この恋を心臓に埋める
この心臓の中に恋を埋めた。私には必要であってはならないものだから。
呪術師の家系に生まれて、華々しいレールを敷かれた。自分の持っている術式は非常に珍しいもので、それを家格の高い家の人間たちが欲しがった。御三家と決して遠くない血筋というのもナマエのレールに極彩色の花を添えることになった。
12歳のときには裳着を済ませるとともに婚約者が内定した。禪院家の有力な分家のひとつで、一級術師の実力を持つ15歳ほど年上の男だった。高専を卒業したら、この男のもとに嫁ぐことが決まっている。自分の期間限定の自由は残り少ない。

「ナマエ、もうちょっと腰落としてみて。足元安定するから」
「こう?」
「そうそう。上手だね」

だけど恋をしてしまった。人生最後のモラトリアムで、甘い痺れを知ってしまった。
ナマエは中庭で組手の相手をしてくれるという話にほいほいとついてきて、彼から手ほどきを受けていた。両親は危険なことはさせられない、と呪術高専への入学を止めたけれど、術式についてのより効率的な勉強のために入学する運びになった。同級生に次期五条家当主がいるというのも大いに背中を押す一因になっただろう。

「女性は男に比べて軽いし細いから、相手の力を利用するような合気とかの方が合うかもね」
「武道って奥が深いんだね」
「ああ。面白いだろう?」

人に何かを教えているときの彼はいきいきして輝いている。近接戦闘の手ほどきを受けたいというのも嘘じゃなかったけれど、彼のこの輝いている顔を近くで見ていたいというほうが本音に近いと思う。

「夏油くん、教え方とっても上手。私なんかでもすぐに上達しちゃうんだから」
「それはナマエの筋がいいからさ」

彼の名前は夏油傑。同じ呪術高専に通う男子学生であり、ナマエの初恋の相手だった。


呪術師の家というものは、術式と血統をとても重んじる。それは術式が血統によって継承されているからだ。呪術師は才能が実力のほぼすべてを占める。その才能の大部分は術式であり、よりよい術式を持つ人間同士で婚姻関係を結ばせて、より強い呪術師を生み出そうとする考えが根底にあるものだと思う。

「オマエ、まじ馬鹿すぎん?」
「……五条くん、品がないよ」
「品もクソもあるかよ。事実だろ?」

休み時間、夏油が職員室に呼び出されているところを見計らって五条が声をかけてきた。ナマエの前にわざわざ椅子を持ってきて、一分の隙もなく逃がさない構えである。

「中退、すんの?」
「……まだ、決まったわけじゃ…ないんだけど…」

どこから聞きつけてきたのか、五条はナマエ本人でさえまだ正確に把握しきれていないそれを口にした。今までもうっすらそういう話はあった。そもそもナマエの両親は入学そのものにさえ難色を示していたのだ。高専は三年生から本格的に実技の時間が増える。基礎練習と術式への理解を深めるのには二年間で充分だろうと言う人間が一族の中に現れたのだ。

「オベンキョーはもういらねーから帰って結婚しろって?」
「そ、そこまで言われてるわじゃないよ…」
「同じようなモンだろ。家帰って閉じこもって15も年上のオッサンと結婚してさ、オマエそれでいいのかよ」

五条が忌々し気に吐き捨てた。呪術師というものは、基本的に古臭い男社会である。女の居場所なんてものは陰日向にしかない。そのなかで自分は生まれ持った術式によって、良家に嫁ぐという華々しいレールを敷いてもらえたのだ。それだけで感謝しなくてならない。感謝しなくては、ならない、はずだ。

「だって…私の家からお嫁取りしてもらえるだけで有り難いお相手なんだもん。私ひとりのわがままで滅多なこと言えないよ…」
「オマエの気持ちは丸無視で?」
「…結婚って、そういうものなんでしょう?」

ナマエは呪術師の家系で育った。周囲には基本的に同じような世界で育った人間しかいない。母も祖母も、吊り合う家から術式や呪力を買われて嫁に入って血を残している。家とは、母とは、女とは、そういうものだと教えられて生きてきた。その中で自分の身に余るくらいの華々しいレールを敷いてもらっている。これの何に不満を持てばいいのだろう。

