幼馴染です、今のところは
幼いころから秘密を共有していた女の子がいた。隣の校区に住んでいる同い年の子で、名前はミョウジナマエ。週一回のそろばん教室が一緒だった。たまたまそろばん教室の帰りに一人で歩いているところを見かけたとき不審そうに空地を見つめていたものだから、犬か何かがいるのかとナマエが立ち去ってからこっそりと伊地知もそこを覗いた。そこには蛙のようなかたちをした、この世ならざるものがゲコゲコと音を鳴らしていた。

「ナマエちゃんも、見えるのかな…」

アレは呪いだ。伊地知は祖母にそう教わった。この世には呪いという人間の負の感情の澱のようなものがあり、ごく少数の人間がそれを視認する事が出来るのだという。両親はその才能がなかったが、田舎の祖母だけは同じように見ることができて、いろいろなことを教わった。同級生にも呪いが見える人間はいない。だから分かり合える人間がいないことが寂しかった。

「ナマエちゃんにも見えたら、嬉しいなぁ」

自宅までの足取りは軽かった。そこから半年ぐらい後にどうにかナマエに話しかけ、その日から二人は呪いが見えるというあまりロマンチックじゃない秘密を共有する間柄になった。


休日の午前10時。伊地知がベッドの上で完全にダウンしていると、ピンポーンという間抜けなインターホンの音がして、間もなく鍵ががちゃがちゃと開けられた。もうこの時点で来訪者が誰なのかわかっているから、ベッドから起き上がる気力を絞るのもなまけた。トントントンと軽い足音が近づいてきて、伊地知の伸びている寝室の扉をがちゃりと開ける。

「潔高くん、おはよ」
「……ナマエちゃん…おはよ…」
「ふふ、全然起きてないじゃない」

当然のような素振りで合い鍵を使い、当然のようにして寝室に足を踏み入れる彼女はナマエ。小学校時代に通っていたそろばん教室からの付き合いが、成人して働き始めた今でも続いている。
緩慢な頭の回路をなんとか回しているうちに、キッチンの方から美味そうな匂いが漂ってきた。ぐうっと腹の虫が鳴り、本格的に頭が回り始める。ベッドからのっそり起き上がると、とぼとぼ匂いの方向に歩いていく。

「あ、起きてきた。ご飯今できるところだよ」
「ありがとう」
「どーいたしまして」

ダイニングテーブルには焼き魚と味噌汁と白米、それから漬物に卵焼きが並んでいる。朝ごはんを代表するかのようなラインナップで、漬物はナマエの自家製だ。椅子に座って手を合わせ「頂きます」と言ってからお手製料理にありつく。

「ねぇ、シーツとか洗っちゃっていい?今日お天気良いみたいだから」
「うん。いつもごめんね」
「いいのいいの。私がしたくてしてるんだもん」

ナマエは寝室に引っ込んで、リネン類を抱えて洗面所に歩いていく。ほどなくして洗面所から戻ってきたナマエは、今度はキッチンに立って朝食に使った調理器具をあれやこれやと片づけ始めた。伊地知はその背中をぼうっと見守る。

「あ、そうだ。潔高くん、クリーニング出しとこうか?ジャケット、いつものそろそろ出すでしょ?」
「ありがとう」
「ううん。じゃあ、預かっとくね」

ナマエは慣れた様子でクリーニングに出すジャケットを軽く畳んで持ち込んだ紙袋に入れる。こうしてクリーニングまで頼むのももうお馴染みのことになってしまっていた。

「ナマエちゃん、あの、無理しないでね」
「え?無理なんかしてないよ?」
「…だと…良いんだけど…」
「だって、潔高くんがすっごいお仕事頑張ってるの知ってるもん。私はちょっとでもその手助けになればいいなぁって、それだけ」

少し恥ずかしそうにナマエが笑う。一見するとまるで出来のいい妻や恋人のようだけれど、実際はそういう甘いものじゃなかった。仕事に忙殺されてろくに人間らしい生活を送らなくなる伊地知を助けてくれる、有難い幼馴染様なのだ。


