ディストラクション・ロマンス
まどろむ。炎のなかに揺られている。意識と無意識の境界線は曖昧で、何もわからないけれどそれが心地いい。この感覚は、幼いころから知っているものだった。これの正体がなんなのかを知ったのは、小学校に入学するくらいの頃だった。
ナマエの家はいわゆる呪術師の家系で、両親ともに呪術界の関係者だった。といっても、特別いい血筋というわけでもない。家系図を辿ってもご先祖様に辿り着けるかどうか怪しいくらいの小さな家だった。

「ナマエ、あなたが受け継いだその術式はね、ひいおじい様とおんなじものなのよ」

母にそう言われた。自分の術式は呪力を炎に変換するものだ。手のひらからぼうっと流れる呪力を術式に流し込めば、それはたちどころに炎に変わった。友達は多くはなかったけれど、あとになって振り返ってみれば術師の家系の人間にしては恵まれていたと思う。しかし自分と周りとの決定的な差を思い知りながら生きてきたことも事実で、だから呪術高専という場所は自分の救いになると思っていた。

「五条先輩と夏油先輩、どんな人たちだろうね」
「どんな方でしょうね、会ってみたい気もしますが…少し怖い気もします…」
「…確かに」

同期の伊地知は気が弱くて優しくて、異性だったけれど同い年はふたりぼっちだったし、それなりに上手くやれるだろうと予感した。彼は非術師の家系の出身らしい。だけどこの世界を常識にする自分とも上手く付き合ってくれた。
自分たちの二つ上にはとんでもない才能がいる。呪術界の粋を集めたような男で、比類のない美しさと目の覚めるような真っ青の瞳を持っている。彼の名前は──。


ずきっと頭が痛んだ。ぼやける視界の中で目を覚まし、まばたきを三回。徐々に意識が覚醒してきて、自分がどこかに横たえられているのだと気が付いた。そうだ、これは高専の医務室の天井だ。それに気が付いて、自分が任務中、ないし高専の敷地内で倒れたのだと理解した。

「なん…で…?」

理解したけれど、思い出せない。何故自分は倒れているのか、どうやってここまで運ばれてきたのか、もやもやの向こうに隠されたまま、思い出すことができない。ぐっと両腕に力を込め、上体を起こす。やっぱりここは高専の医務室のベッドの上だ。
家入はいないのかと思ってきょろきょろあたりを見回していると、がらりと引き戸が開かれる。そこには男が立っていて、起き上がったナマエと目が合うとその美しい青をハッと見開く。

「ナマエ…!」

ナマエのもとまで駆け寄り、手に持っていた紙袋を落として両手を広げると、勢いよく抱きしめる。耳元で「良かった…」と小さく呟いた。抱きしめられる温度に覚えがあるような気がする。だけどわからない。

「えっと…私いつの間にかここに運んで貰ってたみたいで…」
「そうだよ、丸一日目を覚まさなかったんだ」
「丸一日…」

思っていたより自分は眠ってしまっていたらしい。だからこんなにも意識がパッとしないのだろうか。それにしても、自分を抱きしめているこの男は。

「えっと…どなた、ですか…?」

ナマエが腕の中から抜け出てなんとかそう声に出す。男は先ほどよりも驚いた顔をして、その青の中に自分が映っているのを確認する。いったい彼は誰なんだろう。こんなにも美しい男だったら、一目見るだけで覚えていそうなものなのに。

「…はぁぁ、獏みたいなの祓いに行くって言うからひょっとしてって思ったけど…案の定運悪いね、お前」
「え…?」
「名前と所属は言える?」

男は少し冷静さを取り戻してため息をつき、ナマエと正常な距離を取るとこちらに言葉を向けた。

「ミョウジナマエ、東京高専所属の二級術師です」
「ハイよくできました。てことは基本的な記憶まるごといかれてるわけじゃなさそーね」

ナマエが質問に答えれば、男はそのまま何かを思案するように長い指で自らの顎先に触れた。本当に、彼の美しさはこんなちょっとした日常的な動作が絵画のように昇華されてしまう。

