馬鹿は死んでも治らない
視界を埋め尽くす白。真っ白すぎて遠近感が失われて、境界線がいまいちよくわからない。目を凝らすとうっすらと段差のようなものが見え、この空間に一応は壁のようなものがあることを認識することが出来た。

「なんっだこの部屋……」

不気味なぐらい呪力を感じない。というより、なんだか白い壁に吸収されているような気がする。どうしてこんなところにいるのか、自分では正直あまり覚えがない。重い頭をどうにか動かして記憶を手繰り寄せる。腕を動かすと、ズキッと二の腕のあたりに痛みが走った。

「いってぇ……」

そうだ、単独の任務で隣県に来ていて、呪霊の祓除にあたっていたんだ。そこで妙な呪具のようなものを見かけて、念のため確認をしようと近づいたのだ。呪具の存在が気になったのもあるし、この場所に少し個人的な感情があったからでもあった。気を取られてしまって、そこで突然妙な気配がして、それで。順を追いながら思い出していって上体を起こす。背後から声がかけられた。

「あ、恵。おはよ」

伏黒は声の方を勢いよく振り返った。真っ白の床にぺたりと座りながらこちらを見ているのは、半年前に死んだはずの恋人だった。伏黒はヒュッと息をのみ「……ナマエ…?」と彼女の名前を呼ぶ。

「なん…で…いや、呪いが見せる幻か…?」
「ううん。本物…あ、ていうか、幽霊になってる?みたいな?」

へらりと生前と同じような気の抜けた顔で笑う。意味がわからない、もっと説明しろという意味を込めてじろりとナマエを見ると、ナマエは気まずそうに視線を左右に動かして「説明」と口で言えば降参したように諸手を上げた。

「私、半年前にこの辺りの任務で死んだじゃない?そのときたまたまね、呪具が落ちてて…そのぅ…」

ナマエが言いづらそうに状況を説明し始める。この話しぶりからして本人以外の、例えば幻だとかという可能性は低そうだ。だとしたら精度が高すぎる。ここはナマエの言う通り、彼女自身が命をとしたとされる場所だ。遺体は一部しか見つかっていないが、残穢からしてこのあたりが現場だと目されていた。そんな場所で呪具を見かけた伏黒も足を止めてしまったのだ。

「死にたくないって、思っちゃって…呪具の手助け?みたいな感じでここに閉じ込められちゃってて……」
「縛りが発生したってことか」
「たぶん…」

ナマエにそっと手を伸ばす。実体があるのかないのかと思ったけれど、しっかりと触れることが出来た。しかも生身かのように温かい。死んだはずの恋人に、触れることが出来ている。わけのわからない状況のはずなのに、真っ白な壁が現実離れしているせいか頭は妙に冷静だった。

「あのね?厄介な縛りが出来ちゃってるみたいでね?」
「…これ以上厄介なことがあるのか?」

今だって充分わけが分からなくて厄介な状況のはずだ。これ以上何があるというんだ。ナマエが「め、恵…怒らない…?」と言い渋るから「怒んねぇから早く言え」と返せば「それもう怒ってるやるじゃーん…」と情けない声がタラタラと漏れた。これも生前のいつもの調子だ。

「で、その厄介なことって?」
「あのぅ…この部屋の縛りが…その…」
「縛りが何だよ」

ナマエはチラチラと視線を上げて下げてを繰り返す。手首を引いて、そろそろ観念して白状しろと促す。ナマエがあまりになんでもない様子だから、死んだはずの恋人と再会しているというのに、少しもその感慨が湧いてこない。それがかえって彼女が生き続けているような感覚になって心地よかった。

「えへへ…エッチしないと出られない部屋?的な?」
「ア?」
「ヒッ!お、怒らないって言ったじゃん!」

ナマエの白状した内容にセンチメンタルな気分が全部ぶち壊された。なんの冗談だよ、という視線を向けても照れたような気まずいような顔をするばかりで、どうにもそれは冗談ではないことが伺える。それにしてもどうしてそんな成年向け漫画みたいな縛りが成立してるんだ。

