名無しの関係
会社から自宅に戻ると、部屋の鍵が開いていた。独り暮らしなのだから普通は「ど、泥棒!?」などと空き巣を疑うべきところなのだろうけれど、生憎この鍵を開けた主には大いに心当たりがある。ナマエは意味をなさなかった鍵を引き抜いて扉を開け、シューズボックスの上の定位置のフックにちゃりんと引っ掛けた。

「おうナマエちゃん、先にやってんでぇ」
「…はぁ、やっぱり真島さん…」

ナマエの部屋の中で勝手知ったる様子で缶ビールを開ける男の名前は真島吾朗。ちょっとしたトラブルをきっかけに神室町で知り合い、いつの間にかナマエの家まで上がりこむようになったちょっとよくわからない男である。

「泥棒だったらどうしようかと思いました」
「ナマエちゃんの家に泥棒しようなんちゅう不届きモンがおったら俺がシバき倒したるわ」
「有り難いんですけど、その場合は警察に通報して欲しいですけどね」
「ハァ?マッポが何の役に立つねん」

マッポというのは警察をさす言葉であるが、国家権力に対して随分な言いようだ。まぁ彼の職業からして、警察に良い感情がないのは予めわかりきったことではあるのだけれど。彼のご職業は指定暴力団、いわゆるヤクザというやつだ。

「今日はビールですか」
「ナマエちゃんの分もあるで」
「ありがとうございます。おつまみは?」
「テキトーに買うては来とるけど」
「じゃあ、なんか簡単に作りますね」

まるで慣れたやり取りだけれど、慣れているだけでべつにこの男と愛人関係でもなければ恋人関係でもない。こうしてふらりとナマエの部屋を訪れては安酒で乾杯をするだけの、本当にそれ以外に表現のしようのない関係だった。

「はぁいお待ちどーさまです」
「お、なんや変わったの作ってくれたやんか」
「ユッケ風コーンビーフと生姜と豚バラの炒め物です。ビールに合うんですよ」

このあいだたまたま雑誌の後ろの方に載っているレシピを見かけたのだ。ビールに合う、なんて謳い文句が書かれていたら、ビールをよく飲む彼に作りたくなってしまうに決まっている。ナマエは真島の向かいに腰を下ろし、缶ビールを受け取ってプルタブを上げる。プシュッと小気味いい音が鳴った。

「お疲れさまです」
「おん、お疲れさん」

名前のない関係に名前があればいいのにと、もうずっと思っている。ナマエはじっと真島に視線を向けた。顔の左側をこちらに向けているから、彼がどこを見ているのかはわからなかった。


真島と出会ったのは、神室町のバンタムというバーだった。少し前までここはバッカスというお店だったはずなのだけれど、いつの間にか店が変わっていた。ナマエの仕事は消費者金融、いわゆる街金の事務である。普通に入社をしたけれど、じつはヤクザのフロント企業なのではないかと疑っているところだった。

「いらっしゃいませ、カウンター席へどうぞ」

仕事終わりにバンタムへ寄って扉を開けると、当然馴染み深かったマスターはもういなかった。代わりにテクノカットに眼帯という、少々奇抜なバーテンダーに案内されてカウンター席に座る。

「お飲み物いかがいたしましょう」
「ええっと…じゃあスプモーニを」
「畏まりました」

ナマエの注文を聞くと、慣れた手つきでカンパリの瓶に手を伸ばす。モノトーンできっちりと整った制服は、彼の手足の長さを強調していた。奇抜な見た目ではあるけれど、よくよく見れば随分と整った顔をしている。

「待たせいたしました、スプモーニです」
「あ…ありがとうございます…」

そっとロンググラスが目の前に差し出される。店が変わったからなのか、バーテンダーが違うからなのか、飲み慣れたカクテルなのにどうしてだか緊張してしまって仕方がない。
その緊張を誤魔化すようにグラスを手に持ち、いつもよりも勢いよく呷る。ひんやりとした液体が喉元を通り抜け、飲み込む頃には胃の上の方がアルコールで熱くなった。

