あなたとフロイデ
まさか、自分が士族の娘と婚約することになるとは夢にも思わなかった。明治という時代が始まり、それまでの身分制度が変わって四民平等と呼ばれる時代が訪れたが、それは町人や農民、それまで奴隷として扱われていたような人間を同じ「平民」とする制度であって、士族は未だにその「平民」には含まれない。もっとも、士族は華族に比べて特権も多くないから、平民と同じような生活をしている士族も少なくはないのだけれど。

「宇佐美さん?どうかなさいまして?」

宇佐美の顔を丸い目が上目遣いで見つめる。かたちの美しいスカートをひらひら揺らし、靴もピカピカのブーツを履いている。何を隠そうこのハイカラな上流階級然とした娘が宇佐美の婚約者なのだが、こんないい暮らしをしている彼女との家庭というものがどうなるのかは、あまり具体的に想像できていない。
今日は彼女の屋敷の中庭でゆったりと逢引を楽しんでいる。婚約しているとはいえ、まだ結婚もしていない男女がみだりに二人きりで出歩くのは外聞が悪いだろう。身分の格差もあることだし、いま悪印象を鶴見家の人間に持たれるわけにはいかない。

「べつに、なにも」
「なにもなくはないでしょう?だってずっと上の空なんですもの」

ナマエがきゅっと宇佐美の軍衣の袖口を引っ張った。可愛らしい仕草ばっかり覚えて本当に困る。袖口を掴んでいたナマエの手に自分の手を重ねる。自分よりも何倍も柔らかくて細い指は、少し力を入れてしまったら折れるんじゃないかと思う。

「う、宇佐美さん?」
「それ」
「え?」

ジッと視線でナマエを責める。ナマエは何のことを言われているのかわからないようで、こてんと首をかしげるばかりだ。

「あなたももう少ししたら宇佐美になるんですよ。わかってます?」
「あ……えっと……」

今はまだ婚約している状態ではあるが、そう遠くないうちにナマエとは籍を入れることになる。そうすれば彼女の名字も宇佐美になるわけで、いつまでも自分と同じ名字を呼ぶわけにもいかないだろう。

「あ、あなた…?」
「は?」
「えっと、宇佐美さんのお宅では違いましたか?あの、お前さま、とか…でしょうか…?」

ナマエの少し外れた回答に面食らった。宇佐美の両親がどうのこうのという話ではなくて、今は名字ではなく名前で呼べという意図だったのに、ナマエは次の段階に飛躍している。

「…それ迷うの、結婚したあとじゃないんですか?」
「えっ?」
「いま、僕のこと名前で呼んで下さいよって意味で言ってたんですけど」
「あっ…!」

宇佐美がいちから説明してやると、ナマエの顔がカッと赤くなった。どうやら自分が随分飛躍したことを言ったのだと気が付いたらしい。ナマエはキョロキョロと視線を忙しなく左右に泳がせる。

「あ、あの、わたくしその……」
「フフフ、まぁ別に、そう呼んでもらってもいいんですけどね」
「う、宇佐美さんっ!」

からかってやれば面白いくらいに反応する。だからやめられないというのも、大概意地の悪い話である。

「…わたくしをからかってそんなに愉しいんですの?」
「そりゃあ愉しいですよ。ナマエさんの恥ずかしがっている顔、僕すごく好きなので」

宇佐美がにんまりと唇を三日月形に変える。以前ならなんてひどいことを言うひとだと思っていそうなところだけれど、宇佐美に言われると嫌とは言いきれなくなってしまうのだから、恋というものは本当に驚くべきものだと思う。


鶴見ナマエは、元長岡藩の士族の血筋に生まれた身分ある令嬢だった。社会勉強として飛び出して来た先は日本の最北端、北海道の地である。行き先はどこでも良かったのだけれども、北海道を選んだのは自分の敬愛する叔父がいるからだった。

「ごきげんよう、篤四郎叔父さま」
「ああナマエ」

満州を主戦場としたロシアでの戦争が終わり、叔父は額に大きな傷を負った。話によれば、大砲による爆撃で額の骨と前頭葉の一部を失ったらしい。だから前みたいにガレリィにちょこちょこと出歩くことは難しくて、叔父に会うためには今日のように軍病院にナマエが足を運んでいる。