「…何がどうなってそんなことになってんだよ」
「か、帰ったら恵とえっちするつもりだったの!それで死ぬとき思い出しちゃって!呪具に飲み込まれたらそういう縛りになっちゃったの!」
「なっちゃったのって…ハァ…」

言っていることは一応理解した。そんな妙ちくりんな縛りが成立するなんてとんだデタラメだなと思うが、いちいち非科学的だどうだと気にしていたら呪術師なんてやっていられない。

「それ、俺がここに来なかったらどうするつもりだったんだよ」
「どうするもこうするも!こんなことになるなんて思ってなかったもん。多分、呪具にずっと縛られたままになってたんだと思うけど…」

この近くへ任務に来たのは偶然だった。呪具が移動する可能性はあるけれど、そうしていたって「伏黒恵」とエンカウントする可能性は決して高くない。それに、伏黒が死んでしまえばその条件は必然的に満たせなくなるわけで、そうなればナマエの精神は文字通り永遠にこの中に縛り付けられていたことになる。

「……お前、ホント馬鹿」
「言われなくてもわかってるよぉ」

考えなしで、お人好しで、他人に優しすぎて損をするタイプ。だけどそういうところが好きだった。自分より他人を優先して、怪我をしていても先に他の誰かの心配をしてしまうような、そういうところが放っておけなかった。

「死んでも馬鹿は治らないんだな」

彼女と一緒に過ごした時間を思い出し、伏黒は掴んでいた手首を手繰り寄せるとその身体を抱きしめる。ナマエの身体は不思議と温かく感じられて、それもこれも呪具のもたらす影響なのかもしれない。腕の中でナマエが「恵?」と名前を呼ぶ。その声で呼ばれるのが好きだった。

「なんで先に死んだんだよ」

声が震えてしまいそうだった。強請られて買ったペアリングのはめられた右腕が見つかったとき、心臓が奥底から冷やされていくように感じた。恥ずかしがらずにもっと、もっと彼女を愛していればよかった。後悔は文字通り、いつだって後からしかやってこない。

「……ごめんね」
「謝るくらいなら死ぬなよ」
「無茶言わないでよぉ」

ナマエの手がそっと伏黒の背中に回る。そっと肩を押して距離を取ると、頬を包み込んでキスをした。柔らかくて、生きているときと同じだと思った。だけど本当は違う。半年前、現場からは彼女の右腕と右足が発見されている。助からない傷だ。当時呪いによって殺され、遺体が損傷されたと考えるほかない。死んだ、死んだはずの恋人なのだ。

「私の馬鹿のせいだけどさ、もう一回恵に会えて、良かった」

なのになんで、そんなに優しく笑うんだ。ナマエが柔らかく笑って、その瞳の奥に情けない顔をした自分が映っているのが見えた。そんなのお互い様だ。もう二度と顔を見ることも出来ないと思っていた愛しい人が目の前にいて、もう一度抱きしめたいと思っていた願いが叶っている。ナマエが伏黒の眉間に小さくキスをした。

「ね、恵。最後にえっちしようよ。ほら、ここ出るためだと思ってさ?」

そんな言い訳めいた言葉を用意しなくたって、今すぐ掻き抱いて暴いてナマエのことを感じたい。だけどそれは同時に、この呪具の領域を出るということだ。今のナマエはこの呪具の中でしか存在することが出来ない。伏黒は一度口をムッと閉じてから開く。

「…しない」
「え?」
「したら、ここから出られるようになるんだろ」

ナマエが驚いて目を見開いた。呪いにとって縛りは絶対だ。いかに妙ちくりんな縛りだったとしても、成立した以上必ず守られる。この奇妙な白い部屋から出ることが出来る。それはつまり。

「そしたら、もう二度と…ナマエに会えなくなる」

正しくない考えであることはもちろん分かっていた。だけどナマエの体温が伏黒の判断を鈍らせた。不毛だと分かっていても、ナマエのそばで彼女を抱きしめていたい。どうしてもそう願ってしまう。

「馬鹿だなぁ、恵は」
「お前に言われたくない」
「ははっ、ひどっ!」

いつになく弱気の伏黒をナマエが笑い飛ばしてくれる。こういう優しさはいつも伏黒のことを救ってくれていた。ナマエの手が伏黒の髪を梳くように撫でる。心地がいい。ずっとここにいたい。それと同じくらい、彼女のことをこのまま掻き抱いてしまいたい。

