「こ、ここが、こうせん……」
だというのに、ナマエはひょんなことからナマエは夫の職場に足を運んでいた。山のふもとでタクシーを降り、鳥居を見上げる。まだ交際していなかったころに保護されて中に入ったことはあるのだけれど、そのときも自分は随分動揺していたし、医務室以外の場所には立ち入らなかったし、滞在していたといってもほんの数時間のことである。
「山、だなぁ…」
見上げるほどに山である。入口らしいものが見当たらない。伊地知にはここで待てと言われているから良いのだけれど、一体どこが入り口なのだろう。普段見もしないような自然豊かな光景をしげしげと観察した。
「あっれー、ナマエちゃん。こんなとこで何してんの?」
「えっ…」
急に声をかけられてびくりと肩を震わせる。聞き知った声の方を見ると、相変わらずのびのびと成長した長身に目が覚めるような白髪の男がひらりと手を挙げていた。後ろには三人の子供を連れているようだ。
「夫に届け物で。ここで待っててって言われてるんです」
「アラ、そーなの」
ぺこりと五条に頭を下げ、その流れで後ろの子供にも会釈をした。礼儀正しい三人の子はナマエに会釈を返す。一応五条は対外的に教師という立場らしいが、彼らはその生徒ということだろうか。
「じゃあ、上まで一緒に行こっか」
「エッ!」
「大丈夫大丈夫。僕ここじゃそこそこ偉いし、後輩の嫁案内するくらい平気だって」
自分でも「夫」と言っているが、他人から夫婦という扱いを受けると未だに少し照れてしまう。気後れしている間に五条がナマエの背中をぐいぐいと押して、抵抗も反論も許されないまま歩かされた。先ほどまではわからなかった場所に鳥居があり、それがずらりと山頂まで続いている。
「えぇっと…この子たちは五条さんの生徒さん?」
「そうそう。僕の受け持ち。アッチから悠仁、恵、野薔薇ね」
五条が多少失礼な様子で三人を紹介した。まぁ五条の失礼は今に始まった話ではない。それは子供たちも承知のようで、抗議はしているがそこまで本気で咎めようという気はなさそうだった。
「ねぇお姉さん、誰かの奥さんなん?」
そう尋ねてきたのは悠仁と呼ばれた男子生徒で、ナマエが肯定する前に「そうそう」と五条が勝手知ったる様子で肯定する。まぁ伊地知との関係を含めて当時五条に世話になったことは否定しないが勝手に人の言葉を盗らないでほしい。
「だれだれ?」
「さぁて誰でしょー」
「ちょっと五条さん、ヘンなクイズ出さないでくださいよ…」
特にクイズにするほど面白くもないのだから、勿体ぶらずに紹介するなりなんなりして欲しい。小さくため息をつき、ナマエは興味津々といった様子の悠仁に向き直る。
「ご挨拶が遅れてごめんなさい。伊地知の妻のナマエです。いつも夫がお世話になってます」
「エッ…!」
「えぇぇッ!!」
「伊地知さんの…!?」
ナマエが名乗ると、悠仁、野薔薇、恵の順で驚きの声を上げる。そんなに驚くことだろうかとは思ったけれど、子供たちから見る伊地知の印象は一般的にいう既婚者とはかけ離れているのかもしれない。三人は小さく輪になってああだこうだと会議を始める。
「ねぇ、伊地知さん結婚してたの?ちょっと、伏黒知ってた?」
「いや、俺も初耳…てかあの忙しさでよく結婚出来たな…」
「わかる…伊地知さん忙しすぎてデートとか出来なさそーじゃね?」
「でも伊地知さんって結婚するには超優良物件よね、奥さん大事にしそうだし、結婚してて然るべきだわ」
「でも五条さんの後輩だぞ?絶対プライベートまであのひとに付き纏われるに決まってる」
「五条センセーついてくるなら楽しそうだし良くね?」
思い思いの感想をくちして漏れ聞こえてくる子供たちの会話に思わず苦笑いを浮かべた。五条さんがついてくる、というあたりはあながち否定できないから恐ろしい。事実、伊地知とのデートは過去何度か五条の乱入により三人でデートをしているような状態に陥ったこともある。
「ちなみに僕がキューピット」
語尾にハートでも付きそうな勢いで言う五条に学生三人が「うげぇ」とでも言いたげに顔を歪めた。誠に遺憾だけれどもこれは事実だから、五条が「マジだよねぇ?」とナマエに話を振ってきたら首を縦に振らざるを得ない。
「ナマエさん、ねぇねぇ、伊地知さんとドコで出会ったんですか?」
「えっ…!」
