パチョリ、シダー、あなたの香り
現代人は常に戦っている。戦いは熾烈を極め、時に心を折られ体を壊すこともある。
それでも戦い続けるのはひとえに月一回の報酬のためであって、決して奉仕の精神とか自己犠牲の精神などではない。
何と戦ってるかって?そんなもん決まってる。労働だ。

私は労働が嫌いだ。いや、多分世の中の大体の人間が嫌いだと思う。給料もらえないんだったら絶対仕事なんかしてない。
世の中にはボランティアなんてものがあるが、ああいうものに従事している人はとんでもなく偉い人だと思う。多分人生五回目とかでしょ。

「ただいまぁ」

実際よりも随分と重く感じる玄関の扉を開けて、企業戦士こと私は帰宅した。
半年前まではこのただいまという声すら出せるか微妙なところだったが、ここ半年は帰宅すると必ず声に出している。

「お帰りなさい、ナマエさん」
「ただいま、建人さん」

自宅に待っていてくれる人がいるからである。


私と建人さんが知り合ったのは、多分だいたい二年くらい前のことだった。帰宅経路で人間じゃないやばいものに襲われていたところを助けてもらったのがきっかけだった。

「さいっあく…あのハゲ上司マジ一回呪われろ…」

呪詛を吐きながら歩く道中、いつも通る道が妙に長く感じた。私は抱えるプロジェクトの納期を直前に控え、毎日良くて終電、だいたいタクシーで帰宅をしていて、この日は珍しく終電の一本前で帰宅することができた。
タクシー代も馬鹿になんないし、と、とぼとぼマンションへの道を歩く。

「あれ…この公園さっきも通った、よね…?」

小さな児童公園を通るとき、私はやっと異変に気がついた。ブランコと鉄棒だけがあるこの小さい児童公園は駅と自宅のだいたい真ん中くらいに位置する公園で、自宅マンションに辿り着くまで公園らしいものはこれひとつっきりのはずだ。
おかしい、私は今夜このブランコを二回は見た。
疲れているのか、と思って公園をじっと睨みつけるように見ると、隅の植え込みがガサガサと動く。

「えっ、何…?」

猫かなと思ってそのままじっと見ていると、茂みからザザザと顔を出したのは猫でも犬でもまして人間でもない、ミイラみたいな見た目の干からびた男が、四つ足をついてこちらを見ていた。しかも体は上を向いているのに顔はまっすぐこちらを向いていてチグハグになっている。

「ひっ…!」

なんだあれ!うそうそうそ!!
人形!?ドッキリ!?いや一般人の私にドッキリなんて仕掛けてどうすんだ!

『ぉ、にィさんンン…い、かガですかァァァ…』

人語のような鳴き声のようなものを喋りながらそれはズルズルと近づいてきた。
逃げなきゃ、やばい。そう思うのに、足は地面に張り付いたみたいに動かない。

「や、やめ…!」
『ぉにィさんンン…』

ぐわっと顎が外れるほど口を開いたそれが私に飛びかかり、ああ、もうダメだ、と思ったその時だった。
青白い閃光が横向きに走り、漫画みたいに何かが高速で駆け抜けていく。
ざふっと独特の音をたて、それは黒く霧のように立ち消えた。

「怪我はありませんか?」
「え、あ…はい…」

私を助けてくれた閃光はもちろん光そのものではなく、オフホワイトのスーツにブルーのワイシャツ、黄色い柄入りネクタイを合わせるというなかなか派手な出立ちの、金髪の男だった。

「通りがかって良かったです」

彼は私を近くのベンチに誘導し、跪くようにして私の怪我をもう一度確認する。それどこで止まってんの?という変わった形のサングラスをしていて、この深夜にサングラス?と後から思ったが、この時はそんなことを思う余裕はなかった。

「ああいったものが見えたことは今までありましたか?」
「え、な…ないです…」
「そうでしたか。でしたらひどく驚かれたでしょう」

驚いた、なんてものじゃない。非現実的すぎて、まるで映画みたいで、脳みその処理がひとつも追いついてこない。
今の、今のは一体なんだったんだ。この男の人も。あのヤバい化け物から助けてくれたけど、人間離れした動きだった。