「はぁ…美味しい」

思わず半分ほどを一気に飲み干して、グラスをコースターの上に置くとこちらを見ている眼帯のバーテンダーとバッチリ目が合った。今の自分の飲み方がほとんどビールと同じであったことが後追いで羞恥になって、誤魔化す言葉を探して唇を何度か動かす。

「ヒヒッ、お姉ちゃん、あんまり飲みすぎたらアカンで」

片方の口角だけを上げてバーテンダーが笑った。不意のその素が出たような関西弁に驚いて、その整った面持ちを見つめる。少し意地悪そうに目元が歪み、首筋から上がどんどん熱くなるのを感じた。


別に彼がバンタムのマスターでもバーテンダーでもないというのは、随分後になってから知ったことだった。あの日はたまたまバンタムのマスターに話をつけて店に立ち、臨時雇いのようにして客に酒を振る舞っていたらしい。真島吾朗。東城会直系嶋野組内真島組組長。この神室町を仕切っている東城会の極道者であるようだ。
どうして発覚したのかというと、ナマエの会社までシノギの回収に来た組員に気まぐれでついてきたことがあったからだった。

「西田さん、今月分です」
「ハイ確かに。何か困ってることありませんか」
「いえ、今のところはこれと言って…」
「そうですか、そしたらまぁ、何かあったら言ってくださいね」

ナマエは眉毛の濃いその訪問者を、ヤクザかどうか見極めようと試みた。格好はそれっぽいけれども、あまりヤクザによくある怖さのようなものは感じない。でも今月分なんて言いながら現金でカネを渡す相手がヤクザ以外にいるだろうか。ナマエがチラチラと西田と呼ばれた男を観察していると「西田ァ」と別の声が西田を呼ぶ。

「親父、なんでしょう」

西田が体ごと振り返る。それによって事務所の出入り口までの導線がスッとひらけた。その先に見えた人影にナマエは「あ」と口を開いた。それとほとんど同じタイミングで男の方もナマエに気がつく。

「あれ、こないだの姉ちゃんやないか」

ひくっと口角が痙攣した。西田の方はまだしも、こちらの方はどこからどう見てもヤクザにしか見えない。パイソン柄のジャケットを素肌に着て、その上胸元にはしっかりと彫り物が覗いていた。

「ど、どうも…」
「お姉ちゃんここで働いとったんやなァ」

かっこいいと思ったバーテンダーの正体がヤクザであったことと、やはり何も知らずに入社した自社がヤクザのフロント企業であったことにめまいがしそうだった。眼帯の男はナマエの心中など知る由もなく「偶然やなぁ。あの日ちゃんと帰れたか?」と、気遣うような声をかけてきていた。


その縁をきっかけに、眼帯の男こと真島吾朗との付き合いが始まった。街で落ち合って飲むようなことから始まり、ナマエ の住むマンションの場所を教えてからは勝手に突撃してくるようになった。
一度酔っ払った状態でナマエの家に来て、鍵を壊されそうになってから合鍵を渡している。だからこうしてナマエの居ぬ間にこうして上がり込んでいてもなんら不思議はないのだ。

「真島さん、今日ちょっとピッチ早くないですか?」
「ん?そうかァ?」

最初は怖いと思ったものだけれど、彼が怖いのは見た目と喧嘩をしている時くらいのもので、ナマエと飲んでいる時はごくごく普通の気のいいお兄ちゃんといった様子だった。

「ナマエちゃんこそ、今日ピッチ遅いんやないかァ」
「そうですか?別にふつう…ですけど…」

真島の指摘はもっともだった。最近真島を意識してしまう瞬間が増え、どうしても彼と二人きりというこの空間に緊張してしまうようになったのだ。真島はもちろんそんなつもりなんてない。それがわかってしまっているからもどかしい。

