当たっても砕けない
ナマエは補助監督志望で呪術高専に入学した。理由としては運動神経が悪いというのもあるし、呪力がそれほど強くないということもあった。最前線での戦闘をするわけではないけれど、一般大衆が操ることのできない「呪力」という力を持って生まれた以上、それを世の中の役に立てられることは単純に嬉しかったし、この世界で自分の存在意義を証明出来ているような気になれて嬉しかった。

「ミョウジさん、今の結界術のサポート、助かりました」
「ほ、ホントですか…!」

呪術師の経験がないから、どう立ち回れば彼らに都合がいいのかわからなくて、探り探りでやっていることをこうして褒められると無意識のうちに顔が明るくなってしまう。それが憧れの先輩である七海なら尚更。

「ミョウジさん、この前も現場の詳細な地形図作ってましたよね」
「え、あっ、はい…あの、ちょっとでもお役に立てればと思って…」
「努力家なんですね」

ふっと、少し柔らかく七海が笑った。彼にとってはきっとなんともない会話のひとつに過ぎないのだろうけれど、ナマエにとってはとても特別なものだった。七海は優秀な呪術師だ。補助監督としても平々凡々なナマエとは違って、在学中に一級術師にまで昇級している。奇人変人の多いこの呪術界でそれなりに常識的な感覚を持っていて、女子供にはとても紳士的で、ナマエの憧れの先輩であり、初めて好きになった異性だった。

「あの…七海先輩」

一緒に赴いた任務の帰り、もう少しで敷地内に入る、というところだった。ナマエは真っ直ぐに前を向いて歩く七海の背中に躊躇いながら声をかけ、七海はぴたりと足を止める。きんいろの髪がするりと揺れて、その向こうに青と緑を混ぜた瞳がこちらを見つめた。

「……高専卒業したら呪術師辞めちゃうって…ホントですか?」
「……ええ、本当ですよ」
「そう…なんですか…」

先輩である五条と学長の夜蛾が話しているのをうっかり小耳に挟んでしまったのだが、どうやら本当のことらしい。ナマエはこの先に何と続けたらいいのかわからなくなって、「あの、頑張って下さいね」とあいまいな言葉をかけることしかできなかった。


それがもう四年も前の話。あの頃はびくびくと自信なさげに現場に出ることしか出来なかったが、今はそんなこともない。補助監督として昼も夜もなく現場に出て、否応なしにも経験を積むことになった。経験を積めばそれなりに現場での立ち回りは上手くなるし、上手く回せる現場が増えればまた自信に繋がる。

「ミョウジさん、お疲れ様です」
「伊地知くんお疲れ様。今日は学生さんの引率だっけ?」
「いえ、五条さんの送迎を」
「うわぁ。お疲れ様……」

校舎の近くで遭遇した同期のやつれ顔を労わると、伊地知はトホホとため息をついた。五条はずいぶん伊地知のことを気に入っている。まぁ、彼の人となりの良さとか優秀さは知っているから納得なのだけれど。五条さんの付き人みたいなことするなんて大変そうだなぁと思っていると「あ」と伊地知が口を開く。

「そう言えば、今日ですね」
「え?」
「七海さんの本格復帰です。ほら、先週顔見せにいらっしゃってたじゃないですか」

ここ最近の一番大きなニュースは、一級術師七海建人の復帰だ。もちろん高専を離れていた期間があるから正確には一度等級を落とされるのだけれども、彼ほどの実力者であればすぐに一級術師に返り咲くだろう。

「……ミョウジさん、楽しみですね」
「えっ…!な、何で!?」
「ふふふ、伊達にミョウジさんの同期を何年もやっているわけじゃありませんよ」

伊地知が意味深に笑う。自分の中でいまも燻ぶり続けている淡い期待と憧れのない交ぜになった感情を、察しの良い彼なら気が付いていてもおかしくないだろう。二人で他愛もない話をしながら歩いていると、向かいから少しだけ賑やかな声が聞こえてきた。何か来客でもあったのだろうか、と思っていると、多目的室と化している空き教室から顔を出したのは噂の渦中の七海だった。その後ろに五条の姿も見える。なるほど、仔細はわからないが、どうせ五条が何か適当なことを言って揶揄ったに違いない。