「僕は五条悟。東京高専の特級術師。ナマエの二つ上の先輩」
「と、特級…!?」

彼の等級を聞かされて驚くのはナマエの番だった。特級術師といえば日本に数人しかいない貴重な存在だ。そんな人物を呪術界にずっと属している自分が知らないのなんて妙だ。何かがおかしい、ということを察するには余りある情報だった。男はそのまま上体を折り曲げ、ナマエの顔を覗き込んで唇を三日月に歪める。

「ついでに言うと、君の恋人」

その三日月から告げられた事実に「は!?」と「え!?」の間みたいな変な声が出た。そのとき丁度家入が医務室に戻ってきて、この訳の分からない状況をどうにか説明してもらいたいと一目散に泣きついた。


話によれば、ナマエが倒れたのは現場であり、同行する補助監督によって高専に運び込まれたらしい。外傷はなかったが、倒れたのは間違いなく呪霊の影響であり、目を覚ますまで丸一日がかかった。そして目の前で拗ねたような顔をしている男は彼の言う通り東京高専の所属の特級術師であり、且つナマエの恋人である。しかしどうやら彼に関することだけがすっぽりとナマエの中から抜け落ちてしまっているようだ。

「だいたいさぁー、なんでよりによって僕のことだけ忘れるわけ?」
「そ、そう言われましても…」
「硝子とか伊地知のことはしっかり覚えてるくせに、恋人忘れるってどういうことよ」

伊地知を呼び出して家入と四人で現状の認識のすり合わせを行った。同期の伊地知のこともしっかり覚えていて、やっぱり抜け落ちているのは五条のことだけなのだと思い知る。それにしても、特級術師なんてとんでもない立場の、しかもこんな美形が自分の恋人だなんて信じられない。自分が片想いしているだけならまだしも、彼が自分のことを好きだなんて。

「まぁまぁ…そのくらいで。ミョウジさんの倒れたという任務で祓った呪霊ですが、前例を調べたところ 同型の呪霊が同じように局所的な記憶の混濁を起こす事例があるみたいですね」

伊地知が割って入った。家入も伊地知も五条のことを当然のように知っているようだし、やっぱりおかしいのは自分の方なのだ。不思議と不安に感じるようなことはなくて、それはこの三人があまりに落ち着き払っているからだろう。

「で、事例ではどうだって?」
「呪霊の祓除後、一定時間で戻るケースが殆どのようですね。ただその戻るまでの時間はまばらのようですが」
「なるほど。じゃあしばらく経過観察だね。確かにナマエの呪力が糸みたいに繋がって遠くから呪力が戻ってる。多分祓除現場から戻ってきてるってカンジかな」

五条と伊地知が情報を擦り合わせる。はたでそれを聞きながら自分に起こっている事態をぼんやりと理解した。どうして五条にそんなによく呪力の流れが見えているんだろうと思って「なんで見えるんですか?」とそのまま聞けば「僕は眼がいいんだよ」と返ってきた。そうか、五条家の人間だから、彼は六眼持ちなのだ。ますます自分とは吊り合わない相手だと思う。

「この子、どこに泊まらせるつもりだ?」

今度口火を切ったのは家入だった。泊まるも何も自分の家に帰っちゃいけないのか、と思って「え?」と聞き返すと「いま君は五条と同棲してるんだよ」と返ってきた。驚いて今度は「ええ!?」ともっと大きい声を出してしまった。

「五条、お前まさかこの状態のナマエを連れて帰るつもりじゃないだろうな。」
「まさか。さすがに僕もそこまで鬼じゃないよ。とりあえず寮の部屋に泊まらせればいいんじゃない?別に僕のこと以外全部覚えてるなら寮で寝泊りしても不便はないでしょ」

大きな態度に反して優しい彼の提案にホッと胸をなでおろしていると「ま、一週間経っても戻んなかったら強行手段に出るけどね」と余計な言葉が追加された。強硬手段とは何なのか、なんとなくだけど怖くて聞けなかった。


伊地知に手続きをお願いして用意してもらった寮室の中、ナマエはなんだか腑に落ちないものを抱えながら窓を開けて空を見ていた。もうとっぷり日は暮れて、夜の空には星がぴかぴか輝いている。今日は新月らしい。

「…はぁ…あんな美形の特級術師が彼氏って言われてもなぁ」

全く実感が湧かない。自分は平々凡々を地で行く人間だ。それに彼に関する記憶以外はすべて問題なく残っているのだから、余計にそう思えなかった。じっと空を見上げていると、コツン、と窓枠のすぐそばに下の方から投げられただろう小石がぶつかった。一体なんだ、と思ってその先を見ると、暗がりの中に白髪の美しい男が立っていた。