「お加減はいかがですか?」
「だいぶ良くなったよ。すまないね、みっともない格好のままで」
「いいえ、とんでもないことですわ」

傷口そのものは塞がっているらしいが、なにせ額を守る骨が吹き飛んでしまっているのである。それを保護するために叔父の額には包帯がグルグル巻きにされていた。薄皮の張ったような患部はまだずいぶんと柔らかく、こまめな消毒の処置が必要なようだ。

「その…時間が経てば以前のように外に出られるようになるんですの?」
「はは、今だって外出は問題ないさ。ただ、見栄えがこうも悪いとね」

叔父は軽やかに笑っているが、煙に巻かれているように感じて仕方がない。いや、彼は昔からこういうひとだ。何枚もナマエよりうわ手であるし、中々考えていることなんて悟らせてくれない。だから今日は悪あがきでも、少しだけ言い返してやろうと思った。

「では、額宛なんていかがですか?」
「額宛?」
「ええ、骨の代わりですわ。固い…例えば陶器のようなもので覆うんです。そうすれば簡単に傷つくこともありませんでしょう?」

弱くなってしまっている患部をそのまま晒すのは危ないし、包帯を巻いていても心もとないだろう。だからもっと強いもので守るようにすればいいと考えたのだ。陶器であれば必要な形に加工するのは難しくない。

「面白い。だが陶器だと少し重いな…」
「重さ…ですか。確かに薄い陶器ではすぐに割れてしまうかしら…」
「しかしとても良い発想だ。よし、琺瑯で誂えようか」

叔父がナマエの案を修正してみせる。琺瑯であれば耐久性も悪くないし、放熱性にも優れている。それに雑菌も繁殖しづらい。叔父の傷痕を覆う額宛にするにはもってこいだろう。
修正を受けたとはいえ、自分の案が採用されたことにパァっと胸が明るくなるような気がした。

「宇佐美とは睦まじくしているかね?」
「えっ…」

叔父の唐突な切り込みに思わず小さい声を上げることしかできなかった。もちろん婚約している身で、なんならその話をナマエの両親にするより先に相談をしていたのだから当然叔父も知っていることだが、こうして話題にしてくることはあまり多くなかった。睦まじくはあると思う。しかしそれを叔父に話すのはまだ少し恥ずかしい気がしてしまう。

「むっ…睦まじく…出来ていると、思います…その、わたくしにしっかりと軍人さまの妻が務まる器量があるのかは…不安なのですけれど…」
「フフ…ナマエなら問題ないさ。なにせ私の自慢の姪だ」
「もう、叔父さまったら…」

叔父の些細な戯れに顔が赤くなるのを感じた。自慢の姪だなんて身に余る言葉だけれど、そう言われて勿論悪い気はしない。
叔父が処置を受けていた病室をあとにすると、そのまま屋敷に戻ることにした。今日は宇佐美が足を運んでくれる約束になっている。二本ほど道を進むと、上等兵を示す軍衣を纏った男を見かけた。宇佐美か、いや、違う気がする。と、そこまで考えていたところで、その軍衣の男が振り返った。

「……なにか視線を感じるかと思ったら…お前か」
「尾形さん、ごきげんよう」

軍衣の男は宇佐美の同輩である尾形だった。そんなに気に障るほど見てしまっていたかとそれを軽く謝罪すれば、狙撃手は視線に敏感なんだ、と返ってきた。もっとも、実際そういうものなのかどうかはナマエにはわからないことだったけれど。

「お勤めのお帰りですの?」
「まぁな。今日は宇佐美も一緒だった。その辺にいるはずだが」

宇佐美の名が出て自分でも笑ってしまうくらい分かりやすく心臓が跳ねるのを感じた。不意打ち的に宇佐美に会うのには未だに慣れていない。どこかおかしなところはないかと鞄から手鏡を取り出して前髪や化粧の乱れがないかをこっそりと確認した。尾形がそれを鼻で笑う。

「わ、笑うことはありませんでしょうっ?」
「ははぁ。あれだけ宇佐美を嫌いだなんだと言っていた娘が随分な変わりようだと思っただけだ」
「わ、わたくしはただ身だしなみを確認しただけですわ!」