「あ、ナマエじゃん」
「お疲れ様です」

五条の視線の標的になって、ぺこりと軽く頭を下げる。その隣に立っている七海に話しかけたかったけれど、正直何と言って話しかけたらいいのか皆目見当もつかない。彼を前にするだけで緊張してしまって、舌は絡まって、思うように動かなくなってしまう。

「ナマエさ、お前明日からの任務全部リスケね」
「は?」
「ちょっとしばらく七海の専任して欲しいから」
「ええッ!?」

五条はナマエの驚きなどお構いなしでヘラヘラと笑っていて、七海も「よろしくお願いします」と平然とした顔でぺこりと頭を下げた。降って湧いた専任の話にそんなこと急に言われても…と戸惑っていると、畳みかけてきたのはもちろん五条だ。

「復帰したばっかで変わってるシステムとか手続きとかごまんとあるでしょ。そういうの教えるのに何人か複数でっていうより一人に絞ったほうが効率良いじゃん。ナマエならついでに現場にも同行出来るわけだし」
「そ、そうですけど…」
「ね?ほら、七海だって見知った顔のほうがやりやすいって言ってるし」

そんなことは一言も言っていない、と思って七海の方を見れば、否定するような様子もないし概ね同意しているように思われた。実際意識しているのはナマエだけで、七海の方は何とも思っていないのだろう。それはそうだ。だってナマエも、これが七海相手でなければ「わかりました」と業務命令に抵抗もせずに頷いているだろう。
結局五条はしっかりナマエから「わかりました」の言葉を引き出し、そのまま七海と二人で今後の任務体制の打ち合わせをすることになった。去り際に伊地知が意味深にこちらに向かって頷いていて、内心「置いてかないでよ」と思ったけれど、そんなことは口に出せるはずもなかった。

「えっと…あの、微力ながら復帰のお手伝いをしますので、しばらくの間よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ。面倒をかけてすみません」

いえいえ、と言いながら、タブレットに通知された書類の内容を確認する。タイミングからして五条が送った七海の今後のスケジュールのことだろうと思いながらファイルを開くと、鬼のような任務スケジュールが並んでいた。

「えっ、やば。復帰早々の術師の任務の詰め方じゃないですよ。ちょっとこれ調整してもらいます」
「いえ、なるべく詰めてくれと私がお願いしたんです。現場の回数を増やして早く勘を取り戻したいので」
「そ、そうなんですか?」

並ぶスケジュールはもはや最前線で働く売れっ子一級術師のそれであるが、七海が希望したのなら仕方がない。自分にできることは、せめて効率よく、少ない労力でこの任務をこなせるようにサポートすることくらいのものだろう。

「わかりました。明日からがんばりましょう」

ならば自分にできることはもう見えた。この一覧の任務概要を調べて地図や事のいきさつなどの情報をまとめて七海に提供するだけだ。ナマエが決意表明のようにぐっとガッツポーズを取ると、七海はそれをくすりと笑った。


翌日から始まった七海の復帰任務の成績は恐ろしい。いくらさほど高い等級の任務が入っていないとはいえ、ナマエの想像の何倍ものスピードで任務をこなしていく。数年ぶりに見る彼の戦う姿はやはり見るほどに美しく、吸い込まれて行ってしまいそうだとさえ思った。
専任の補助監督として仕事をこなすなか、不謹慎にもはっきりと自覚したのは自分の恋心だった。彼のそばにいたい。彼の役に立ちたい。出来れば振り向いてほしい。仕事を頑張るには不純な動機だったけれど、

「相変わらず、ミョウジさんの仕事は丁寧ですね」
「そ、そうですか…?」
「ええ、自分の処理すべき目標が現地に入る前から殆ど明確にわかっているので、最小限の労力で祓うことが出来ます」

動機は不純だったけれど、七海がこうして褒めてくれるとやる気は無限に湧いてくる。彼の役に立てていることが嬉しいし、彼のそばにいることが許されているような気がして嬉しかった。学生だったあのころとは違う。自分にも出来ることがあって、彼の隣とは言わないけれど、目に見えるような範囲で支える仕事が出来る。

「明日もよろしくお願いします」
「はいっ!よろしくお願いします!」

七海と高専の敷地内で別れ、そのまま自主練習をするという彼の背中を見送る。自主練習でも何か役に立てることがあればいいのだけれど、生憎自分にそれは難しい。自分は自分に出来ることをしよう、と、事務室に向かい、明日の任務の最終調整と今日の報告書をまとめることにした。

