本の中でも僕だけの
探偵事務所の日常は非常にのんびりとしたものである。なにせこの特殊さからして依頼そのものの件数が少ないし、それが遺族が依頼人の死亡を知らせてくるというのはもっと稀だ。だから普段の業務は概ね給料とつりあわないくらい楽なものだし、あれこれと時間を潰さなければいけないというシーンもままある。
まぁ、とは言っても、時おり舞い込むとんでもない危険な仕事内容のことを思えば、トータル的に若干プラスというくらいでしかないかもしれないけれど。

「こないだの清算清算……」

ラップトップに向かい、かちかちと経理関係のソフトをいじる。先日受けた遺品焼却の依頼の際にかかった経費をまとめていく。そのあとはダイレクトメールの類いを仕分けてその殆どをシュレッダーにかけた。今日は五条が来ない日だから、事務所にはひとりきりで独り言が無駄に大きく響いた。

「明日……うん、明日は五条さん来る日だ」

仕事だとわかっているし公私混同するつもりはないけれど、やっぱり顔を見ることが出来るのは嬉しい。今は例の清岡家の人間を懲戒解雇した関係で本業のほうも家のほうも随分とごたついていて、依頼以外で事務所に顔を出す回数はとんと減っている。
カレンダーで予定を確認して思わず笑みがこぼれた。さて次の仕事は、とデスクを見回すと、丁度扉がコンコンとノックされた。ナマエが「はい」と言うのと同時に扉が開かれる。

「や、元気にやってる?」
「夏油さん!こんにちは。すみません、今日五条さん不在なんですけど…」
「ああ、多分そうだろうと思って来てるから大丈夫」

扉をノックしてきたのは夏油だった。ひらりと手を挙げ、勝手知ったる様子で事務所に入り、彼が来た時の指定席と化かしている応接のソファに腰かけた。「何か飲みますか?」と聞けば「悪いね」とだけ返ってきたので、ブラックコーヒーを用意してテーブルにことりと置く。

「ありがとう」
「いえいえ。今日はなにかご用事でした?」

ナマエがそう尋ねると、夏油は持参した紙袋から「ハイこれ」と言いながら一冊の本を取り出した。受け取れと言わんばかりのそれを受け取ると、四六判のそれはどうやら小説本らしい。

「新刊の献本もらったからさ。一冊ナマエちゃんにも渡そうと思って」
「えっ、あれっ…あ!夏油さんの本…!?」
「そう。一応私、作家だから」

そういえばそうだ。夏油の作家としてのエピソードは一緒に吉野様の件を調べに行ったときくらいしか聞いたことがなかったから、なんとなく知っていたのに頭の中から抜け落ちていた。確かに装丁の端には「夏油傑」と彼の名前が書かれているペンネームは遣わないタイプなんだな、と思いながらまじまじと眺める。タイトルは「桜のほとり」というらしい。

「桜のほとり…って、もしかして吉野様のときの…?」
「ああ。まぁもちろん、依頼で取材した内容を盛り込んでるってだけで直接的にあの件の話ってわけじゃないんだけどね」

そういえばあの依頼も車を出す代わりに取材をするのだと言っていた。確かにあの件はかなり込み入ったものがあったし、日常生活を送るだけでは得られないような体験があっただろう。

「これ、結構担当編集の子の反応良くってさ。売れ行き良かったらシリーズ化するかもって話なんだ」
「へぇ、すごいですね。ありがとうございます。読ませてもらいます」

さすさす表紙を意味もなく撫でた。少しざらついたカバーの紙がなかなかいい触り心地だ。普段あまり読書をする方ではないけれど、知り合いの書いた、かつ自分も同行した依頼の要素が盛り込まれていると思ったら俄然興味が湧いてくる。
夏油の用は献本を持ってくることだけだったようで、コーヒーを飲み干すと五条用にもう一冊を置いて帰っていった。


小説の舞台は戦後、昭和中期。主人公は貧乏探偵で、怪奇事件の依頼をあれこれとこなしている変わり者の男。そこにある日資産家一族の令嬢が一風変わった桜の調査の依頼を持ち込んだ。摩訶不思議なその桜は一族の隠された祠に植えられていて、恐ろしいことに人間の命を吸い取るのだという。その依頼は探偵の興味を強く引き、二人は協力しながらその依頼をこなすことになった。

「すご…面白い……」

普段読書をしないナマエにもある程度するすると読める読み易い文章で、それでいて先の読めない展開にページをめくる手が止まらない。やめどきがわからなくてその晩はついつい夜更かししてしまった。一日で半分近く読んでしまって、先が気になり過ぎるからきっと今晩も続きを読みふけってしまうに違いない。
翌日は眠気を引きずったまま階下の事務所に出勤した。窓を開けて換気をし、軽く掃除をする。そうこうしているうちにここのあるじがご出勤のようだ。

「おはよ、ナマエちゃん」
「おはようございます」

ナマエは換気はもう済んだだろうと窓を締め、五条仕様の甘いコーヒーを用意しに給湯室に向かった。砂糖は5杯。これ以上入れろと毎回要求されるが、身体に悪いですよ、と言っていつもいなしていた。

「どうぞ、いつものコーヒーです」
「ありがと。傑が昨日持ってきたのってコレ?」
「そうです。あ、連絡入ってたんですね。これ。夏油さんの新刊なんですって」

五条のデスクに置いていた四六判のハードカバーを五条がしげしげと眺める。「私もいただいたんですけど、すごく面白いです」と言い添えると、五条が少し面白くなさそうに「ふぅん」と相槌を打ってペラペラとページをめくる。頬杖をつき、視線は上下にきゅっきゅっと機敏に動いた。

