果てまで届く
その噂を聞くようになったのは、繁忙期が終わろうとしている夏の始まりだった。6月にとんでもない才能が入学してきた。特級被呪者である。自分の受け持ちになったらと思うとゾッとするが、幸い今年の一年生の受け持ちは五条だ。もっとも、そうでなくても五条以外に面倒を見られる教師などいないと思うが。

「おう、乙骨か」
「あっ…えっと…」
「二年受け持ちの日下部だ」

2017年7月某日。敷地の中でその例の特級被呪者を見かけ、日下部は声をかけた。乙骨は日下部のことをまだ覚えていないのか、少し困惑した様子だった。日下部が名乗れば得心がいったような顔をして「こ、こんにちは…」と小さい声で挨拶をした。

「あの、僕まだ会ったことないんですけど、二年に女の先輩っているんですか?」
「は?」

何か世間話でもしなければいけないと思ったのか、乙骨はたどたどしく日下部にそう尋ねる。呪術師の男女比は圧倒的に男の方が多い。乙骨の学年には禪院家の娘がいるけれど、そもそも人口の少ない呪術高専において男ばかりということも珍しくない。今の二年生もまさにそれで、問題の多い学生二人は両方とも男である。

「いや、二年は男二人だぞ」
「あ、そうなんですか…じゃあ勘違いだったのかなぁ」

乙骨は日下部の回答を聞いて首をひねった。何か妙な予感がする。普段は学生とのコミュニケーションなんてそこそこで済ましている日下部だったが、そこで「気になることでもあるのか」とその中身を話すように促す。

「この前、麓のところで高専の制服を着た女の子に会ったんです。17歳って言ってたから、先輩なのかと思ったんですけど…」
「まぁ、高専の制服なら見間違えることもないわな」

乙骨がいたずらに嘘を言っているとは思えないし、そもそもそんなことをしても彼には何のメリットもない。そして日下部は乙骨以外からも「妙な噂」を窓から聞いたことがあった。衣替えも済んでいるこの季節に、冬服の高専生を麓で見かけた、というものである。

「どういう女子学生だった?」
「どういう…ってその、普通のひとでしたけど…ええっと、髪が長くて、目が大きくて、にこにこ笑ってて…あ、でも冬服着てました」

暑くないんですかね?と乙骨が不思議そうに言った。やはりこのところ耳にする噂と同一人物のようだ。幸か不幸か、呪術高専の近くにはいろんな呪力が満ち満ちていて、結界の中ならいざ知らず、結界の一歩外に出れば一級クラスの呪霊でもない限り目立って感知することは出来ない。呪霊なら別に何てことはないが、呪詛師であれば厄介なことになる。

「冬服に見えたけど、ひょっとして特別仕様なんですかね。スカート凄く短かったし、今はいいけど、冬場にあんなの履いてたら寒いですもんね」

乙骨が世間話を継続する。日下部の中でスカートの短い冬服の高専生、という三つのワードがひとつに絡まっていった。心臓の奥がひんやりと冷える。これは殆ど反射のようなものだった。そこから乙骨とどんな世間話をしたのかあまり覚えていない。有り得ない妄想に縋ろうとする自分が情けなくて自嘲した。
ナマエが死んだのは、半年前のことだ。自分の教え子で、実に厄介な学生だった。日下部に子供じみたわがままを言って、短いスカートを危なっかしくひらひらさせながらこちらを困らせてくる。彼女に対してどんな感情を抱いていたのか、正直なところ、今でもしっかりとした決着をつけることは出来ていない。高専の解剖室に横たわるナマエの遺体を前にして、やるせない気持ちを覚えたのは確かだった。けれどその感情が何なのか、分類する前に彼女はいなくなってしまった。

「はぁ、俺もヤキが回ったかな」

ナマエは稀有な術式を持っていた。呪力探知による予知能力のようなもので、その代償は大きかった。術師本人の死によって払われるそれから彼女は逃れるのことが出来なかった。
五条がナマエを見つけたという場所はローカル線の終着駅のすぐそばにある錆びれた公園だったらしい。ベンチに座って、眠るように死んでいたのだそうだ。その駅の名前を聞いて、日下部は胃液がかき混ぜられるような感覚を覚えた。その場所はナマエと初めて二人きりで行くことになった田舎の駅だった。