「ミョウジさん、どうですか、七海さんの調子は」
「順調だよ。ブランクなんて全然ないみたいに見えるくらい」
「さすがですね」
「うん。本当に。でも七海先輩無茶しかねないし、様子もちゃんと見とかないといけないところだけど……」

気がつけばすっかり夜も更けたような時間で、恐らく五条関係の仕事から帰ってきただろうちょっとヨレヨレになっている伊地知とそんな話をした。能力がある人間の責任感ゆえというか、七海は冷静沈着な見た目に反して結構無茶をするところがある。それは学生時代からも承知の上だ。大した力のないナマエには想像もつかないけれど、出来ることの選択肢が多いということはそれゆえに見えている世界というものがあるのだろう。

「ミョウジさんも無茶しないでくださいね」
「伊地知くんよりは無茶しませんー!」

気安い仲が故のじゃれ合いのようなやり取りをして、くすくすと笑う。伊地知はナマエにとって正に戦友だ。二人きりの同期だし、同じ補助監督だし、伊地知の傷つくところも、逆にナマエの傷つくところもお互いに見せてきた。報告書に最後に印鑑を押すと、丁度事務室の扉がノックされる。こんな時間に誰だろうか、と今日の術師や補助監督のスケジュールを思い浮かべながら「はい、どうぞ」と声をかけると、姿を現したのは七海だった。

「え、あれ、七海先輩?」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です……って、ひょっとしてこんな時間まで自主練してたんですか?」
「ええ、まあ」

七海と別れたのは夕方だったはずだ。連日任務も入っているというのにこんな時間まで自主練していたのか、と驚いていると、七海は「電気がついていたので、ミョウジさんもまだ残っているのかと思いまして」と、この事務室に顔を出した理由を述べた。

「ミョウジさん、丁度帰るところでしたよね。お疲れ様です」
「え?い、伊地知くん?」

伊地知がニコニコと人の良い笑みを浮かべて言った。確かにキリは付いたところだったけれど、別に帰宅しようなんて誰も言っていない。伊地知の言葉を受けて今度は七海が「そうなんですか。では、送ります」とさも当然のように言い出し、驚ている間に伊地知にぽいぽいと荷物を持たされて、気が付いたときには事務室を追い出されていた。

「え、っと…あの…七海先輩?」
「家、どっちですか?」
「あ、麓の南のマンションです…」

通勤の利便性だけを考えて借りている自宅の所在を垂れ流すように白状すると、七海は「そうですか」とさも当然の素振りで歩き出す。まさか本当に送ってくれる気でいるのか。疲れているところに申し訳ない、という気持ちと、一緒に帰りたい、という気持ちがせめぎ合う。そっと斜め上を盗み見るとこちらを見下ろす七海と目が合ってしまった。

「伊地知くんと仲良いんですね」
「えっ!あっ!は、はい…同期で補助監督ですし。あ、といっても伊地知くんの方が優秀なんで、私の方がいつも迷惑かけてるんですけど…」

目が合ったことも相俟って、少しきまり悪くて笑って誤魔化した。ちょっとした雑談なんて任務の合間や送迎のときにいくらでもしているはずなのに、夜の静けさのせいか、ふたりきりというこのシチュエーションのせいか、上手に舌が回らない。えっと、あの、と言葉を探しているうちに、先に口を開いたのは七海だった。

「ミョウジさんを指名したの、私なんです」
「…え……?」
「復帰するなら、絶対アナタと仕事がしたかった」

てっきり五条が無茶振りをしたのかと思っていたのに、蓋を開けてみればそもそもが七海の希望だったという。自分の仕事を信頼してくれているというのが嬉しくて、だけどやっぱりそれだけでは物足りないと思ってしまう自分の存在に気が付いた。ナマエは一度唇をきゅっと引き結ぶと、意を決して開く。

「あ、あの、七海先輩!今度…一緒にご飯…行ってくれませんか…?」

あの頃の自分とはもう違うんだ。結果がどうあれ、ぶつかるまでにもっともっと手の届かない人になってしまうなんて、もう絶対にイヤだった。

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