そろばん教室の級友だったナマエは、秘密を共有するようになって親密になり、幼馴染と呼べるような付き合いになった。彼女には呪いは視認できるけれどそれを活用できるほどの呪力はなくて、普通の高校に通いながら窓をすることになった。一方伊地知は呪術高専に入学し、呪いというものに繋がれるようにして大人になるまでずっと縁は途切れることなく続いていた。
伊地知潔高という男は非常に優秀な反面、仕事に根を詰め過ぎて私生活に無頓着になっているきらいがある。学生時代の寮生活は滞りなく出来ていたし、やろうと思えば出来ることなのだけれど、日々の仕事に疲れ果てておざなりになっているというのが現状だ。

「あのぅ、伊地知さん、この間の五条さんの送迎のときのことなんですけど…」

同僚がおずおずと声をかけてくる。激務の半分は補助監督としてのものだけれど、もう半分は半ば公認的になってしまっている「五条係」の仕事のせいだと思う。高専時代の先輩後輩という間柄だけでなく、伊地知と五条は今まで共にした学校生活や任務の中で確たる絆がある。それ自体は、ありがたいことだと思うのだが。

「あぁ…そうですね、では、次に同じような問い合わせがあったら私の名刺を渡しておいて下さい。私の方で収めるようにしますから…」

聞かされた用件はよくある五条絡みの問い合わせだった。術式を派手に使ったあとなどに連絡の行き届いていない末端の一般人から任務後の惨状についてクレームという名の問い合わせが届く場合がある。一応そういう対応もマニュアル化はされているのだけれど、正直自分で処理してしまった方が早い、と思って相談を持ちかけられたら今度から自分のほうに話が回ってくるよう、対一般人向けの名刺を補助監督に渡すようにしている。

「…あれ?」

その名刺を取り出そうとして定位置である内ポケットを探ったが、生憎名刺入れが見つからない。なんでだ、と少し考えて、昨日ナマエに託したジャケットの中に入れっぱなしだたのだと気が付いた。

「すみません、手持ちがないので後ほどお渡しします」

仕方がない。超緊急の案件じゃあるまいし、事務室に戻った時にストックから渡すようにしよう。伊地知がそういえば、補助監督は「お手間をかけてすみません」と一礼をして自分の仕事に戻っていった。
クリーニング屋でポケットに貴重品の有無などを確かめるだろうから、今頃ナマエが気が付いてくれているかもしれない。多分メッセージでその連絡をくれるだろう。そう思いながら自分も他の仕事にかかろうかと事務室のほうへと向かう。

「あ、伊地知はっけーん」
「ひっ!五条さん…!」

不意に背後から声をかけられて縮み上がった。今まさに問題にしていた伊地知を悩ませる種、五条悟の登場である。このテンションは仕事の話じゃない。一体どんな無理難題を吹っ掛けてくるのかと思って身構えると、彼はぐいっと自分の背後を親指でさす。

「お客さん来てるけど」
「きよた…あっ…!伊地知さん、お疲れ様です」

ひょっこりと五条の後ろから姿を現したのは昨日も顔を見たばかりのナマエだった。職場だからというのを気遣って、いつも通りの「潔高くん」呼びから「伊地知さん」呼びになっている。だというのに伊地知の方は驚きのあまり「えっナマエちゃん!?」と普段通りに呼んでしまった。ナマエはおずおずとした様子で手のひらサイズのものを差し出す。預けたジャケットに入れっぱなしだと思っていた名刺入れだった。

「あの、昨日預かったジャケットに入ってたから…ごめんね、受け取るときに気がつけばよかったんだけど」
「あ、名刺入れ…わざわざ持ってきてくれたんだ」
「うん。こっちの方に来る用事があったから」

