桜草はこの手に
二人がまず先に向かったのは、京都高専だった。まず一度戻って情報が更新されていないか確認する必要があったし、ナマエの装備を固める必要がある。何が起こるか分からない場所だ。呪具の備えはあるに越したことはないだろう。

「こんなにお屋敷を離れたのは初めてかもしれません」
「そうだな。別荘に行ったときは車だった」
「はい。自分の足で歩くって…新鮮な心地です」

結界の中心地点は京都の中心部より南にズレている。恐らく伏見のあたりを中心にしているものと思われ、そのためコロニーの外では混乱はあるものの、交通機関も動いているし人の行き来もあった。
加茂宗家から離れて大通りまで出ると、そこでタクシーを拾った。流石に高専まで徒歩移動はキツいし何より時間がかかる。

「ナマエ、随分ここまで急いでしまったが、つらくないか」
「ええ、問題ありません」

ナマエはさっぱりとそう言って、タクシーの窓から外を眺めた。突如として日本中に現れた不可解な現象に戸惑いつつも、爆心地を離れればまるでテレビの中の出来事だと言わんばかりの日本中の反応は異様だ。そのあまりにのん気な様子は大きな災害が起きたときのことなどを連想させられた。

「住んでいたのに、住んでいた場所のことをなんにも知らないなんて、なんだかおかしなことですね」

ナマエが自嘲するようにそう溢す。彼女はお役女を賜ってからろくに外出もさせてもらえずに軟禁生活を送っていた。加茂家が奪ったものは大きい。年若い彼女の、可能性に溢れるべき時間をことごとく奪った。

「…これからいくらでも、外の世界が見られるさ」

かける言葉に悩んで、憲紀はなんとかそう口にした。ナマエは窓の外に向けていた顔をふっとこちらに戻し、その相貌を綻ばせる。普段は凛として見えるけれど、こうして笑うと少し幼く見えた。

「憲紀さまが連れて行ってくださるんですか?」
「ああ。どこにでも連れて行くよ」

憲紀は行儀よく膝に乗せられているナマエの手を握った。これからどうなるかもわからないのに、彼女との未来を想像するのは不思議と意味のないことをしているような気持ちにはならなかった。
タクシーでそこそこの距離まで移動すると、そこから徒歩で高専の敷地まで向かう。境界線のところに補助監督がいて、事情を軽く説明して中に通してもらった。

「ここが…憲紀さまの通われていた、呪術高専…」
「ああ。私の学年は三人いたよ。ナマエともきっと、同級生だったな」
「ふふ、私が呪術高専にだなんて烏滸がましい話です」

東堂と西宮はいいやつだ。仲がいいかどうかは別として、きっとナマエが同級生にいたら賑やかな学校生活になっていたことだろう。そう確信すると同時に、ナマエの美しさが他の誰かの目に触れて仕舞うのがいやだと子供じみた考えが過ぎってしまった。

「私は呪術の才能があまりありませんから、呪術師にはなれなかったと思います」
「そうなのか?しかし視えるのだからそれなりに教育を受けることは重要だ」

実際のところ、呪術師になれる人間はごく一握りだ。そもそもの呪力量が術師として活動できるかどうかもあるし、ときに人間を相手にしなければならない任務内容にはメンタルの適正もウエイトが大きい。

「術師の家に生まれたのだから、幼少期は教育くらい受けたんじゃないのか?」
「基礎的なことでしたら少しは……結界術ならちょこっとだけ得意だったんですよ」

ナマエが恥じらいながらそう言って小さく笑った。これは初めて聞くことだ。あまり自分のことを主張しない彼女が「ちょこっとだけ得意だった」というのなら、ひょっとして結界術に関してはかなり才能があるのかも知れない。
しばらく歩いて門を潜ると、すぐそばに西宮の姿があった。彼女はこちらに気が付き、トトトトと駆け寄ってくる。

「加茂くん!戻ってきたの?」
「ああ。加茂家の現状の報告と桜島コロニーに入る前に装備を整えたくてな」
「加茂家の現状って…」
「実質崩壊だ。夏油傑…いや、羂索に乗っ取られた。私の父は羂索に殺された」

憲紀が端的に事態を説明していく。家の人間がそれぞれどうなっているか細かなことはわからないけれど、今は加茂家が正常に機能していないことさえ分かればそれでいい。呪術界の礎のようなものがことごとく覆ろうとしている。そんな中で、自分に出来ることは少ない。

