君のことならなんだって
事なかれ主義、という言葉があるが、自分はまさにそれだとナマエは思っていた。中学のころ同級生のいわゆるグループとかカーストとかそういうのに巻き込まれて面倒なことを何度か体験した。その経験があって、高校の時にはとくにこれといったグループに属さず、のらりくらりと学校生活を送っていた。
高校になってもカーストというものは存在するらしく、教室の中ではある程度の集まりを作って休み時間にお喋りに興じていた。ナマエはそのどれもに積極的に参加することはなくて、自分の席に座って本を開いている。

「や、ナマエ」
「…夏油くん」
「なに読んでるの?」
「恋愛小説だよ。先週発売になったの」
「へぇ。私も読んでみようかな」

彼の名前は夏油傑。この学校で間違いなくスクールカースト上位に位置している人間で、ナマエもそれなりに仲良くしている。もっとも、ナマエの友人である家入が夏油の友人である五条と仲が良く、その流れで関りがあるというのが正確なところなのだけれど。

「…夏油くん、ミステリとか歴史小説しか読まないでしょ?」
「そんなことないさ。ナマエが読んでるなら充分興味があるよ」

ナマエの前の席に無断で座り、こちらを覗き込むような姿勢でにこにこと笑ってそう言った。この笑顔が、何と言っていいのか、少し苦手だった。まるで自分のことを特別だとでもいうような顔をする。「魔性」という言葉を男性に対して使うのかどうかは知らないけれど、まさに彼は魔性という言葉が良く似合うと思う。

「げとうくーん、一年の女子が呼んでる!」
「え?ああ、わかった、行くよ。…じゃあナマエ、またあとでね」

教室と廊下の境界線のあたりからクラスメイトが夏油を呼ぶ。廊下には女子二人組が立っていて、その片方がもじもじと少し恥ずかしそうにしていた。ああ、これは告白の呼び出しだな、ということは、今までの経験則でわかることだ。
ナマエは女子の方へと歩いていく夏油を見送る。夏油は女子生徒にかなり人気で、告白されるというのも珍しいことじゃなかった。ナマエは自分の視線を手元の本に戻す。素敵な恋愛なんて言うものは、本の中にしか存在しない。


学園祭の準備期間に入って、ナマエのクラスの模擬店が中華風カフェに決まった。食べ物系の出し物はかなり競争率が高い。くじ引きでその権利を勝ち取ってきた学級委員長はクラス中から喝采を浴びていた。

「ナマエは裏方なのかい?」

それぞれの役割を決めるホームルームが終わったあと、いの一番に夏油がナマエの席までやってきて尋ねた。ナマエの当日の担当は厨房での調理である。「そうだよ」とそのままの事実を肯定すると、夏油は「私も裏方にすればよかった」と漏らした。

「さすがにそんなの他の子が許してくれないでしょ」
「こういうのは本人の希望が一番だろ?」
「それはそうだけど…」

彼は満場一致でウェイターに決まっていた。学校の人気者なのだから当然の結果である。夏油は「せっかくならナマエと一緒の仕事したかったな」と、狙っているのか他意はないのか、思わせぶりにもとれることを平気で口にする。彼は悪いひとではないと思うけれど、こういうところは「悪い」のではないかと思う。

「あ」

何を思いついたのか、夏油はそう小さく声をだす。そのさも「いいことを思いつきました」という素振りに一抹の不安を覚えながらじっと彼の思い付きが口にされるのを待つ。

「でも、違う仕事してたら一緒に学園祭回れるね」
「えっ…」
「あれ、もう先約あった?」
「ない…けど……」

思わずそう言ってしまって、そこからは全自動で丸めこまれた。いや、そもそも彼がナマエを誘ってこなくたって家入と五条が皆で一緒に回ろうと言う可能性もなくはなかったのだけれど。

「おいすぐるー!」
「あ、悟だ。じゃあね、ナマエ」

自席の近くから五条が夏油を呼んだ。きっと今からまさに「文化祭4人で回らね?」とでも言われるに違いない。べつにその4人の中の二人組がどうという関係でも、特別な感情を抱いているというわけでもなかったけれど、4人で過ごしているのが案外心地いいのだ。だからなんとなくそういうグループになっている。人気者の彼らからしたら、特別扱いをしてこないナマエと家入というのは気軽なのかもしれない。