「傑のことは?」
「え?」

五条がこちらをジッと見つめた。一瞬どういう意味だかわからなくて、すぐに自分の淡い本心が見透かされているのだと気が付いた。他人に自分の気持ちが露呈してしまっていたことが恥ずかしくなってすぐに目を逸らす。

「コクんねぇの?」
「だって…ダメだよ…私なんかがそんなこと言ったら、夏油くんの迷惑になる…」
「迷惑なんかになんねぇって。あいつむしろ──」

五条が言葉を途中で打ち切った。何故かと思えば呼び出されていた夏油が戻ってきたようで、こちらに「何の話?」と言葉を投げた。それ以前の言葉が聞こえていたのかそうでなかったのかはわからないけれど。

「傑、何の呼び出しだったんだよ。なんかやらかした?」
「それなら悟もセットで呼び出されるだろ。まぁなんか…私に婚約の話が来てるって言われてさ」
「こ、婚約!?」

ナマエが思わず大きな声を上げて、五条が迷惑そうに耳をふさぐ。夏油もナマエが珍しく大きな声を上げるものだから、驚いて切れ長の目を見開いていた。ナマエは自分の上げたはしたない声に恥ずかしくなってかぁっと頬を染める。

「呪霊操術って珍しいんだろう?だから自分の家に婿に来てくれないかってさ」
「で、どうしたんだよその話」
「もちろん断ったよ。顔も見たことない子と婚約なんか出来ないし、そもそも私まだ17だし」

五条が尋ね、それに対する夏油の言葉にホッと胸をなでおろす。自分は婚約しているのに相手にはしてほしくないなんて随分なわがままだ。自分の醜い心を自嘲した。夏油はナマエの様子には気が付いていないのか、五条の方を向いたままだった。

「婚約とか、本当にあるんだね」
「こっちじゃフツーにあることだけど」
「へぇ。悟も婚約者とかいるの?」
「ま、本決まりじゃねぇけど候補は何人かいる」

五条が面倒くさそうにそう言った。五条家次期当主ともなれば選ぶのにも一苦労だろう。御三家やそれに繋がりの深い家なんかは自分たちの家から何としても嫁を出そうと躍起になっているに決まっている。正妻どころか、妾なんていう時代錯誤の話も当然のように残っているに違いない。

「古い呪術師の家に結婚相手選ぶ自由とかねーんだよ」

五条が珍しいことを言った。確かにそれは事実だけれど、彼はそういうものが嫌いだし、因習もなにもかも無視して自分の思いのままの道を進もうとしそうなものだ。もちろんナマエにそんな選択肢はないのだが。と、そこまで思考して、五条は自分の話をしているのではなくてナマエの話をしているのだと気が付いた。五条がこちらに向けて「なぁ」と同意を求めてきて、ナマエはもつれる舌のまま「そ、う、だね……」となんとかそれを肯定する。

「ナマエも、婚約者がいるのかい?」

夏油の言葉に喉元が締め付けられたような気分になった。肯定してしまうことで、自分の恋心をそのまま地中深くに埋めてしまわなければならなくなる。不毛な夢だとわかっていた。必要になってはならないと知っていた。けれど、どうしても心の中に埋めて忘れてしまうことが出来なかった。はくはくと数回唇を開閉し、それからどうにか言葉を吐き出す。

「うん…その…良い術式を持ってる方が、気に入ってくださってるからって……」

そっか、と夏油はどこか感情の読めないままの声で言った。その声がどこか途轍もなく遠く聞こえる。ぎりぎりのところで繋がっていた糸がプツリと途切れてしまったような、そんな気がした。


ナマエの中退の話は、二年生の終わりが見えるにつれていよいよ本格的に進んでいった。良い家、なのだと思う。古い呪術師の家において良い術式を持った男に嫁ぐこと、家格の高い家に嫁ぐことは幸せなことであり名誉なことである。ナマエの相手の男は年嵩ではあるが、家格もミョウジ家より高く、また術式も申し分ない。誠実で真面目な良い相手、良い相手の、はずなのだ。

「はぁ……お相手の方…何言ってるのか全然わからなかったな…」

休日、会食に連れ出されたナマエは慣れない余所行きのワンピースを着てレストランで婚約者と食事をした。15も年が離れていて共通の話題などあるはずもなく、向こうが気を遣ってくれているのはわかるのだけれど、会話の殆どはすれ違ってしまっていたように思う。重苦しい会食を終えて高専まで戻ってきたけれど、今日のためにと家から送られてきたパンプスは足に合わなくて靴ずれを起こしてしまっていた。