「加茂くん……え、あれ、女の子…?」

西宮がそこで憲紀の後ろに立っていたナマエに気が付いた。憲紀は一歩右に退き、ナマエを正面に立たせる。ナマエがおずおずとした様子でぺこりと頭を下げた。

「は、初めまして。ミョウジナマエと申します…」
「彼女は私の婚約者だ。わけあって加茂宗家の中で暮らしていたんだが、家が滅茶苦茶になって保護してきた」

憲紀が「婚約者」と呼んだことに西宮は少し驚いていたようだった。お役女云々は彼女にとっても憲紀にとっても非常に説明の難しいものだから割愛で構わないだろう。西宮はナマエに自己紹介と軽い挨拶をすると、憲紀に向かって口を開く。

「へぇ。じゃあこの子が加茂くんの言ってた向日葵のお姫様ね」
「向日葵のお姫様?なんだそれは」
「真依ちゃんたちから聞いたの。向日葵のこと、私の大切な人が一番好きな花なんだって加茂くんが言ってたって」

そう言えば、三輪と真依に向日葵の花をお裾分けされたときにそんな話をした覚えがある。それを向日葵のお姫様なんて愛称をつけられていたとは知らなかったが。

「どちらかというと、ナマエは白百合の姫だな」
「はぁ?」
「ナマエは凛としているし、綻ぶような笑顔はいじらしい。百合の花は私が一番好きな花だ」

憲紀が大真面目にそう言って、そのままいかにナマエが清く美しく素晴らしい女性であるかを説明しようとすれば、小さな声で「の、憲紀さま…」とナマエがツンと憲紀のシャツの裾を引っ張る。

「ちょ、ちょっと加茂君わかったから!彼女恥ずかしがってるでしょ!それくらいにして!」
「ん?そうか?」
「ホンットわざとなのか天然なのかわかんないわ」

西宮に止められてナマエを誉めそやすのをしぶしぶ辞めた。左隣を見下ろせば、ナマエが真っ赤になって視線を下げている。

「私はこれから禪院家に行ってくる。真依ちゃんが心配だし」
「ああ。私はここで体勢を整えたら桜島コロニーに出発する」

西宮は「死なないでよね」と言ってからナマエに柔らかく笑いかけると、すれ違うように敷地の外へ出て行った。東堂は右手を失った。メカ丸は小さな機械に込めた残された最後のメッセージさえ途絶えた。三輪はメカ丸の死に傷つき感情のバランスを崩している。真依は禪院家から逃れることはできない。
今年の交流会から始まった異変は次々と憲紀の世界を変えていく。渋谷で起こった事変で憲紀自身は他の面々に比べれば大したダメージは受けていないけれど、今日加茂家から飛び出した先で見た母親の現在の姿は、重く深く突き刺さっていた。

「憲紀さま…?」
「…いや、なんでもない」

ナマエがいなければ、もっと自棄になっていたかもしれない。母を加茂家に呼ぶことは、自分の生きる目標のようなものにもなっていた。そのために優秀な呪術師になろうと努力してきたし、それが母の喜んでくれることだと信じていた。

「ナマエ、ありがとう」
「え…?」
「君がいてくれるから、私はまだ自分の足で立っていられるよ」

憲紀はそう言うと、ナマエの手を取って高専の中を進んだ。いつになく慌ただしい。京都高専所属の呪術師が片っ端から集められ、突如始められた死滅回游の対処に追われている。そして憲紀自身も例外なく、これからその対処に向かう。
不意に風がびゅうっと吹いて、憲紀の横髪を揺らした。毛先が頬に触れる。この髪型にしているのはもうずっと昔の子供の頃からで、それこそ当時は母が散髪をしてくれていた。しかしこれももう、無用の長物だ。

「……髪を…切ろうかと思っているんだ」
「おぐしをですか?」
「ああ。私は昔からずっとこの髪型にしていてね。小さい頃は母が切ってくれていたんだ」

ナマエが控えめに憲紀を覗き込む。この髪型が似合うと思って切ってくれていたのか、それともこの髪型が切りやすかったのかは聞いたことがない。なにせ母には本家に入ってからずっと会ってさえいないのだ。自分の髪型は好きでも嫌いでもなかったけれど、不思議と変えようとは思わなかった。

「母に、見つけてもらうために…ずっと切れなかった」

同じにしていたら、いつか母が見つけてくれるかもしれないから。

「でももう、その必要もなくなってしまったからな」

憲紀が自分の毛先に触れる。それほど丁寧な手入れをしているわけではないから、手入れの行き届いたナマエの髪に比べてパサついているし、傷みも散見された。それでもこれは、母と自分とを繋いでくれる目印だと思っていた。その役割は、もう終わりだ。

「…憲紀さま、私に切らせていただけませんか?」
「ナマエに?出来るのか?」
「ええ、髪結いもご奉仕のひとつと仕込まれています。ご満足いただけるか分かりませんけれど…」