ナマエから名刺入れを受け取る。用事があったからなんて言ってくれたけれど、本当はこれを届けるために来てくれたという可能性も大いにある。彼女はそういうひとなのだ。

「お仕事の邪魔しちゃってごめんね、じゃあ私はこれで…」
「えぇぇー、ナマエちゃんもう帰っちゃうのォ?」

馴れ馴れしくそう言ったのは伊地知ではなく五条だ。ナマエも彼女が高校生だったころから窓として高専に協力している身だから、当然のように五条ともそれなりの付き合いである。馴れ馴れしいのはいつも通りのことだけれど、それがいい気分だとは言えない。

「すみません。このあと予定があるので…それに五条さん、お忙しいんでしょう?」

それはその通りである。今はたまたま多少の空き時間があるだけで、このあともすぐに次の任務が入っている。伊地知が五条に「そうですよ、この後も詰まってるんですから」と言えば、少し拗ねたように「えぇぇぇ、僕もナマエちゃんと遊びたい」と子供のようにごねた。

「それじゃあ、五条さんお仕事頑張ってください。潔高くんも気を付けてね」
「うん、行ってきます」

ひらひらと手を振って踵を返すナマエを見送った。伊地知の世話を焼きに、まま家に来てくれるから頻繁に顔を見るのだけれど、こうして仕事場で会うといつもと違う特別感がある。顔を見るだけで少し疲れが取れたような気がするな、と非科学的で根拠もないことを思いながら、届けてもらった名刺入れに視線を落とした。

「はぁーあ、僕もナマエちゃんと遊びたかったなぁ」
「無茶なこと言わないでくださいよ。このあと任務の上に会食まであるんですから…」

未だゴネる五条に少しの小言を言ってため息をつく。自分だって仕事を放っておけるならナマエと食事に行きたいくらいだ。しかし残念ながら今日のスケジュールは夜までギチギチである。

「いやー、それにしても伊地知のタメ語とか超貴重だわ」
「…そうですか?」
「そうだよ。お前学生にも敬語で喋るでしょ」

そういえば、ナマエを前にしてうっかり敬語を忘れて普通に話してしまっていた。それを咎める人間は呪術高専にはいないが、隠している部分を見られたような気分になってバツが悪くなる。まぁ別に、秘密にしているわけではないのだけれども。なんとか「そりゃあ…仕事中ですから」と言い訳すると、五条が長身をわざわざぐいんと曲げて伊地知を覗き込んだ。

「ふぅーん?へぇぇぇ?」
「な…なんですか…?」
「ナマエちゃんと伊地知はァ、特別な関係じゃないってコト?」
「と…特別ってそんな…その…特別なことはなにも…」

五条に自分の心中を曝け出すのは憚られてモゴモゴと濁す。確かに理論で言えば、仕事中の今だってナマエにしっかりと敬語なり丁寧な言葉で話して然るべきだった。しかしまぁそれはナマエが相手だったからであり、そんなことはもちろん五条だってわかっていることだ。

「じゃ、ただの補助監督と窓の関係でしかないっていうナマエちゃんと、なーんでタメ語で喋ってんのかなぁ?」
「そ、それはっ…!」

今日の五条はいつにもまして意地が悪い。自分の慌てふためく反応を見て楽しんでいるんだろう。

「伊地知がそんなこと言うなら、ナマエちゃんのこと気になってるって補助監督に番号教えちゃおー」
「えっ!ちょっと!それは…!」

五条はついでに「誰かに盗られても知らないよ」と、笑えない冗談を言ってくれる。確かにそれはその通りで、幼馴染という領域を出ない自分にはナマエを引き止める言葉は何もない。

「ナマエちゃん、可愛いから引く手あまただろうねぇ」
「…そんなの、私が一番知ってますよ…」
「あはは、言うじゃん、伊地知」

五条がヘラヘラ笑った。彼女の隣に自分以外の誰かが立ってるのはたぶん耐えられないだろう。ああ、今日仕事が終わったら、ナマエを食事にでも誘ってみようか。

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