「ナマエ、どうしたの?」
「しょ、硝子ちゃんんん…」

いや、誰も特別な感情を抱いていないというのは嘘になるかもしれない。声をかけてきた家入に泣きつくように情けない声を上げる。

「顔、真っ赤だけど」

夏油を呼び出した相手が女子じゃなくて五条だったことに、ホッと胸を撫でおろしている自分がいるのだ。


文化祭の準備は着々と進んだ。やってみるまで分からなかったことだけれど、飲食関係の出し物は結構面倒くさい。食中毒なんて起こすわけにもいかないから言わずもがな衛生関係の決まりごとは多くて大変だし、飲食関係の出し物だからといってクラスに与えられる費用が劇的に増えるわけでもないから、軍資金の中でやりくりするのも大変だ。

「ナマエー、そっちどう?」
「あ、硝子ちゃん。こっちはだいぶまとまったよ。コスパ良さげなメニューもいいかんじだし」

家入はナマエと同じ裏方であるが、店内の装飾とかを準備する内容で、メニューを考えたり当日キッチンを担当するナマエとは別だった。小休止らしき時間に教室の隅っこに集まる。彼女からは結局学園祭当日誰と回るとか、一緒に回ろうかとも言われていないけれど、夏油や五条から聞いたのだろうか。

「あのさ、硝子ちゃん、当日誰かと回る予定…?」
「え、べつに決めてないけど」
「そ、そうなんだ…」

どういうことだろう。てっきり4人で回るという展開になると思ったのに、彼らはまだ家入に言っていないのだろうか。なんとなくグループで行動する予定調和はあるけれど、それはいつも絶対というわけではない。自分を誘えば自動的に家入もついてくるだろうと思われているのか。あながち間違ってはいない気がするが、どちらかと言えば「家入を誘っておけばナマエにも声をかけるだろう」と思われる方が納得である。

「ナマエ、誰と回るか決まってんの?」
「えっと…その、夏油くんに声はかけられて…るんだけど…」

もごもごと歯切れ悪くそう言った。自分でも彼の誘いをどう理解していいか分からない。ナマエがごにょごにょ口ごもったままでいれば、ワァっと教室の中がにわかに騒がしくなる。会話が中断して自然と視線がそちらに向いてしまう。騒がしさの中心は当日の衣装を着た五条と夏油だった。

「五条も夏油もめっちゃ似合ってるじゃん!」
「やば!ねぇ、写真撮っていい!?」
「いーわけねーだろ!」

クラスの女子に囃し立てられ、五条が反論するとそれにまた「いいじゃーん!」と女子が返している。漢服風のその衣装はひらひらと裾や袖が揺れ、いつも制服姿ばかりを見ているからかなり新鮮に感じたし、スタイルのいい二人が着ているとより様になっているように感じる。

「ハハ、なんかこういうのコスプレみたいで照れるね」

夏油がそう言って笑っているのが聞こえた。とくに夏油のほうはその涼しげな相貌がテーマとマッチしていて、ナマエの中で少し前に読んだお気に入りの中国宮廷ロマンスシリーズの登場人物を髣髴とさせた。

「相変わらずあの二人ヤバいな」
「うん、ほんとに…硝子ちゃんがいなかったら私なんか話すこともなかったかも」

一瞬途切れた会話がまた再開される。事実、家入という友人関係がなかったら五条伝手に夏油と関わることもなかっただろうし、本来はこの教室の隅っことクラスの中心という、この距離感が適正であるようにも感じられた。少しだけ自虐の混じったナマエの相槌に家入が「そうでもないと思うけど」と返す。

「ねぇナマエさ、夏油と二人で回るのイヤなら五条誘ってこよっか?」
「えっ…あ、えっと、嫌とかではないん、だけど…」

家入が気を遣ってそう言ってくれるけれど、決して単純に嫌だと思っているわけではなかった。事なかれ主義でも意思はあるし、気の進まない相手であれば言い訳を弄して波風の立たないように断っていただろう。

「緊張する…っていうか、その」

ナマエがくるくる色々なものが混ぜられた感情を適切に言語化出来るように試行錯誤して、それに家入が意味深に「ふーん?」と相槌を打ってこちらを見つめる。ちらりともう一度夏油のほうに視線をやれば、彼がこちらを見てにっこりと笑っていた。慌てて顔をまっすぐ前に背けても逃げられるはずはなくて、すぐにそばまで寄る人影を感じた。

「ナマエ」
「げ…夏油くん……」

目を合わせることが出来なくて、おろおろと視線を泳がせる。「当日の衣装、どうかな?」と振られて、返す言葉を探していれば、ナマエより先に硝子が「中国の悪い宦官みたいでおもろいよ」とわかるようなわからないような言葉を返していた。