お役女というもの自体が古い時代を髣髴とさせる様式だからか、散発や床屋ではなく「髪結い」と表現されると納得のいくことだった。今までの指針を捨てるのなら、彼女の手で供養してもらえることほどいいことはないんじゃないか。たかが髪を切るだけの話に、妙な神聖性のようなものを感じてしまう。

「ナマエがやってくれるならきっと満足するさ」

憲紀はそう言って、無意識のうちにいっそう手を強く握る。今度は離さない。大事な人をそばでずっと守るのだ。言葉に出さないそれに応えるかのように、ナマエもぎゅっと握り返した。
庵に加茂家の現状を報告すると、その足で補助監督に戦闘への備えを用意してくれるよう頼み、ナマエを連れて寮の裏手の中庭に出る。もっと上層部への報告をしろという話になるかと思ったけれど、その上層部である加茂家があんなことになっているのだから、もはやそんな連中は機能していないだろう。

「まぁ。散髪用のはさみもおいてあるんですのね」
「ひと通りのものは揃っているよ。自分で切る人間もいるからね」
「自分で自分のおぐしをとなると大変そうです」

タオルやビニール袋、櫛にはさみを用意して、パイプ椅子を持ち出して準備を始める。タオルを首元に巻いた後でビニール袋に穴を開けて頭から被れば、ナマエが見たこともない光景に目を丸くしていた。

「こうやるといいって三輪──後輩に聞いたんだ」
「なるほど…確かにこうすれば細かい髪が付かずに済みますものね。なんだか憲紀さまのこんなお姿を見られるなんて不思議な気持ちです」
「……笑いたければ笑ってくれ」

いかに今不格好なテルテル坊主と化しているかは自覚がある。ナマエは口元を緩め「憲紀さま、可愛らしくなってしまわれましたね?」と控えめに笑った。ひと通りの準備を済ませて散髪が始まる。ナマエの細い指が髪に触れる感覚は心地いい。

「どのくらい短く切りましょうか」
「そうだな。耳が出るくらいには短くしてほしい」
「えっ、そんなに短くですか?」
「ああ」

切るのならばっさりと切ってしまいたい。ナマエは少し驚きつつも、慎重にはさみを入れた。ジョキジョキと小気味良い音が耳元で規則正しく聞こえてくる。ナマエの手つきは丁寧で、不思議と穏やかな気分になった。

「憲紀さまのおぐしはさらさらしていて綺麗ですね」
「それはナマエのほうだろう。私はナマエの髪を触るのが好きだよ」
「…真っ直ぐ言われると恥ずかしいです…」
「はは、仕返しさ」

くすぐったいリズムで言葉を交わす。ゆっくりとした時間は、日本に起きている危機を忘れさせそうなほどに緩やかに感じられた。順調に散髪が進み、長い髪に覆われていた耳元がすうすうと涼しくなる。頭を動かさないように慎重に視線を落とせば切り取られた自分の黒髪がぱらぱらと広がっていた。
大きく動いていたはさみが次第に全体を調整するように細かく動くようになり、そのころには憲紀の頭もだいぶと軽くなってきた。

「憲紀さま、このくらいでいかがですか?」
「ああ、ありがとう。丁度いいよ」

ナマエが手鏡を渡してそう言った。憲紀が思っていたよりも少し短くなっていたけれど、これはこれで新しい自分に変わったような気分になれる。手鏡をナマエに返し、細かい髪を払い落すと、自室の洗面所へ向かって一度軽く洗髪をした。短くなった髪は、前と違ってタオルで拭くだけでそれなりに乾くようだ。

「サッパリした。頭が軽くて良いな」
「ふふ、憲紀さまならどんな髪型もお似合いになりますよ」

一人で放っていくわけにもいかないしナマエも寮室へ連れてきたが、ここに彼女がいるのは新鮮で、だけど本当は何度か夢で見た光景だった。ナマエを椅子に座らせて、自分はその向かいのベッドに腰を下ろす。ふと見れば、かすかではあるがナマエの指先が震えているような気がした。この部屋に来た緊張だとか、憲紀を前にしている緊張だとか、そんなものじゃない。屋敷を出て見慣れないものに触れ、そのうえこのあとは自分について命をかけなければならない危険な場所に踏み込むことになる。

「ナマエ、怖いか」
「……ほんとうは、ほんの少しだけ。でも、憲紀さまのおそばを離れるつもりはありません」
「私だって今更離すつもりはないよ」

寮室の中は静かで、外界から隔離されて時間が止まったような気さえする。先の見えない霧の中にこれから二人で飛び込む。だけどきっと、きっとまた来年も、二人で満開の向日葵を見に行く。憲紀は身を乗り出して、ナマエの手をぎゅっと握りしめた。

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