「はぁ〜?コレ、僕が変人貧乏探偵ってこと?」
「えっ、うそ、読んでないのにわかるんですか!?」
「読んでるよ。さわりだけど」

それに続けて五条が「速読ってやつ」と言った。速読というものがこの世にあるとは聞いたことがあるが、やっている人間を生で見たのは初めてだ。本当にぺらぺらとページをめくっているだけにしか見えなかったが、これで内容をある程度読み取ることが出来るらしい。速読は訓練するものらしいけれど、自分なら訓練しても出来るようになる気がしない。

「ナマエちゃんは資産家一族の御令嬢だって」
「え、そんな…別に私がモデルってことはないと思いますけど…」
「あるよ、絶対。男女バディものなんて傑いままで書いたことないもん」

その話がどれほどの説得力を持つのかはわからないが、自分がこんな面白い小説のモデルになっているのだとしたら嬉しいやら恥ずかしいやらでくすぐったい。五条がさらに口角を下げる。

「ナマエちゃんが資産家一族の御令嬢なのはいいけどさー、僕が変人貧乏探偵ってどういうこと?」
「いや、それは…」

ナマエがひくっと口角を痙攣させた。日本有数の大企業の経営者で高身長の美形で強くておまけにその実今世紀最高の星読みだなんて言われている男はそれだけでだいぶフィクションの類いである。脚色するにしても最早引き算しか出来ないだろう。そう思ったが釈然としない顔のままの五条にどうこう言うのは憚られ、そこまでの言及はしなかった。

「せめてもっと探偵がイケメンだって設定をもっと全面に押し出して欲しいよね。あ、傑に電話しよ」

えっ、とナマエが口を挟む間もなく五条はスマホを取り出してどこかに電話をかけ始める。相手はどう考えても夏油だろうということは言うまでもない。

「あ、もしもし傑?あのさ、昨日置いてったっていう新刊。あれ探偵もっとイケメンに出来ないの?」

開口一番無茶を言い始めた。献本まで届いているのだから今更加筆しろなんて言うのは無茶な話である。まぁ、五条が無茶を言うのは今更かもしれないけれども。「モデルにするならもうちょっと僕に寄せてよ」だとか「変人っていうのもちょっとさぁ」だとかと夏油の作品に難癖をつけていく。

「この探偵と御令嬢はさ、最後くっつくの?いや、それはなんとかしてよ、傑が書いてんだからなんとかなるでしょ?」

自分たちがモデルにされているのだろうと思うと、何だか五条のこのお客様極まるご注文も恥ずかしい。五条はそこからもいくつか無理難題とも言うべき注文を申しつけてから通話を切った。

「ちょっと五条さん、なんて注文つけてるんですか」
「いいじゃん。勝手にモデルに使われてるんだからこれくらいの注文オッケーでしょ」
「いや、モデルかどうかもわかんないのに……」

相変わらずのマイペースさに恥ずかしさはどこかに飛んでいってため息に変わった。五条は閉じた本を隅に追いやり、ナマエの用意した甘いコーヒーをごくりと飲み込む。「ナマエちゃん、砂糖追加してよ」と言われ、いつも通りに「身体に悪いですよ」といなした。

「ナマエちゃんこれ最後まで読んだ?」
「いえ、昨日いただいたばかりなのでまだ最後までは…」
「これさ、最後には御令嬢が──」
「わーー!!!」

まずい、絶対これはネタバレをしようとしている流れだ。そう気が付いて思わず大きな声を出しながら五条の口を両手で塞いだ。速読でオチがどれほどわかったのかは知らないが、楽しみにしているんだからネタバレされるのは御免である。
思わず手で五条の口を塞いでしまったがこの後どうしようか、と思っていると、手のひらにべろりと湿った感覚が走る。舐められた、と気が付いてびっくりして手を離した。

「な、な、なにするんですか…!」
「だってぇ、ナマエちゃんが可愛いことしてくるからつい」

つい、で人の手のひらを舐めるな、と言ってやりたいが、文句がすぐ口をつくほど頭の回転は速くない。五条はパッと離されたナマエの手首を掴み、少しだけ強引に引き寄せる。その動きで体勢を崩し、前かがみになって掴まれていないほうの手をデスクについた。

「モデルでもなんでも、ナマエちゃんが僕以外とくっつくのは気に入らないの」
「お、横暴だ……」

そんなの知ってるでしょ、と言いながら、必然的に近くなった距離で五条がナマエを見つめる。ひと様の書くフィクションの世界にまで口を出そうというんだからとんでもない話だ。改めて、本当にとんでもない人だな、と思っていると、五条が不意を突くようにナマエの唇を攫う。

「んっ…!ちょっと五条さん!勤務中です!」
「経営者は僕なんだから僕がルールってことで」
「もう…また横暴なんだから…」

こっちは公私混同しないように必死なのに、それを軽々と飛び越えてくるのは本当にやめてほしい。
その後、売れっ子作家夏油傑の執筆する桜のほとりは無事にシリーズ化が決定した。ちなみに貧乏探偵に依頼を持ち込んだ御令嬢は、探偵の事務所で探偵見習いをするという結末を迎えているようだ。

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