「あのひとと…死ぬまで一緒なのか…」

彼との結婚生活なんて少しも想像が出来なかった。会ったのはこの五年間で数えられる程度で、しかもそのほとんどに親を含む取り巻きがいるのだから二人きりで話すことなんて殆どなかった。祖母や母もそうして結婚したらしい。だから自分もそうするのだろう。家の中に閉じこもって、外聞が悪くならないようになるべく人付き合いは親戚だけに留めて、子供を産んで、血を残して。
そこまで考えて、気持ち悪さとか不安とか恐ろしさとか、そういうものが一気にない交ぜになって襲ってきた。吐き気に耐えられなくて、その場でぎゅうっとうずくまる。

「っ……やだ、なぁ……けっこん…したく、ないなぁ……」

吐き出した言葉は抱え込んだ自分の膝に反響してどこへも行けなかった。親の決めた相手と結婚することが当たり前だと思っていた。だけどそればかりじゃないのだと呪術高専に来て、広い世界に出会って、初めて恋をして、知ってしまった。夏油の顔を思い浮かべると苦しくて、どうしようもなくなってしまって、ナマエはこみあげてくる涙を堪えることが出来なかった。頬を大粒の涙が伝い、そのまま顎先から地面に落ちる。地面が涙で濡れる。

「ナマエ…!」

思い浮かべていた人物の声が聞こえて思わず顔を上げた。校舎の方から夏油が焦ったような顔をして走ってくる。彼はすぐにナマエのそばまで寄ると、地面に膝をついてナマエの様子を伺った。

「大丈夫?どこか具合が悪いのかい?」

ナマエは首をふるふると横に振る。涙でみっともなく濡れた顔を見られるのが嫌で目元をぐいぐいと擦れば「そんなことしたら腫れるよ」と言って夏油の指がやんわりとナマエを止めた。心配そうにこちらを見つめる彼と目が合う。

「あしを…」
「足?」
「そう。足を擦りむいちゃって……」

本当の理由を言ってしまうのは憚られて、靴ずれを言い訳にした。かかとの部分が赤くなって血が滲んでいる。蝶よ花よと育てられてきたけれど、高専に所属する以上任務にも出たしその中で怪我をしたこともある。靴ずれなんてどうってことないはずなのに、これが人生で一番痛い瞬間だとさえ思った。

「パンプス、見たことないやつ履いてるね。これが合わなかったのかな」
「…多分。でもこれを履いてきなさいって、お母さまに言われていたから…」
「特別なところに出かけてたのかい?」

夏油の質問にどう答えようか迷って一度黙った。ナマエは小さく頷き「婚約者の方と…食事会だったんだ」となんとか答えた。目をこするのを止めるためにナマエの手を掴んでいた彼の指先の力が俄かに強くなる。

「中退、するの?」
「え……」
「悟に聞いたんだ。その、ナマエが近いうちに中退して、そのまま結婚するって」
「……その、まだ決まったわけじゃ…ないんだけど……」

ナマエは歯切れ悪くそう返した。決まったわけじゃなくても、近い将来自ずとそうなるだろう。口にしてしまうのが怖かった。彼に向かって言葉にしたら、もう逃げられないような気がして。視線が落ちてしまって、次の言葉は中々見つからない。口ごもるナマエの代わりに口を開いたのは夏油だった。

「──ねぇ、例えばさ、もっと珍しくて強い術式の男が名乗り出たりしたら……それって変わる?」

えっ。と、言葉にする前に指を絡めて手を握られる。こんなふうに触れ合ったのは初めてだ。彼の手のひらは柔らかくて熱くて、掴まれたところが余すことなく燃えてしまいそうだと思った。

「ナマエ、私は君のことが──」

鼓膜を揺らす言葉に、眩暈がしそうだった。靴ずれのヒリヒリした痛みなんてどうでも良くなってしまう。切れ長の目元が真っ直ぐにナマエを射貫く。心臓に埋めたはずの恋心が急速に芽吹いて、身体の中をくまなく熱くさせるような気がした。

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