興味津々とばかりに話題を振ってきたのは三人のうち唯一の女子学生である野薔薇だった。学生たちはみな十代後半といったくらいに見えて、世間一般でいうところの高校生くらいの年齢だろう。恋愛に興味があるのも当然かもしれない。
「えっとその…変なキャッチに絡まれてるところを助けてもらって…そこからの縁、というか…」
「へぇ、なんかドラマみたいですね!」
「そ、そんなに良いものじゃないよ…」
正確に言えばキャバクラで出会っているのだけれど、いまいちこの子供たちと伊地知との関係性もわからないし、妻が元キャバ嬢だということを知られても良いものかがわからなくて思わず濁した。
「ナマエさん、伊地知さんのどういうところが好きなんですか?」
「えっ…!」
「ホラ、優しいとか誠実とか!」
野薔薇はノリノリで詰めてきて、後ろで五条もにやにやと笑っている。これは絶対何か答えないと逃がしてくれないパターンだろう。野薔薇のことは何とかできてもニヤニヤ顔の五条は逃してくれないに決まっている。ナマエはうんうんと少し唸ってから、腹を決めて口を開いた。
「そ、その……か、かっこいい、ところ…かな…真っ直ぐで、その、すごく眩しくて、強くって…あ、あはは、何言ってるんだろ、私…」
腹を決めたはずなのにいざ言葉にすると恥ずかしくなってきてしまって、追い立てられて墓穴を掘るようにあれこれと白状してしまい、それがまた羞恥心を煽っての悪循環を繰り返した。べつにすべて本当のことなのだけれども、他人へ赤裸々にこんなこと言えるほど図太くはない。
「ナマエさん、めっちゃ伊地知さんのこと好きなんスね!」
「ぁえ…う、うん……」
黙って聞いていた悠仁が眩しい笑顔で二カッと笑ってそう言った。勢いに押されて素直に肯定してしまって、かぁっと顔が熱くなるのを感じた。そうこうしているうちに話しながら上ってきた石畳の階段の最後の一段に辿り着いてしまった。
「じゃ、一年生たちはいいかんじに報告書書いといてー。僕これからナマエちゃん案内するから」
「えぇぇぇーっ!」
五条が三人にそう言うと、すかさず抗議の声が上がる。少し小競り合いをしていたけれど、五条に口では勝てないと踏んだのか、ナマエに軽く挨拶をして三人とも敷地の奥の方へと引っ込んでいった。ナマエは視線だけで周囲を確認する。ここはなんだか不思議な空間だ。
「あの、五条さん、私本当に入ってよかったんですか?」
「何を今更。ていうかナマエちゃん一回入ってるでしょ」
「あ、あれはその…緊急事態というか…」
もごもごもごと言い訳をする。確かにここに足を踏み入れたことはあるけれど、冷静な状態で来るのは初めてだ。こんなに広大な場所で、寺社仏閣のようなものが建ち並んでいる場所だったのか。
「ま、そんな緊張しないで。ダンナの職場見学ってコトで」
「…普通夫婦はお互いの職場見学なんてしないと思うんですけど…」
「でもナマエちゃんのキャバは行ってんだからナマエちゃんだって伊地知の職場見といても良いと思わない?」
わかるようなわからないような理論でゴリ押しされる。確かに伊地知はナマエの働いていたキャバクラを知っているが、それは常連の一条、もとい五条が連れてきたからだ。それに今の職場である家具メーカーの事務所には来たことはない。ああだこうだと考えてもどうせ五条に押し切られることは目に見えているのだが。
「あ、ほら、七海と硝子はっけーん」
「エッ!」
もうすっかり五条のペースで、ぐんぐん背中を押されて人影のほうに連れていかれる。ちょうど建物の入口あたりで家入と七海が話をしているようだ。二人とも世話になったあの日から会ったのは飲み会に伊地知を迎えに行った一回きりである。二人の視界に五条とナマエが入ったようで、会話を止めてこちらに視線をくれる。
「ミョウジさん?」
「えっと、あの…お久しぶりです…七海さんも家入先生もその節はお世話になりました」
ぺこりと頭を下げると、七海も同じように丁寧に頭を下げた。家入はひらりと手を挙げる。そもそも自分はここに入ってきていいのかもよくわかっていないのに、どんな顔をしていればいいのかわからない。
「今ダンナの職場案内ツアー中なんだよね」
「うわ、五条お前新婚に絡んでやるなよ。ただでさえ仕事中は伊地知に面倒かけっぱなしだろ」