「五条…さん?」
「や。帰る前に顔だけ見て帰ろうと思ってさ」

ぎゅっと心臓が痛くなる。いくらナマエに実感がなくても、五条からすれば恋人が自分のことだけをすべて忘れてしまっているという状況なのだ。ある程度解決が時間の問題だとわかっていても、そんな状況が苦しくないなんてことはないだろう。
傍若無人が服を着て歩いているような彼だけれど、普通の人と同じように傷つくし、むしろその強さは傷を隠そうとさせてしまう。だからそんな彼が──。

「え…あれ…?」

ペラペラと勢いよく本のページをめくるみたいに記憶が映像化されて頭の中に流れ込んできた。初めて会った日、空から降ってきた彼のあまりの美しさに驚いたこと。学生時代はずいぶんと尖っていて、話しかけるのも気が引けるくらい怖いと思っていたこと。だけどその実近くで過ごすようになって、じつは優しいところだって弱いところだってあるのだと知ったこと。

「あっ…!」

そうだ、昔こんなふうに彼が寮室の外から声をかけてきたことがあった。それからつい最近も、言葉の足りなさからすれ違って高専の寮に逃げ込んで、そんな自分を彼はここまで迎えに来てくれた。
ナマエは窓枠から身体を引っ込めると、勢いよく廊下を走って五条の立っている裏庭に向かう。ぎぃぎぃと古い床が鳴るのもおかまいなしで、玄関で適当なスリッパを引っ掛けると、慌てるあまりに二回ほど転びそうになりながら五条のもとに辿り着く。

「ご、五条さん!思い出しました…!全部…!」
「はは、思ったより早かったね」

息を切らせながら戻ってきたナマエの頭を五条がポンポンと優しく撫でる。そうだ、この体温を自分はよく知っている。五条が小さく「良かった」とこぼした。柔らかい声がナマエの耳の輪郭をゆっくりと伝っていく。

「ナマエの引きの悪さは一生治んないねぇ」
「…はぁ…自分でも恐れ入りますよ……でもあの獏みたいなやつ、なんで五条さんの記憶だけなくなっちゃったんですかね…」
「まぁ…仮説を立てるとするなら…そうだね、一番強い記憶を吸い出した、とかかな」
「強い記憶…ですか…」
「そ。呪いは人間から生まれる。なら、一番強いものに結びつくのも不思議じゃない」

まぁ確かに、この五条悟という男はナマエの人生においてかなりのウエイトを締める存在だ。獏というものは本来悪い夢を食べる伝説上の生き物だけれど、今回の原因になった呪霊はあくまで呪霊なのだから、成り立ちの中でそういう存在に変わったのかもしれない。
それにしても、本当に思い出せて良かった。五条は落ちついて対応をしてくれたけれど、自分が逆の立場だったらもっと取り乱すだろうと思う。

「はぁ…ほんと思い出せなかったらどうしようかと思いました…」

ナマエが大袈裟なくらい大きなため息をつくと、五条は頭を撫でていた手をそのまま横に滑らせて、耳の輪郭を確かめるようにすうっとなぞる。それから後頭部に手のひらを回し、少し強引に引き寄せた。

「安心しなよ」

五条の声がまたナマエの耳たぶをくすぐった。いつの間にかもう片方の手がナマエの腰に回されていて、緩やかに逃走を許さない体勢になっている。

「地獄の果てまで追いかけてあげるから」

ひくっと口角が痙攣する。なんて物騒な台詞だろう。だけど五条の声が甘やかだから、まるでとってもロマンチックな台詞でも言われている気分になった。地獄の果てまで追いかけるなんて、彼が言うと本当に出来てしまいそうだから怖い。

「…五条さんが言うとシャレになんないですね」
「ま、それくらいじゃナマエのこと手放すつもりはないって話」

あまりに真っ直ぐぶつかってくる言葉がくすぐったくて身じろぎをする。そうだ、彼に抱きしめられているとまどろみを思い起こすのだ。彼の体温は昔から自分を守ってくれた、あの炎のまどろみに似ている。

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