「ちょっと夏油。私学園祭ナマエと回ろうと思ってたんだけど」
「悪いね。早い者勝ちってことで。いいだろ、たまには私に譲ってくれたって」

夏油と家入の間にバチバチと火花が散る。何の火花なのかは、ナマエの思った通りだとしたら自分に都合が良すぎる気がした。


学園祭当日、中華風だとかメニューだとかという試行錯誤や努力とは無関係ではあったが、学校の人気者が二人もウェイターをやるという話題性のために予想以上に繁盛した。キッチンも忙しくて、ナマエの担当している時間は終始バタバタしていた。

「ミョウジさーん、この注文って出来てる?」
「うん、今できたところだよ。3番テーブルまでお願い」
「はーい」
「新規オーダーでーす!5番アイスコーヒー、ジャスミンティー、杏仁プリンふたつでーす」

がちゃがちゃとホール担当とキッチン担当の声が入り混じる。簡単なメニューばかりにしているといっても、慣れないことの連続だからみんなてんてこ舞いになっていた。自分の担当の時間はもう5分前に終わっているのだけれど、忙しすぎて交代のタイミングが掴めなかった。

「ミョウジさん!もう休憩入って!」
「えっ…でもめちゃくちゃ混んでるし…」
「五条君がウエイターやる時間来てるから!タイミング逃すと抜けらんないよ!」

委員長が気を利かせて作業中のナマエにそう声をかける。キッチンのこの忙しさの中で抜けるのは申し訳ないと思うけれども、確かに委員長のいう通りどこかで区切りをつけないと永遠に抜けられない。夏油の受け持ちの時間も相当だったが、五条の受け持ちの時間になればこれ以上に混みあうことは目に見えている。

「じゃあ、抜けさせてもらうね。ありがとう」

キッチンの他のメンバーにもそう言って、控室代わりに使わせてもらっている空き教室に滑り込んだ。三角巾とエプロンを外して畳み、教室の隅に備え付けられている小さな鏡の前でマスクを取って前髪を整える。この後は夏油と一緒bに学園祭を回ると約束しているから、普段はつけない色付きリップを塗った。
夏油くんはそういえばどこにいるんだろう。スマホで連絡を取ろうか、とポケットからスマホを取り出せば、丁度同じタイミングで空き教室のドアが開かれた。

「はぁーっ、疲れた」
「げ、夏油くんっ…!」
「ごめんね、抜けるタイミング難しくて。待たせちゃったかな」
「ううん。キッチンも混んでたから私もさっき出てきたところ」

夏油はまだ衣装のままだった。着替えが必要な生徒は更衣室で着替えるようにいわれているから、急いで飛び出てきたというところなのかもしれない。キッチンでの作業は目まぐるしくて、実のところ同じ時間を担当していたのに彼の姿は殆ど見ることが出来ていなかった。
彼の色気がいつもよりも濃く感じるのは、普段お団子にしている髪がハーフアップにセットされているからだった。どことなく大人っぽく見えるし、衣装である漢服にも良く似合っている。

「あれ、今日ナマエちょっと違うね」

夏油がこちらを覗き込む。彼の普段との違いや衣装について考えていたから反応が遅れた。夏油は髪型も服も違うけれど、ナマエはエプロンも三角巾も外しているし、至っていつも通りの制服姿だ。強いていうなら先ほど鏡を見ながら塗った色付きリップくらいなもので、そんなの些細なことすぎて変化でも何でもない。「いつもとおんなじだよ」と言おうとして、それより先に夏油が口を開く。

「あ、わかった。リップだ」
「えっ」
「あれ、間違えた?」
「う、ううん…ちょっと色のついてるリップは塗ったんだけど…」

そんな小さな違いを見つけられると思わなかった。夏油は自分の間違い探しが成功したのに満足したのか、覗き込むように折り曲げていた上体をすっと元に戻す。自分でも赤くなっているとわかるくらい顔が熱い。

「じゃあ、行こうか」
「あれ、夏油くん着替えは?」
「ああこれね。学校回るついでに宣伝してこいってさ」

じゃあなんだ、この状態の彼とこの後の学園祭を一緒に回るということか。普段と違う様子に今でも心臓は潰れそうなほどぎゅうぎゅうと痛いのに、こんなのもう拷問じゃないか。

「この衣装ってさ、ナマエが読んでた小説の登場人物っぽいよね。ほら、ナマエの好きなやつ」
「えっ…なんで知って…」
「だってナマエが読んでるなら充分興味があるんだって、前も言っただろう?」

夏油が笑う。なんでそれを知っていて、しかも覚えているんだろう。狙っているのか他意はないのか、こんなの狙われなくたって撃ち落とされてしまうに決まっている。学園祭が終わるまでどうにも心臓はもたない気がして仕方がない。

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