待ってろ、未来
教師なんかに教わることは何もないと常日頃から思っている五条にとって、彼ら彼女らは面倒な大人たちの一員でしかない。口うるさいのは鬱陶しいし、教師だなんだという連中よりも自分の方が強いなんてことはザラだ。

「おはよう、五条くん」
「……おー…」

その中でミョウジナマエという女性教師は異質中の異質だった。艶のある黒髪に桜色の唇。背は自分よりも小さくて、目を合わせようといつも首をこちらにむかってくんっと上げている。彼女は学生全員に対して同じことをする。

「おー、じゃなくって、おはようございます、だよ?」
「……オハヨーゴザイマス…」

仕方なくといった雰囲気を出しながらぶっきらぼうにそう言えば、ナマエは満足したようににっこりと笑って、よくできました、と言った。その笑顔にぎゅうっと胸が締め付けられる。これの理由を五条はよくわかっていない。

「今日は実地任務だったかな?」
「まぁな。千葉の沿岸」
「そっか。気を付けてね」

ナマエは低い位置から手を伸ばし、五条の頭をナデナデと撫でる。気を付けてね、なんて、この女の方がよっぽど弱いくせに。恥ずかしさみたいなものがむくむくと心の中で膨れ上がって、行き場をなくして熱を持った。


ミョウジナマエというのは、人手不足のせいで京都高専から臨時で赴任してきている一級術師であり、教師である。主にここでは結界術の類いを教えに来ている。一級術師というからにはそれなりの実力はあるけれど、五条には劣る程度の実力である。しかし結界術は特別才能があるようで、それに関しては五条よりも器用に様々な応用をしてみせた。その結界術をもって京都高専で呪具の封印や管理を任されているのが本職だ。
自分たちよりは7歳年上だけれど、ニコニコと笑っている姿は幼く見える。身長もよっぽど五条より小さいし、大人ぶられるのもむしろ少し違和感を覚えるくらいだった。

「ミョウジ先生、少しいいですか」

こっそりとナマエに視線を送っていると、彼女に声をかけたのは同期の夏油だった。ナマエはニコニコと笑顔のまま振り返り「どうかした?」と優しい声で尋ねる。何の用事だろうと耳をそばだてれば、どうやら先日出された課題のことで質問があるようだ。ナマエは教師然とした態度で丁寧に質問に答えていく。課題と関係のないことじゃなくて良かった、とホッとして、なにホッとしてんだよと自問する。

「なるほど…ありがとうございます。わかりやすかったです」
「よかった。夏油くん、非術師の家庭だものね。このあたり呪術に馴染みがないと理解するのが難しいよね」
「先生も非術師の家系なんですか?」
「うん。一般家庭よ。夏油くんの世代は術師の家系の方が多いものね。困ったことがあったらなんでも言ってね」

にこやかにナマエがそう言うのを横目で盗み見る。ニコニコと愛想のいい笑い方。そんなのいままでいくらでも見慣れているはずなのに、どうしてだか彼女のその顔を独り占めしたいと思ってしまう。

「…る、悟。悟!」
「んぁ?」
「さっきから呼んでるんだけど」

ナマエのことを考えていたら、いつの間にか親友が自分のことを呼んでいたらしい。呆けた顔のまま視線をむけると、親友が呆れた顔でこちらを見ていた。少しバツが悪くて「なんだよ」と悪態をついた。

「なんなの、すごい上の空じゃないか」
「べつに」
「別にってことはないだろ。最近ずっとこんな感じじゃないか」

夏油が大きくため息をつく。自覚はないけれど、言われるほどなら相当重症だ。原因が分かっているから言い訳のしようもない。もごもごと唇をすりあわせ、追求したそうな夏油の視線からとりあえず逃げることだけを考えた。


夜更かしのお供にコンビニまでスナック菓子を買いに行ったときのことだ。麓までわざわざ行かなければいけないから、いつもは夕方ごろまでに行っておくことが多いのだけれど、今日はそれを忘れていて、しかも先ほどのジャンケンで夏油に負けた。親友は温かい部屋でひらひらと五条のことを見送っていたけれど、ジャンケンに負けた以上恨めしい眼差しでみやることしかできない。

「ふー、さっみぃ…」

ダウンジャケットを着てマフラーを巻いても寒いものは寒い。来週には雪がちらつくらしいし、寒さが嫌いな五条としてはやってられない季節の到来というところだろうか。五条は冬生まれだけれど、冬生まれだからって寒さに強いと思ったら大間違いだ。身体が細長いせいでむしろ冷たい外気に晒される面積は他の人間よりも多いんじゃないかと思う。
無事にスナック菓子を調達して敷地内まで戻って、ようやく寮が見えてきた。さっさと温かい室内に入りたい。足早に玄関に駆け込むと、そこには先客がいた。

「あれ、五条くん?」
「エ……」

そこに立っていたのはナマエだった。なんで寮にいるんだ、と少し考えて、臨時赴任だから他で部屋を借りずに寮ですましているんだろうと思いあたった。時間の不規則な激務を強いられる呪術師は、申請して寮に住むことも少なくない。

「こんな時間に外出?不良だなぁ」
「っせぇよ…いいだろ、べつに」

目一杯にツンとした態度を取ってみても、ナマエは余裕でくすくす笑うだけだった。なんだかいつも以上に幼く見える彼女をチラチラ横目で盗み見ていて、その原因が化粧であることに気が付いた。恐らく風呂に入って化粧を落としたのだろう。