口で何を言っても勝てない気はしていたが、精一杯の抵抗である。なんだかんだと尾形とは関りが多く、宇佐美との確執のようなものだって彼は勿論承知のことだ。いまさら確かに自分の宇佐美に対する態度が変わったことは分かっているけれども、外からそれを真っ向と指摘されると気まずいし恥ずかしい。鏡を鞄に仕舞い、じろっと尾形を見つめる。彼はニヤニヤとナマエを見下ろしていた。

「あんな男の嫁とはお前も酔狂だな」
「あ、あんなって失礼ですわ!」
「ほう、お前が手綱を握られるもんか甚だ怪しいものだ」

余計なお世話を連発する尾形に何か言い返してやろうと思うけれど、ああ言えばこう言うを地でやっていくこの男にそれが通用するわけもない。それに、宇佐美の手綱を握ることが出来る日なんて、自分でも一生来ないのではないかと思う。そうこうしているうちに右の脇道からぬっと人影が出てきた。

「ナマエさん?」
「あっ、宇佐美さん…」

声の主は話題の渦中の宇佐美だった。何か用足しでもしてきたところだったのだろう。宇佐美はナマエの目の前に尾形がいることを見とめると、ずんずん距離を詰めてナマエと尾形の間に割り込む。ナマエには背を向けられているから、彼がどんな顔をしているのかは分からなかった。

「おい百之助、ひとの婚約者になにちょっかい出してるんだよ」
「人聞きが悪ぃな。その女がたまたま向こうから歩いてきただけだ」
「何話してたんだ。どうせろくでもないこと吹き込んでたんだろ?」
「べつに何でもいいだろう。ははぁ、嫉妬深い男は嫌われるぜ?」

内容がしっかり聞こえてこないけれど、言い争いをしていることだけはわかる。ナマエがぴょこんと宇佐美の背から顔を出すと、言い争いをしていたとは思えないほどのニヤニヤ顔の尾形と目が合った。

「そら、どうせ集合時間までは余裕があるんだ。そのお嬢さんを屋敷まで送ってやるんだな」
「言われなくてもそのつもりだよ」

宇佐美は忌々しそうにそう言うと、ナマエの肩を抱くようにして踵を返す。ナマエは振り向きざまの顔だけを残すようにして「ご、ごきげんよう」と尾形に挨拶をした。もちろん屋敷までは送ってもらわずとも変えることは出来るけれど、宇佐美もそのつもりのようだし、ナマエも一緒にいたいというのが本音だ。尾形からしばらく離れると抱かれていた肩が解放されてしまう。

「あの、宇佐美さん、本当に屋敷まで送ってくださるの?」
「ええ。なにか問題でも?」
「いいえ、わたくしにはありませんわ。お勤めのお帰りと伺っていましたから、いいのかしらと思って」
「ああ、良いんですよ。少し早めに戻ってこられたので」

そんな話をしながらも、意識してしまうのは先ほどまで抱かれていた肩の熱さと、それが無くなった物足りなさである。ナマエがもごもごとそれを言いづらそうにしていれば、宇佐美は「なんです?」と尋ねた。

「えっと…あの、その…」
「僕らもうすぐ夫婦になるんですよ。隠し事なんてあっていいわけありませんよね。違います?」
「そ、それはそうだと思いますわ」

それは宇佐美の言うとおりだと思う。夫婦間の隠し事は良くないと思うし、自分たちがそういう間柄になっていくのなら、しっかり話し合っていくことや、考え方を擦り合わせていく瞬間は出てくるだろう。今がその限りであるかは別にして、ここは何か言い訳をしても疑惑を深めてしまうだけかもしれないし、正直に白状するべきである。

「手が…」
「手?」
「肩を抱いてくださってた手が、離れてしまったのを、少し惜しく思ってしまったのです」

ナマエがそう言えば、宇佐美はただでさえ大きな目をぐっと見開き、それからにやにやにやと口元を緩めた。「忘れてくださいっ!」と恥ずかしさのあまりに言葉を撤回したけれど、白状してしまった言葉はなかったことに出来るわけではない。

「忘れませんよ。あなたの言葉はなにひとつ。いままでも…これからもね」

宇佐美はナマエの手を取ると「人目がありますからね」といって肩を抱くことはなく、その代わり異国の紳士の如く拳を腰に当てて三角形をつくり、その隙間にナマエの手を滑り込ませる。隣で歩くよりもお互いの体温を分け合っているような気がする。時重さん、と、名前を呼んだらどんな顔をするのかしら。ナマエはそっと、桜色の唇をひらいた。

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