「…安心してください、私は少なくともアナタを害する人間ではない」

男の人はサングラスを取り、私に視線を合わせて言った。目の色が青と緑を混ぜた森のような色をしている。
話す相手の瞳を見ることができたからか、恐れは少し軽減された。

「七海建人といいます。先程の化け物のようなものを祓う仕事をしています」
「ミョウジ、ナマエです…。すみません、先ほどはありがとうございました」
「いえ。これから念のためにアナタを安全な所に一度連れていきます。こう言ったことに巻き込まれた方へのケアのプロがいますから、安心してください」
「はぁ…」

この人、七海さんが怖い人ではないということは分かったが、未だ状況は掴めない。
思考が空回って、これは全部夢なのかなと考えが飛躍していく。
混乱して言葉を詰まらせる私とは正反対に、七海さんは極めて冷静だった。

「車が到着したようです」

いきましょうか、と声をかけられ、これ以上ここで恐ろしい思いをするのも御免だと思って立ち上がろうとしたら、少しも足が動かない。
七海さんが数歩進んだところで立ち止まって振り返る。私のお尻はぺったりベンチについたままだった。

「す、すみません…腰が抜けちゃってるみたいで…」
「…失礼。このままここに残すわけにはいきませんので」

腰を抜かした私にすっと歩み寄って、七海さんは屈むと素早く私を持ち上げる。背中と膝の裏に手を回して支える、いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
女の子の憧れとも言える体験をまさかこんなところですることになるとは、とどこか他人事めいたように考え、数秒でハッとして「重いですからおろしてください」と言おうとしたら「車まで我慢してください」と先回りされてしまって口を噤んだ。

私は迎えに来た車に乗せられて、呪術高専という場所に連れて行かれた。
そこで専属医だという女医の家入さんという人に診てもらって、異常がないことを診断された。
しかし大問題があった。この日を境に、私は呪いなるものが見えるようになってしまったのだ。


仕事用の鞄を定位置に置き、ジャケットをハンガーにかける。手洗いうがいをしてダイニングに足を踏み入れれば、漂う夕飯のいい香り。今日はビーフシチューらしい。

「美味しそう」
「時間がありましたから肉もとろとろですよ」
「建人さん、今日はお休みだったっけ?」
「休みというか、明け方まで仕事だったので」

私は残業があるとはいえ、土日休みで定時は朝から夕方までのフルタイムという典型的な会社員。かたや建人さんは昼も夜も平日も土日も関係ない呪術師。
大概私が先に帰ることが多いけど、こうやって建人さんがいる日には惜しげなくその腕を振るってくれる。建人さんは料理上手。

「いただきまーす」
「召し上がれ」

スプーンですっとビーフシチューを掬う。自分が作るのより建人さんが作ったビーフシチューの方がコクがあって、何か特別なことをしているのかと尋ねたら煮込む時に水だけじゃなくって野菜ジュースを足すのだと言っていた。
それを聞いてから私も教えてもらった通りやってみたけど、建人さんほど美味しくは出来ないから、きっと他にも秘密があるだろうと睨んでいる。

「今日も美味しい」
「それは良かった」

お互い余裕があれば料理を作るし、仕事がしんどい時は買ってきたもので済ませる。一応夕飯の当番みたいなものはあるけど、緊急の呼び出しが多い建人さん相手だとあんまり守られることはない。
その代わり建人さんは掃除とゴミ捨てを積極的にやってくれて、お休みの日は私を率先して甘やかしてくれる。

「最近は残業多いですね」
「そうなの。ちょっと大きめのプロジェクトがあって、それが思ったより厄介でね」
「ナマエさん最近主任になったから余計じゃないですか」
「それはある。ていうか建人さんは最近変な無茶振り減ってない?」
「ああ、五条さんが今海外出張からの地方長期任務で空けてるんですよ」

でた、五条さん。二回くらいしか会ってないけど、変な目隠しをした大男だった。建人さんの学生時代の先輩で、なんだか呪術師の世界ではものすごい人らしい。
建人さんの愚痴の半分はその五条さんから受けた無茶振りの話で構成されている。
「このまま遭遇せずに任務ができたら最高なんですが」とちょっと本気っぽくいうから思わず笑った。

「亭主元気で留守がいいってやつ?」
「違います」

私がふざけてそう言うと、建人さんはピシャリと否定する。
建人さん、本当に五条さんと仲良いよなぁ。長い付き合いみたいだし、ほんのちょっとだけ嫉妬してしまう。ちょっとだけね。