「コンビニ行ってきたの?」
「…あー、まぁ…」
「寒かったでしょ。麓まで結構距離あるし」
「べつに」

五条の手に握られているビニール袋を見ればコンビニに出かけていたと一目瞭然である。誰が見たってそうだろうに、それでも都合よくナマエは自分のことをよく見ているんだと思いたくなる。恥ずかしさとか嬉しさとか、なんだか自分でも分類しきれない感情を胸の中でぐるぐるかき混ぜていると、冷え切った右手が不意にふわりと温められた。

「ほら、こんなに冷えて…」
「なッ…!」
「この時間だと五条くんたちもお風呂入ったあとでしょ?ダメだよ、身体冷やしたら…」

ナマエが五条の右手を温めるように握っている。しかもそのせいで先ほどよりも距離が近くなり、その上いつもの仕事着より首元の緩やかな部屋着を着ているせいでナマエの胸元がちらりと見えそうになった。

「むっ…みえっ……」
「五条くん?」
「な、何でもねえ!!」

これ以上ここにいたらロクでもないことを口走るような気がして、五条は慌ててナマエの手を振り切ると、男子寮の方へ逃げるように走った。
柔らかい手の感触。見えそうだった胸元の奥にはどんなものが隠されているのか。ぐつぐつ煮詰まる五条の想像力を掻き立てるには充分で、顔に熱が集まっていくのを自分でも感じる。
どうにか自分の寮室に駆け込んでバタンと勢いよく扉を締めて背を預ける。中では五条がコンビニから帰ってくるのを待っている夏油がのん気に漫画雑誌をめくっている。

「おかえり悟。どうしたんだいそんなに急いで…」

あまりにもその場から動かない五条を不審に思ったのか、夏油は漫画雑誌を閉じると出入り口の方に向かってテクテク歩いてきた。

「悟、そとで何かあった──ア?」
「…んだよ、べつに何も…」
「何もなくてそうなるか?普通」

夏油がビッと五条の下半身を指さす。情けなくも一部ちゃっかり元気になってしまっていて、こんなの100パーセントあんなふうに隙だらけのナマエを見たからだと思う。


それからナマエのことがよりいっそう離れないようになった。その日は夏油とは別行動でお互い軽めの任務が複数あり、現場で呪いを祓っているよりも移動をしている時間の方がよっぽど長かった。昨日夜更かししたから眠いな、とあくびをしながら高専へと戻る。夏油はもう帰っているだろうか。メールをしていないからわからない。

「五条くん、おかえりなさい」
「……っす」

校舎のすぐ手前、いつもとのスーツと違ってもっと動きやすそうな恰好をしているナマエと鉢合わせた。今日は教師としての仕事ではなく呪術師としての仕事をしていたんだろうか。ナマエの雰囲気がいつもと違うように感じた。それがなぜなのか言語化することは難しかった。

「あーあ、こうやってお話するのもあとちょっとかぁ…」

不意に、ナマエが落っこちてしまうような声でそう言った。何を言わんとしているのかと思って言葉を探しながらナマエを見つめていると、五条が口を開くより先にナマエが眉を下げて口火を切った。

「急だけどね、来月で京都に戻ることになって」
「は!?」
「新しい教師役の折り合いが付いたみたい。私は元々、京都を離れるのあまり良くないから…」

唐突に突きつけられたそれに「どういうことだよ」と説明を求めようとして、それを口にする前に理解した。ナマエの本職は京都での呪具の管理と封印だ。人員不足でたまたまこの短期間東京高専で教師をしているだけであって、折り合いがつくなら京都に戻って本職に従事するべきに決まっている。そういう類いの仕事なら術師と対象の距離が離れているのはあまり好ましくない。

「…昔ね、学校の先生になるのが夢だったの」
「は?んだよ急に……」
「ふふ、いいじゃない。ちょっと聞いてよ」

ナマエが五条のことを手招いて呼ぶ。どうしたらいいのかわからなくて、だけどナマエと一緒にいたかったから大人しく後ろをついて歩いて行った。ナマエのつむじを見下ろす。つやつやとした髪は太陽光によってきれいに輪っかが出来ていた。風で毛先がさらさらと揺れる。

「……私、頑張ってる子供たちを応援したくて先生目指してたの。だけど中学のときに楽巖寺学長に声をかけてもらって、まぁ色々考えてこっちの道に進むことにしたんだけどさ。ほら、ここの教師って教員免許いらないじゃない?臨時の先生やらないかって話もらえて…すごく嬉しかったの」

ナマエがぽつりとこぼすように言った。足元に転がる小石をつま先で軽く蹴飛ばす。2メートルほど転がって、最後には勢いを失くして止まった。五条はナマエの話に何と言ったらいいのか言葉を探して、結局見つける前にナマエが続きを話し始めた。

「ちょっと偽物だけど…五条くんたちの先生できて楽しかった」

ナマエは立ち止まり、五条を見上げた。ふわりと笑って「ありがと」と言う彼女の笑顔が五条の胸をぎゅうっときつく締め付ける。このとき五条は自分の中で煮詰まっていた感情の名前を確信した。

「子供たちが頑張ってるの見てすっごく元気貰っちゃった!」

胸の前で小さくガッツポーズをとってみせる。丁度タイミングを見計らったかのように校舎の方から補助監督がナマエに向かって呼びかけた。ナマエも「はーい!」とそれに応じ、五条に「またね」と手をひらひら振って補助監督の方に走り出す。

「……子供とか…言ってられんの、いまのうちだかんな」

風にびゅうっと声が攫われて消える。幸いこの業界は驚くほど狭い。京都高専に彼女が戻ったって、会おうと思ったらいくらでも会いに行ける。撫でられた手の温かさを思い出しながら、五条はくすぐったさにきゅっと唇を噛みしめていた。

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