「外で待ってくれてるひとがいるじゃん。こんなところに、死人とずっと一緒にいたらダメだよ」
「死人だけど、恋人だ」
「あ、恋人って言ってくれた。嬉しい」

お道化たようにそう言う。生前は照れのようなものがあって、ナマエにあまり優しく出来なかった。こんなんで付き合ってて楽しいのかよ、と自分の不器用さに辟易してナマエにこぼしたこともあったけれど、ナマエは「そういう恵も好きだから」と当たり前のように言ってくれた。もっと、もっと彼女に恋人らしいことをしてやりたかった。

「恵、祓って」
「ナマエ……」

永遠にこのままなんていうのは現実的な話じゃない。わかっている。全部わかっていても、伏黒の中には対立する欲求がせめぎ合っていた。その口火を切ったのはナマエだ。もう一度伏黒に「最後のわがまま聞いてよ」と甘くて切ない声を出し、伏黒を抱きしめた。

「…ナマエ、好きだ」
「うん、私も」
「お前をここから、出してやるから」

伏黒は軽く唇を噛み、合図のようにキスをする。甘く広がるキスの味に彼女を喪った日のことを思い出しながら、二人の熱を分け合う。今までよりも何倍も丁寧にナマエを解きほぐし、ひらき、いかに自分が彼女を愛していたかということを証明していく。

「恵、だいすき」

一連の行為が終わると、呪具の呪力が一気に動き出した。これで本当に終わりだ。ナマエにはもう二度と会えない。いや、そもそもこうして最後に彼女を抱くことが出来ること自体、奇跡のようなものだったのだ。
目の前の光景が一度歪み、真っ白だった視界が色彩を取り戻す。山の木々の匂いが鼻腔をつついた。夢のような時間だった。伏黒は視線を自身の右手に落とす。どういうからくりか脱いでいたはずの服は元通りで、薬指にはナマエに強請られて買ったペアリングが映る。

「は?」

ペアリングからは呪力がするりと糸のように伸びていた。もちろんこんなのは呪具に飲み込まれる前は存在していなかったものだ。一体何事だと呪力の伸びる先を目線で辿ると、地面から数センチほど浮遊している女の足が目に入った。

「えっ、あれぇ…?」
「はぁ!?」

そこにはナマエがいた。肌の色が異様に白く、髪の色まで真っ白に変質しているが、声も間抜けな顔立ちも間違いなくナマエだ。
呪力の流れを制御して生きることを常としている術師は非術師に比べて呪力の漏出が抑えられているため、死んでも呪霊にならない。ただし、術師本人の意思で呪いに転じる場合を除いて。

「あはは……なんか呪いになっちゃった?かんじ?」

ナマエがへらりと笑った。つまりはなんだ、呪具のなかで縛りのために留まり続けていたナマエの呪力が外に出され、そのまま呪霊に転じたということか。飲み込めない事態をどうにか説明づけようと試みる。

「…なんだったんだよ、さっきまでの葛藤は…」
「な、なんかごめんね?」

伏黒が大きくため息をつくとナマエはオロオロとこちらの様子を気にしながら自分に起きたことを順を追って理解しているようだった。ペアリングから呪力が伸びていることからして、恐らくこれを媒介に繋がっているのだろう。

「俺の覚悟返せよ」
「ご、ごめん…えっと、精一杯お役に立てるように頑張ります…?」

奇しくも手放しで尊敬できる先輩と同じような状況になってしまったことにこの先どうするべきかと考える。ナマエを手招きで呼べば、彼女は浮遊したままこちらに近づき、いとも簡単に伏黒の腕の中に納まった。
なんて報告すればいいのか。この妙ちくりんな呪具の縛りの経緯を報告しなければならないと思うと気が重いけれども、抱きしめられながら「どうしよう、恵ぃ」と情けない声を上げているナマエを見ていたら、もうどうとでもなってしまえと、投げやりと爽快感の混ざった気持ちにさせられた。

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