『ねーえー、日下部ぇー。迎えいつ来るのー?』
『うるせー。いま呼んでるっつーの』

その日はナマエの予知によって予測された地点で無事呪霊の祓除には成功したものの、迎え予定の補助監督が緊急の案件に駆り出され、現場で待ちぼうけを食らう羽目になったのだ。この終着駅から高専に戻るには中々骨だ。しかも終電に乗っても途中までしか戻れない。最悪泊りだな、とこぼすと、すぐそばのベンチに座っているナマエが『えええー!』と盛大に声を上げた。

『やだぁ、日下部ってば私のことどうするつもりー!?』
『アホか。ガキにどうもこうもあるかよ』
『えー!そんな言い方なくなーい!?』

じゃあどう言えと言うんだ。そもそもこの前まで中学生だったような16歳の子供に変な気を起こすようなクズじゃない。ナマエがブーブーと引き続き文句を垂れるのを適当に受け流し、高専と連絡をとる。

『ダメだな。誰もつかまんねぇ』
『じゃあお泊り?』
『明日俺は任務あんだよ。とりあえず電車で帰れるところまで帰ってそっからタクるぞ』

補助監督の迎えを諦め、電車の乗り換えを検索する。高専までは戻れないけれど、それなりに大きな駅には終電で辿り着きそうだ。そこからはタクシーで帰るしかない。タクシー代は嵩むだろうが、あとで経費で精算してもらおう。

『おら、行くぞ』

まだ不満たらたらのナマエを連れて無人駅の改札をくぐる。高速で流れていく見知らぬ土地の風景を眺めていたら、いつの間にかナマエは日下部の肩にもたれて眠ってしまっていた。こうして黙っていると本当にただの子供だ。電車の揺れで反対側に落ちてしまいそうなナマエの頭をぐいっと自分の肩に乗せた。


冬服の少女の噂はその後も耳にした。気になる話を聞いたのは、以前偶発的に助けた窓の青年に街中で出くわして、挨拶程度の立ち話をしている時だった。

「日下部さんって高専の他でも教職につかれていたことあるんですか?」
「は?」

日下部は高専卒の呪術師であり、その後所属の呪術師を経て教師になった身である。一般社会とは随分長く関わっていないし、教員免許も持っていなければ高専の教師以外に教職についたこともない。

「いえ、前に街中で女の子に聞かれたんですよ。日下部先生元気ですかって」
「街中?」
「はい。高専からしばらく先の…ええっと、ローカル線に乗り換える駅の近くだったんですけど、高専生なら僕に聞くのもおかしいし、別の学校で教え子だった子かなと思ったんですけど…」

なんか不思議な雰囲気の子だったんですよね。と青年が続ける。冬服の少女とは直接的な繋がりはないのに、どうしてだか切り離せないもののように感じた。


あの青年の話を聞いてから、窓や補助監督に噂話を聞いてまわった。噂話が集まれば集まるほど、ナマエの輪郭をそこに見出してしまうような気分になった。
日の暮れた中を進む。生い茂る緑と湿った土の匂いに囲まれながら石畳の階段を降りて、結界を出たところで耳をすませれば近くから小さい鼻歌が聞こえた。その方向に進む。有象無象の呪力が満ちているなかで、今日は懐かしいものを感じ取ることが出来るような気がした。
少し開けたところにある、大きな岩。サボりがちな彼女のお気に入りの場所。日下部が迎えに来ることを知っていて、だからわざわざ校舎を抜け出してこんなところまで来るのだ。その岩の上に、小さい背中を見つけた。

「……ミョウジ」

名前を呼ぶ。鼻歌が止まって、長い髪を揺らしながらゆっくりと振り返る。以前よりも顔の色は非人間めいて白々しているが、その相貌に変わりはなかった。半年と少し前に死んだ、自分の教え子だった。

「あ、日下部」

ナマエはへらりと笑うと、岩から立ち上がって日下部のもとに歩いてきた。足を使ってはいるけれど、それに重力が伴っているようには見えなかった。

「……お前、なんでこんなとこにいるんだ」
「えっと、私、死んじゃったんだけどね?いろいろあって」
「死んだのは知ってらぁ。お前の遺体は高専の解剖室で俺も確認した」
「あ、そうなんだ。はは、死んだの見られたとかなんか恥ずかしいね」

ナマエは緊張感に欠ける口ぶりで、それが生前と変わらないから混乱する。彼女は呪霊だ。間違いなく、死後に呪霊と化している。ナマエが「じゃあ、私の術式の縛りとかも聞いた?」と尋ねてきて、日下部はそれを頷くことで肯定する。