「そうだ、今日はいいものを買ってきたんです。風呂に入ったらそれを試してみませんか」
「何買ってきたの?」
「秘密です」

試してみませんかなんて提案するみたいな言い方のくせに、私にその内容を知る権利はないらしい。
まぁ別に建人さんに限って滅多なことはないだろうからいいんだけどさ。

「じゃあ巻きで入ってくる」
「いえ、ゆっくりで結構です」

だって早く知りたいじゃん。
一体なんだろうなとあれこれ考えながら、私は食事を終えてそそくさとお風呂場に向かった。


私は呪いが見えるようになったしまったことを理由に窓をしているけれど、呪術師のことは正直よくわかっていない。だから建人さんの仕事というのはどれほど危険なものかを、想像することしかできない。
私の仕事よりよっぽど過酷で、よっぽど危険。それでも建人さんは私の目線に合わせて仕事の話を聞いてくれて、日々の疲れを労ってくれる。苦労というのものは他人と比較するものではないと分かっているけれど、それを実際に実行できる人ってなかなかいない。
日々生活を共にしていてよく思うことだけど、本当にとんでもなく素敵な恋人を得てしまった。

お風呂から出てリビングに戻ると、ふんわりとアロマが焚かれていた。私がこの前いいねって言ったやつだ。

「やっぱこの香り、好き」
「パチョリとシダーが好みなんでしょうね」

ぱちょり、しだー。単語から全然香りは想像できないが、建人さんがいうのだからきっと間違いない。
建人さんって博識だけど、呪術師というのはみんなこうもいろんなことを知っているものなのだろうか。
手招かれて、建人さんの座るソファの隣に腰掛ける。

「それなに?」

テーブルの上にはボタニカル調のイラストが描かれたパッケージのボトルが乗っている。どうやらこれが先ほど言っていた「いいもの」らしい。
建人さんはそのキャップを外し、とろりと中の液体を自分の手に取る。もう片方の手を差し出され、なんだろう、と思いながら私は自分の手を重ねた。

「マッサージオイルです。今焚いているアロマと同じシリーズのものを見つけたので」

そう言って、建人さんは自分の手に取ったオイルを私の手の甲に移し、両手で包み込むようにしてオイルを伸ばし、それから指の一本一本をマッサージしてくれる。

「ん、気持ちいい」
「ナマエさん、最近手が疲れたとよく言ってましたもんね」
「そうなんだよね…キーボードのタイプのしすぎ?」
「角度を変えたら緩和されますよ」

建人さんのマッサージは続く。指と指の間を押し広げるようにして、関節の隙間をほぐす。それから手のひらを親指でくまなく指圧し、全体を緩めるように手の甲から握っていく。まじで気持ちいい。すごい。

「すご、建人さんってなんでも出来るよね」
「そうでもないですよ」

うそだぁ。謙遜にも程があるぞ、と思っていたら、建人さんが反対の手をマッサージしながら言った。

「ハンドマッサージは、ネットで勉強したんです」
「えっ」
「ナマエさんの疲れが少しでも取れればいいと思いまして」

にぎにぎとマッサージが続く。それって私のためにわざわざ調べてくれたってこと?
触れられているのは両手のはずなのに、どんどん熱を持つのは両頬だ。けれどこの状況で逃げも隠れもできなくて、不自然に黙った私を建人さんがさらりと見遣る。

「アナタのために調べました」

考えていたことなんてお見通しで、建人さんはふっと笑いをこぼす。
森のような深い香りと、土に似た渋くてエキゾチックな香りが空間に飽和していく。
ああ、そうか、これ、建人さんの香水の香りに似てるんだ。そう好きになった理由を今更気づいて、気恥ずかしさが加速していく。
ちろ、と建人さんを見ると、どこか満足げで、私がこの香りを好きになった理由さえお見通しなのだとわかった。

「次は足を出してください」
「えっ!それはさすがに恥ずかしい!」

そう言ったのに建人さんは私のふくらはぎをやんわり掴み、あっさりと引き寄せてしまう。
オイルが塗り広げられて濃く香って、これはきっと眠るときさえこの香りに包まれることになってしまうんだろうな、と、私は眠れない夜を覚悟したのだった。

戻る



- ナノ -