「そうですよ。もう少し伊地知君の負担を減らす努力をするべきでは?子供じゃないんですから」
五条に対して家入も七海も言いたい放題だ。なんとなく三人の関係性と、その中での伊地知の立ち位置を垣間見ることが出来たような気がする。五条はキーキーと抗議をしたけれど、家入も七海も全く取り合うつもりはないらしい。だいたい伊地知が五条にタジタジになっている光景の方がよく見るから、五条が言い負かされているみたいな雰囲気は面白い。
「そういえば伊地知が誰か探してたみたいだけど、ひょっとしてナマエさん探してたんじゃないのか?」
「えっ、本当ですか?」
「ああ。スマホに何か連絡入ってない?」
家入に言われ、ポケットに入れていたスマホを確認する。確かに二分ほど前に伊地知から着信が入っていたのだけれど、マナーモードにしていて気がつかなかった。ナマエが折り返さなければと操作をしようとする前に五条が自分のスマホを持ち出して伊地知に電話をかけ始める。
「もっしもーし。伊地知?いまナマエちゃんに高専の中案内しててさぁ。あはは、声デッカ!」
電話だから伊地知が何と言っているのか正確にはわからないけれど、大体どんな話をしているのは予想がついた。それからいくつか話をして、五条が通話を終える。「伊地知いまからここに来るって」と、まぁ恐らくそうなるだろうと思っていた結末を言葉にされた。
「じゃあ、私は仕事に戻るよ」
「では私も。何もないところですが、ゆっくりしていって下さいね」
そうだ、仕事中に二人を引き止めてしまっていたのだと今更ながらに気が付いて、五条の電話をきっかけに仕事に戻っていく家入と七海にぺこりと頭を下げた。
ここには子供も大人も、女性も男性もいる。国防に関わる特殊な仕事だとは言っていたけれど、どんな仕事なのか想像もつかない。国防に関わるそのわりには最新テクノロジーのような類いのものも見当たらず、ただ広大な敷地にこれでもかとばかりの寺社仏閣が建ち並んでいるだけだ。勝手にあれこれと考えていると、元来た道の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ナマエさん!」
「潔高さんっ!あの、ご、ごめんなさい…下で待っているように言われてたのに…」
「あはは、僕が連れてきちゃったぁ」
悪びれもせずに笑う五条に伊地知がため息をつく。一連の流れを伊地知も恐らく察していて、だから決してナマエを嗜めるようなことも言わない。五条に「許可取りしてませんよね」と伊地知が小言を言って「細かい男は嫌われるよ」と五条が笑い飛ばした。
「だいたい規則に反することは困ります」
「いいんじゃないの。家族にまで完全秘匿って決まりじゃないんだから。何のための結婚だよ」
「ですけど事情を知ったらナマエさんにも制約が…」
「だーかーらー、そういうのも含めて、ナマエちゃんはお前のそばにいたいって思うんじゃないのかって話」
なにやら揉め事でも始まりそうな雰囲気にナマエはどうしたらいいのだろうかとオロオロ二人を交互に見た。その視線に気が付いた伊地知が「すみません」と口にして、それを見た五条が「おっと、僕そう言えば急用思い出しちゃったなぁ」といつか聞いたのと同じ台詞を吐く。これは逃げるパターンに違いない。
「じゃ、あとはお若いお二人でー」
「ちょ、ちょっと五条さん!?」
あの時とは違って伊地知が五条を引き止めたが、あの時と同じに五条はこちらのことをお構いなしで歩いて行ってしまう。背中がだいぶ遠くなったところで伊地知が諦めたように「ハァ」とため息をつく。
「ナマエさんすみません、ひとりにしてしまって…」
「大丈夫です。なんか、潔高さんの知らない一面見れたような気がして、なんて言うんだろ…嬉しくなっちゃいました」
真面目で、仕事ができて、慕われていて、頼りになる。元から知っていたことと重なるけれども、改めて人から感じると、答え合わせをするかのような妙にくすぐったい気持ちになった。
「じゃあ、ここからは私が案内しますね」
「はい、お願いします」
「それからその、私の仕事のこと、お話しますから」
緊張した様子で伊地知は言った。この不思議な空間で彼が従事している仕事とはどんなものなのだろう。少し怖い気もするけれど、自分の知らない彼を知ることが出来るのは、やっぱり嬉しいことだ。