「私ね、死ぬ間際に日下部のこと考えちゃって。未練っていうのかな。名前、呼んでほしかったなって思っちゃったら、こんなことになっちゃって」

今は自分の死んだ場所と高専までの間だけを行き来出来るようになってるみたい。とナマエが付け加える。街中で青年に聞いた話が繋がっていくような気がした。呪霊にしては気配が薄いし、本人に制御が出来ているせいなのか、人間にさえ見間違えるような気がする。術師であればすぐに見抜けるだろうけれど、窓や補助監督であればあまりに人間めいているから一瞬呪霊だと認識が出来なくてもおかしくはなかった。

「どうして高専なんか戻ってきてんだよ。お前だってことに気付かない呪術師に見つかったら祓われるに決まってるだろ」
「うん。だけど、どうしても伝えなきゃいけないことがあって…だから日下部か五条先生か伊地知さんに会えるまで待ってたんだ」

その伝えたいこととはなんなのか。それが気になると同時に、他の男でも良かったのかだとか、五条のことはなんで先生をつけて呼ぶんだとか、子供じみた駄々が頭の中に育つ。いや、今はそんなことを言っている場合ではないのだとわかっているのだけれども。

「伝えたいことってなんだ?」
「…私ね、呪力の感知が生きてた頃より正確になったんだ。感知できる期間も長くなった。術式が拡張してるみたいなイメージなんだけど……」

呪霊になった呪術師の術式が強化されるか否かなんて検証できる前例が殆どないのだから日下部にもわからない。しかし術式のことなんて本人が一番よくわかっているはずだ。日下部はそのままナマエの言葉の続きを待つ。

「今年の12月、新宿で大規模な呪術テロが起こると思う。街がぐちゃぐちゃになるくらいの。それから連続して何回も何回も不自然な呪力の動きがあるの」
「なんだと?」
「顔はぼんやりしてるんだけど、男の呪詛師が中心になってて…呪霊もたくさん出る。数と出現場所も今の私なら予知できると思う」

日下部は想像もしていなかったことを言われて頭が一瞬フリーズした。呪術テロということは、いわずもがな呪詛師が意図して計画して起こすということだ。しかもそれを人口密度の高い大都市で行おうなんて、完全に呪術高専への宣戦布告である。そんな酔狂なことをしようなんていうやつは残念ながら日下部には思いつかない。

「ミョウジ、もっと精確な余地は可能か?」
「たぶん…もうちょっとその日に近づけばもっとわかるようになると思う。多分だけど…」

そのテロというものがどんなものであるのか、主犯格がどんな呪詛師であるのかは性別以外わからないようだが、12月までは幸い5ヶ月近くある。対策できるのと出来ないのでは被害状況が変わるのは火を見るよりも明らかだ。

「よし、んじゃまぁ、話の分かりそうなやつ狙って話しに行くか」

ここでナマエを待たせたままにしていても仕方がない。夜蛾か五条か、そのあたりの話のわかりそうな術師に一旦ナマエが予知したものの話をしてみるのが得策だろう。このままここにいたら話の分からない術師が対処しかねない。

「おら、行くぞ」

日下部は踵を返して高専の結界の方に足を向け、ナマエも浮遊感を伴う動きでそれを追う。そのまま進もうとすれば、直前でナマエがぴたりと足を止める。もっとも、今の状態のナマエの足を「足」と呼ぶのかはわからないけれど。どうかしたか、の意味を込めて振り返れば、ナマエが戸惑うように視線を泳がせていた。

「ねぇ、これ、私が入ったらアラート鳴っちゃわない?」
「鳴るだろうな」

高専の結界は、事前に登録されていない呪力を感じた際にアラートが鳴る仕組みになっている。ナマエの呪力は検死解剖が終わった後に登録を抹消されているはずだ。生前と今とで呪力に変質があるかは定かではないが、アラート鳴るのは間違いない。「じゃあ…」とナマエが躊躇うような素振りを見せる。なんだって大胆にやってみせていた彼女がそんなことを言うのがおかしくて、日下部は思わず口角を上げた。

「今更何言ってんだよ不良娘。ほら、盛大にアラート鳴らして驚かせてやろうぜ、ナマエ」

面倒ごとが大嫌いな自分なら普段絶対言わないだろう言葉だった。その証拠にナマエだってその目を大きく見開いて驚いている。いや、ひょっとして彼女を名前で呼んだからだろうか。日下部が当然のように手を差し伸べると、ナマエはくすりと笑ってその手を取る。

「うん、行こ。篤也!」

彼女が短いスカートを翻しながら結界の中へ一歩踏み出すと、未登録の呪力が侵入したことでアラートが盛大に鳴った。さて、一番最初に飛んでくるのは誰だろう。柄にもなく今、どうしてだかわくわくしてしまっている。

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