まれているのかと思って「何かあったの?」と聞けば、ナマエが両手を勢いよく振って「違う違う!」と否定する。

「お金貯めて、硝子ちゃんたち探すの、探偵さんに依頼するつもりだったんだぁ」

ナマエが少し照れたように笑った。慣れないことをしてまで自分たちを探そうとしてくれていたことに、名状しがたいものがこみあげてくるのを感じる。

「心配しないでも、五条と夏油のクズセットもついてきてるよ」
「ふふ、硝子ちゃん、またそんなひどい言い方して」

ナマエがくすくすと笑う。「おーい、硝子ぉー!」と背後から五条の声が飛んできた。ナンパとスカウトを撒いて二人がやっと追い着いてきたようだ。二人が到着する前にと、ナマエがこっそり家入に耳打ちをする。

「硝子ちゃん。あのね、今度リップ買いに行こ?」
「いーじゃん。そのついでにパフェも食べようよ。苺たっぷり乗ったやつ」

まるでクリアしたゲームボーナスステージが始まるような、そういうわくわくした感情が胸を躍らせた。この先は三人でナマエの一番の座を巡って滑稽で醜い争いを繰り広げることになるのだろうが、それもまた、二度目の人生の一興というところだろう。

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