「ナマエちゃん、調子悪いんやったら酒やめて休んどき」
「だ、大丈夫ですから!そんな、体調不良とかじゃありませんし!」

いつにも増して真島が優しい声をかけてきて、ナマエの心臓はよりいっそうぎゅっと締め付けられる。誤魔化すために真島に酒を勧めると、誤魔化されてはくれていないのだけれど、一応追及するのをやめてくれるようだ。「ナマエちゃん料理上手やな」と無自覚のうちにまたナマエの心臓をぎゅっと締め付ける。

「…真島さんって、べつに缶ビールが特別好きってわけじゃないですよね」
「あ?」

真島ほどの立場の男であれば、こんな安い缶ビールじゃなくってもいくらでも良い酒が飲めるはずである。恋人でもない女の狭っ苦しい部屋でどこでも買えるような缶ビールを飲む必要はない。戯れとはいえバーテンダーもやっていたくらいだし、酒に疎いというわけでもないだろう。実際、彼が高級クラブからホステスに見送られて出てくるところも何回か見たことがあった。ここで安酒を飲む、理由が聞きたい。

「いいお酒を、いいお店で…飲んだっていいのに」

じっとナマエは真島を見上げた。どうして、わざわざ私の家に来て、こんな安いお酒一緒に飲もうって言ってくれるの。その理由が聞きたい。その理由に期待してしまっている。

「…なんで急にそんなこと言い出したんや?」
「そ、それは……」

真島の右目がナマエの心の底にあるものを見透かそうとこちらを見た。それに耐えられなくて視線を逸らす。いっそ、身体の関係でもあってくれたほうが良かった。その方がやきもきせずに、このひととはそういう関係なのだと割り切ることが出来たかも知れない。なのにそういうこともなく、この関係は宙ぶらりんだ。
真島がため息をついた。面倒なことをいう女だと呆れられてしまっただろうか。面倒だからとここにはもう来てくれなくなるかもしれない。今日ここでこの曖昧な関係さえ終わってしまうのかと思って、落とした視線の先の自分の手をぐっと握りしめる。

「…迷惑やったか」

ナマエがなにも言わないものだから、そう口火を切ったのは真島だった。ナマエは「ち、ちがッ…!」と食い気味に否定する言葉を吐き出す。その勢いで顔を上げると依然鋭い隻眼がナマエのことを射貫いていた。もう言い訳はできない。その視線はそう察するにあまりあった。ナマエは自分の頭の中身を白状しなければならないことを悟り、一度唇を噛んでから言葉を吐き出す。

「だっ…て…その、べつに、家に来ても…なんにもしない、じゃないですかぁ…」
「そんなん、遊び人のすることやろ」
「あ、そび…でも…私は……」

真島さんならいいのに。曖昧な、名前のない関係でいるよりよっぽどラクになれるのに。真島は少し黙ってから「ほんなら…遊びでもええから俺に抱かれたいっちゅうことか」とこちらに言葉を向ける。ナマエはそれに少しためらうような間を開けてから、こくりと首を縦に振った。

「ほんなら、こっからは手加減なしでいかしてもらうで」

真島が手にしていたビールの缶をテーブルに置き、ゆったりとした動きで立ち上がる。衣擦れの音が近づいて、ナマエのそばまで寄ると、顎のラインをたっぷりと思わせぶりになぞる。肩がびくりと震えた。

「遊びやと思われたなかった理由、終わるまでに考えときぃや」

えっ、と言葉を放つ前に真島の唇が言葉を奪う。いとも簡単に唇を割られ、蛇のように動く舌がナマエの口の中で暴れまわる。呆気なく押し倒されて、背中にラグの中途半端な厚みが伝わってきた。ビールのほろ苦い味とは裏腹に、キスは甘くて底なしに優しかった。

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